花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

江戸のお正月 2

2005年12月30日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
江戸っ子は元旦、初日の出を拝みます。今年亡くなられた杉浦日名子さんの「お江戸風寮さんぽ道」(小学館文庫)からです。
時は年に2回の掛売り商売がほとんどでした。落語にもよく出てきますが、とにかく晦日の集金を何とか逃れれば、めでたくお正月を迎えることが出来ました。
正月はめったにない骨休めの日。江戸っ子は初日の出を拝んで、今年1年の福を体いっぱいに浴びた後、お屠蘇を飲んで家でごろごろします。なあんにもしない、これが何よりのお正月です。風呂に入ると福を流す、掃除をすると福を掃きだすとげんを担いだからです。あたりはまったくの静寂。遠くで子供の羽根突きの音がこおん、こおんとかすかに聞こえます。
の頃、武士は年始のあいさつ回りで大忙し。切り詰めた家計の中でやりくりをしていますから、連れて歩くお供が居ない。そこで臨時募集を掛けます。日当も弾むでしょうが「てやぁんでぃ、正月早々から働けるかょ」となかなか相手にしませんでした。
松は長屋総出で作ります。お正月に来る福神様が留まる目印となるのです。今は松・竹・梅で門松は出来ていますが、江戸では長く伸びた笹を束にして松で巻き上げました。各長屋の木戸口に立てられた笹の葉が風を受け、二階の障子をサラサラとなでます。この音を聞くと江戸っ子は「ああ正月なんだなぁ」としみじみ感じたそうです。
屋総出で作った門松に、歳神様が降り立つ気配を感じながら皆の幸せを願います。大家さんから頂いた鏡餅を台所に飾り、醤油と揚げで炊いた雑煮と、日持ちのする濃い味の煮しめのおせち料理で、お酒をちびちびと飲んでお正月を過ごしました。
いぶん質素ですが、心豊かな江戸のお正月でございました。
様も、どうかよいお年をお迎えください   って、明日のブログ、サボるつもりか?
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下級武士の食日記 最終章

2005年12月28日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
「幕末単身赴任 下級武士の食日記」青木直己著(NHK出版)の最終回でございます。
勤交代で紀州から江戸に赴任してきた酒井伴四郎は、赤坂の紀州半中屋敷の長屋で、いっしょに来た叔父の宇治田平三らと共に共同生活を送ります。面白いのは、伴四郎にとって親類であり上司でもある叔父の性格に手を焼いているのです。いつの時代も人間関係のわずらわしさは同じとみえます。
暦7月28日。隣長屋の児玉氏から、あじの干物25枚をいただいたと日記にあります。当時は高級な食材、大喜びでその日は茶づけで晩御飯を済ませ、明日の昼にとっておこうと思っていたら、叔父が真っ先に食べてしまいました。仕方なしに皆で夜食にしています。当時は昼にご飯を炊き、その夜と翌朝は冷や飯でした。翌日、叔父は食べすぎでおなかを壊しています。
屋での共同生活は、味噌、醤油、酢などの調味料とご飯は共同で、各自のおかずは個々でまかなっていた様子です。伴四郎が炊いた昆布の煮付けも、この叔父に半分取られたりしています。おまけに叔父の食べすぎは常時で、とっておいた「人馬平安散」という大切な漢方薬もほとんど飲まれてしまいました。几帳面な伴四郎に対してルーズな性格の叔父には、影で愚痴をこぼすことしきりです。
月8日。叔父は、下血をして気分が悪いと昼飯を抜いていたのに、伴四郎の注意にも耳を傾けず、外へ汁粉を食べに出かけています。9月20日。浅草見物から帰ると、数日分の大切なおかずである人参の煮つけが、叔父に食べられてしまいました。買い置きはもうこりごりと嘆いています。こんな人、何処にでも居そうですね。
四郎は、浅草が気に入ったのか何度も出掛けています。紀州中屋敷からは7キロほどの道程を歩いて出掛けました。まず、向島の三囲(みめぐり)神社を参拝して桜餅を食べながら隅田川の眺めを楽しんでいます。隅田川を渡って待乳山(まつちやま)聖天の祭礼を見物、その後、浅草で「名物金龍山浅草餅」を食べています。浅草見物を終え、すしと祇園豆腐を食べ、夜の日本橋を通って帰路についています。
にまかせてよく出かける伴四郎でしたが、彼の日記には外出は、出費がかさんで叶わないと言っています。限られた収入の中での生活は大変だったのでしょう。けれど、おかずの工面が出来ないときは朝昼兼用で済ませたりして、いたってのんびりと江戸の生活を楽しんでいた様子がうかがえました。
延元年。幕末の動乱期に向かう時代ですが、世情にあまり関心のない伴四郎は故郷紀州に帰り、江戸で見たことを自慢げに話したことでしょう。
末の頃は、世間がひっくり返っていたのではないかと思いがちですが、一般市民は、いつもと変わらない太平楽を決め込んでいたに違いありません。
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大入道騒動大変談

2005年12月26日 | おいらの商店街
ススム会長が、表参道スワマエの道路の真ん中にとんでもないものを持ち込んだ。
ヶ月前にさかのぼる。四日市市立博物館の倉庫に、大入道の少し小さいのが保管されている。これを商店街に持ち込んでは如何か?といってきた。この入道は新道通りのいちょうやさんが以前に作られたもので、お祭りになると、本物の大入道といちょうやさんの中入道の対面が見られると評判を呼んだものだ。
ちょうやさんがお店を閉められる折に、博物館へ寄付をされていった。誕生して何十年、博物館の倉庫で十何年という代物だ。さぞかし年代ものになっているだろうと期待していた。
スム会長は独断と偏見で、倉庫から引っ張り出し、クリスマスに合わせて中入道にサンタの服を着せて1番街に飾った。会長の実行力には感心する。中日新聞に載って、結構話題を呼んだ。
れがサンタの衣装を剥いで、本日、表参道に出現した。すっかり黒くなった衣装