花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

閑話休題 イザベラバードの旅①

2020年05月31日 | レモン色の町

イザベラバードの「日本奥地紀行」では、明治初期の地方の風俗が興味深く書かれている。

栃木という大きな町に着いた。宿屋は非常に大きいものだった。すでに六十人の客が着いていたので、私は部屋を選ぶこともできず、襖(ふすま)ではなく障子で四方が囲まれている部屋で満足しなければならなかった。かび臭い蚊帳はまったく蚤の巣であった。部屋の一方は人のよく通る廊下に面し、もう一方は小さな庭に面していた。庭に向かってほかに三部屋あったが、そこに泊まっている客は、礼儀正しく酒も飲まないという種類の人たちではなかった。障子は穴だらけで、しばしば、どの穴にも人間の眼があるのを見た。絶えず眼を障子に押し付けているだけではない、召使たちも非常に騒々しく粗暴で、何の弁解もせずに私の部屋をのぞきに来た。宿の主人も、快活で楽しそうな顔をした男であったが、召使と同じことをした。手品師、三味線ひき、盲人の按摩、そして芸者たち、すべてが障子を押し開けた。

湯沢は特にいやな感じの町である。私は中庭で昼食をとったが、大豆から作った味のない白い豆乳(カード)に練乳を少しかけた貧弱な食事であった。何百人となく群衆が門のところに押しかけてきた。後ろにいる者は、私の姿を見ることができないので、梯子を持ってきて隣の屋根に登った。やがて、屋根の一つが大きな音を立てて崩れ落ち、男や女、子供五十人ばかり下の部屋に投げ出された。

群衆はまたも激しい勢いで押し寄せてきた。駅逓係が彼らに、立ち去ってくれと頼んだが、こんなことは二度と見られないから、と彼らは言った。

外国人がほとんど訪れることのない高田(タカタ)では、町のはずれで出会うと、その男は必ず町の中に駆けもどり「外人が来た!」と大声で叫ぶ。すると間もなく、老人も若者も、着物を着た者も裸の者も、目の見えない人までも集まってくる。宿屋に着くと、群衆がものすごい勢いで集まってきたので、宿屋の亭主は、私を庭園の中の美しい部屋へ移してくれた。ところが大人たちは家の屋根に登って庭園を見下ろし、子供たちは端の柵にのぼってその重みで柵を倒し、その結果、みながどっと殺到してきた。

好奇心旺盛な日本人。こんな素朴さを忘れたくないですね。


市井からの眺め63弾丸列車⑬

2020年05月30日 | レモン色の町

大阪の湊町は関西鉄道の終点、

明治42年

山田は参宮線の終点です。

明治42年

引き込み線を多く持っているのは当然ですが、明治42年、四日市港の整備もいまだ出来ていない時代に(工場誘致のための国際振興博覧会<訂正:国産振興四日市大博覧会>は昭和11年でした)四日市駅にこれだけの引き込み線が必要だったのかな?

明治42年

と考えると、ふと、謎が解けました。関西鉄道本社が、私鉄時代には四日市だった。広大な引き込み線は関西鉄道の整備工場だった(島安次郎氏が勤務していた)のです。

下総人氏曰く「関西鉄道は四日市に本社と整備工場を持っていました。鉄道国有後、四日市工場は名古屋工場に移されて名古屋工場となりました。四日市工場の敷地は貨物車の組み換えを行う操車場となりました。

阿瀬知川沿いの転車台はこの操車場が出来た時に、その施設の一部として設置されたものです」

昭和51年撮影

もう一つ、先日掲載の機関車の正体です。

スミマセーン これはコッペル車でした。湯の山線を走っていた

追記:5月31日。下総人さんから上の錦絵について「1号機と随分形が違うとコメントしたところご返事がありました。ペリーが持ち込んだ模型機関車に運転室の覆いを付けると錦絵の機関車とそっくりさんです。あんな形の煙突や車輪配置の機関車は鉄道開業当時にはありませんでした。最初の10輌はすべて英国製。錦絵の機関車はどう見ても米国型に思えます。

 下総人氏から(上の写真の機関車について)「どこの機関車であるか解りました。京阪間<訂正:新橋 横浜間>を始めて走った10輌の機関車の一つで、後の台湾へ移籍されたものです。現在この10輌のうち3輌が保存されています。有名な一号機関車(150型と改番)は、鉄道博物館、

さいたま市鉄道博物館

110番は青梅の鉄道公園、

どうやら展示は終了のようです。青梅鉄道公園

そしてこの台湾の機関車です。ご参考まで」

下総さま、ありがとうございました。


市井からの眺め62弾丸列車⑫

2020年05月29日 | レモン色の町

下総人さんからお預かりした明治43年1月現在の「管内各停車場平面図」です。

ここに四日市駅の図がありました。明治43年というと、関西鉄道が国営になったのが明治40年ですから、国営後の鉄道構内図ということになります。このころ、島安次郎氏は大阪に移っています。

明治44年のマップと比べると、四日市港へ向かう広大な貨物の引き込み線の記入はありません。阿瀬知川南の転車台は、まだ出来てないのでしょうか?赤い点線になっています。

 

 


市井からの眺め61弾丸列車⑪

2020年05月27日 | レモン色の町

Webページを検索していたら、『安芸の国から・まぼろしの弾丸鉄道』にあたった。広島県西部の廿日市市の駅のホームに弾丸鉄道建設当時の杭が残されているそうだ。盗用させていただく。

日本国有鉄道(JRの前身)は、昭和14年に東京~下関間を9時間で結ぶ「弾丸列車」の計画を立て、将来は対馬海峡にトンネルを掘って、朝鮮半島経由北京行直通列車を走らせるという壮大な計画のもとに、翌昭和15年に建設が始められました。そのため用地買収は、広島県廿日市市でも行われ、買収用地には枕木を利用した杭が廿日市市を貫いていました。この遠大な計画も太平洋戦争の戦局が悪化したため、昭和18年度末に中止となり、買収用地は一転して食糧増産のために払い下げられ杭の姿も消えていきました。左方(八日市市佐方)で保存しているこの杭は、奇しくも当時の杭が洞雲寺の前に数本残っていたもので、大変珍しいものです。この駅は廿日市駅北土地区再整理事業として再開発され、田んぼも宅地に代わり、現在では過去の様子を再現することはできなくなりました。そのため、この杭を大切に保存して、弾丸列車の計画を長く後世に引き継ぐため、ここに保存いたします。   平成25年12月 左方アイラヴ自治会

丸印のところにあったという

墓標のように見える

 


市井からの眺め60弾丸列車⑩

2020年05月26日 | レモン色の町

明治11年、イザベラ・バードは、横浜から新橋まで列車に乗っている。

東京と横浜の間は、汽車で1時間の旅行である。素晴らしい鉄道で、砂利をよく敷き詰めた複線となっている。鉄橋あり、こぎれいな停車場があり、終着駅はしっかりと出来ており、広々としている。この鉄道は、英国人技師たちの建設になるもので、明治5年の開通式には、ミカドが臨幸された。

横浜駅は、りっぱで格好の石造建築である。玄関は広々としており、切符売り場は英国式である。等級別の広い待合室があるが、日本人が下駄をはくことを考慮して、毛氈を敷いていない。そこには日刊新聞が備えてある。広くて天井がつき石を敷き詰めたプラットホームへは、周り木戸を付けた関所が設けてある。切符切り《これは中国人》、車掌と機関手《これは英国人》そのほかの駅員は洋服を着た日本人である。停車場の外には、辻馬車ではなくて人力車が待っている。

英国製の車両は、英国にあるものと違っていて、左右の両側に沿って座席があり、両端にドアがある。一等車は、深々としたクッション付きの赤いモロッコ皮の座席を備えたぜいたくなものだが、ほとんど乗客はいない。二等車の居心地の良い座席も、立派なマットが敷いてあるが、腰を下ろしているのは実にまばらである。しかし、三等車は日本人で混雑している。

https://www.youtube.com/watch?v=nKe7znhL3bk

ユーチューブでも紹介 すみません また コピー 貼り付けでお願いします

コミック化もされている


市井からの眺め59弾丸列車⑨

2020年05月25日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

イザベラ・バードは、明治11年横浜に着いて以来、北海道函館へ向かって旅行を行った。その紀行文から当時の地方の暮らしが詳細に記録されている。この紀行文を民俗学者である宮本常一氏が解説している。「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」平凡社ライブラリーより “理想と現実の同居”

ここで、北海道の開拓が非常にアンバランスであることを書いている。

山道を15マイル登っていくと、七飯(ナナイ)という整然とした洋風の村がりっぱな農作物に囲まれている。ここは政庁が新風土馴化その他の農事試験をしているところの一つである。

政府自らが北海道開拓地にテコ入れして欧米風の村づくりが行われている。そう、満州の状況を連想させる。

奉天

新京

函館から汽船でつながったところの森(地名)は、噴火湾の南端に近い大きな村だが、今にも倒れそうな家ばかりである。村は砂丘の荒涼としたところで、たくさんの女郎屋(ジョーローヤ)があり、いかがわしい人間が多い。

と、ガラッと変わってくるのです。つまり日本の恥部ともいうべきところが政府の高級な開拓方針とは別に、そこへ行くと金儲けができるというようなことで、こういうような人が集まっていて、理想と汚い現実が並行して現れる。これは日本の持っている一番大きな弱点というべきもので、朝鮮統治の問題にしても、台湾や満州統治にしても、全部これが絡んでいるわけです。役人の建てた建物は新京でも奉天でも素晴らしく、非常に良い街を作り上げていったのに、そこに集まった人たちは、素性の良い人と悪い人が混在していた。これが日本の僻地における開拓の姿だったといってよいと思うのです。(宮本常一)

 森からの汽船が室蘭に着くと・・・

いろいろな宿屋から番頭たちが桟橋に降りてきて客引きをするが、彼らの持つ大きな提灯の波は、その柔らかい色彩の灯火とともに上下に揺れて、静止している水面に空の星が反映しているかのように魅力的である。


No.58椙山氏の『思い出写真をめぐって』⑨

2020年05月23日 | レモン色の町

前回掲載した写真ですが、四日市駅構内のことが書いてありました。

四日市駅東口

本稿組付け後に筆者椙山氏より、更に珍しい写真が到着したので掲載する。四日市駅構内を名古屋方より撮影したものである(大正中期撮影)

右側に四日市、三重両鉄道の合同駅舎が写っている。国鉄駅の西駅舎は未だ建っておらず、従って西駅舎とホームを結ぶ陸橋も架設されていない。列車を降りた乗客は東駅舎を経てこの写真を写した場所である駅の北側踏切を渡り、右に建つ合同駅へ急いだ訳で、乗り換えには遠回りの不便さが強いられていた時代であった。

合同駅は、東口からしか入れなかったのか

そういった訳でこの写真は大正11年までの撮影である。正面左側のホームと東駅を結ぶ陸橋は下の写真の陸橋そのものであり、陸橋の下には三本の線路が施設されていた(狭軌)

Aが東口 合同駅はまだ出来ていない

後年線路中心間間隔を広げるため、次の写真のように日本になった(広軌)

昭和51年撮影

中央ホーム先端の平屋建ては信号扱い所であり、中央と左端に写るポイント標識は夜間にランプを乗せる古い様式のものが設置されている。

平成20年発行「鉄道ビクトリアル」より 信号扱い所

左、信号扱い所の建物(平成20年)

現在、本町の踏切より南を望む

 


No.57椙山氏の『思い出写真をめぐって』⑧

2020年05月22日 | レモン色の町

Webよりコッペル車

四日市鉄道紹介で、安濃鉄道工事車両とあります 資材を運ぶのに使われていたのでしょうか? 追記 上と下は別の車両でした もっとちゃんとみます!

下の写真⑬は、四日市鉄道湯の山駅に到着のロコはコッペル(ドイツのコッペル社製)1号か2号機。キャブの高さが2153mmの背の低い超ミニサイズのタンクロコである。

 客車よりもずっと小さい

次の写真⑭は、四日市鉄道菰野駅から湯の山方面を望んだところ。煙を吐いて停車中のロコは、折り返し運転に備えて点検中なのか?昭和の初期にはこのように電車と蒸気の併用運転が行われていたようである(確かに、上には架線がかかっているのに煙を吐いたミニ汽車が停車している)

山の形といい雰囲気が出ている

このガイドブックは『三重鉄道 沿線案内』。四日市鉄道と三重鉄道の合同駅があるので、大正末から昭和初期になるか。椙山先生も追記してみえるが、左端、内部川に砂利採取場があってトロッコで内部駅まで運んでいる。八王子から生糸が運ばれるだけでなく、内部からは砂利が運搬されていたのだ。現在でも、少し上にのぼると土石工場が建っている。

 


No.56椙山氏の『思い出写真をめぐって』⑦

2020年05月20日 | レモン色の町

旧四日市を語る会 より

大正11年に伊勢鉄道(現 近畿日本鉄道)が関西線の西側に開通乗り入れをしたために、省線と伊勢鉄道の合同乗り入れ駅ができた。西駅である。玄関は北(名古屋方向)(東駅と同じ)を向いて建つ。中央の改札口を入って右へ行けば伊勢電(桑名〜大神宮前間)の乗場に、左に行けばブリッジを渡って省線のホームへ。左端のタクシーの向こう側に集札口があって、汽車・電車いずれから降りた客もここから外に出てくる(岡野先生はここで列車から降りてくる人を待っていた)。大八車の右は小荷物扱い所。街灯の下のボックスは公衆電話。手前のバスのサイドボードに、日永・内部・久間田・伊船・椿ゆきと書いてあって、窓のハンドレールに引っ掛けてあるだけ。三重鉄道の軌道車を笑えないような四畳半的ムードであった(四畳半の意味不明です、先生!)。

 昭和6年の諏訪駅。伊勢電に乗って四日市の次の駅。東海道の踏切を越えたところにあった。

島式ホーム(線路の真ん中にホームがあった)には伊勢電の201型らしい桑名行が発車していく。そのすぐ左に四日市鉄道の湯の山からの列車が到着?更にホームの隣には内部行きの軌道車が客を待っている。(伊勢線の上り下りのホームの南に、湯の山線と内部・八王子線のホームが並んであった。(そりゃ狭いゎ)

 カメラは今、東海道筋の踏切に立って西方向にシャッターをきったところ。この駅は昭和17年まで存在したが、昇降客の激増で島式ホーム(真ん中がホームで両脇に電車が着く)を西へ延長しても追いつかず、関急時代にこれより西数十メートル先にあった貨物駅と三重鉄道の構内線路を取り払って相対式のホーム(線路を真ん中に北と南側にホーム)を持つ駅に改造された。(四日市鉄道は三重鉄道へ昭和6年3月18日合併した)

サンシ前から東北方向に撮られた写真,というよりもサンシ店内の位置になるのでは?

戦前のスワマエ・東海道筋(旧四日市を語る より)

昭和43年のスワマエ

追記:下総人さん申し訳ありません。ヒカリ模型さんがマップの右で、半分欠けてしまいました。よく伺いました。狭い店内の奥からおじさんが顔を出し(目が細く四角い顔でした)、入って左側が陳列ケースでした。並びの左、すわとんさんやダイヤパンさんは馴染みのお店でした。


No.55市井からの眺め 閑話休題

2020年05月19日 | レモン色の町

四日市駅西側の合同駅の図面を 椙山先生が書いて見えました。再掲載です

下が西です 駅舎真ん中の給水塔が後々まで残っていたそうです

平成元年11月発刊の『旧四日市を語る』の巻頭に、岡野繁松先生が四日市駅のことを記してみえた。これも再掲載です。

四日市驛は、濱田(四ツ谷)にあり、当時は関西線の東駅と西駅があった。東駅は明治23年に関西鉄道の駅として開設されただけあって古い建物でだだっ広い感じであった。

昔から貨物輸送が多かったためか貨物駅とも呼ばれていて、合同運送の事務所が駅前にあった。駅舎に入ると右に切符売り場、正面が改札口になっていた。駅舎の南(正面)の庇の下が通路になっていて、そこを通って左(南)に折れ陸橋への階段を上った。陸橋を渡ってプラットホームへ下りた。駅舎の西側には交番があった。東側には運河が入り込んでいた。関西橋が名残りである。この南側辺りは大正13年まで関西鉄道四日市工場の跡地のようであった。

東駅

 西駅は、省線(明治40年国有鉄道となる)の関西線になってから、大正11年に四ツ谷町に開設された。外壁は白亜、スレートぶき屋根の西駅舎は、東駅の古さに比べるとスマートであった。駅舎は東駅と同じように北向きで前には広場があった。右側には売店と便所があり、左には欧風を思わせる桟の多い電話ボックスがあった。中に入ると両側は待合室になっていて、天井にはプロペラ型の扇風機が吊るしてあり木製の長椅子がいくつかあった。右側は切符売り場、左は小荷物の受け渡し窓口で大きなはかりが置いてあった。正面が改札口で、右は参宮急行(電車)、左は関西線(汽車)で、汽車に乗るには、東側の階段を上がって陸橋を渡りプラットホームへ下りた。陸橋を渡るとき汽車の煙で咽んだりした。出口専用の改札口が駅舎の東側にあり、待合室の東寄りの窓から見ていると降りて来る客がよく分かり、迎えに行った時には此処で待った。電車に乗るときは複線になっていたので、線路をまたがなければならなかった。

西駅

西駅前 昭和11年

 駅員が転轍(分岐)している様子がよく見えたし、阿瀬知川の南側(昌栄町)にあった操作場で機関車の向きを変えていたのを飽きずに見ていたことを思い出す。

鉄道ビクトリアルH.20より

午起に夏季の間だけ臨時停車駅ができた(午起海水浴場)。

夜汽車の汽笛が当時は家にまで(八幡町)よく聞こえた。哀愁を帯びた音であった。おそらくその頃は、さえぎる大きな建物が少なかったからではないだろうか。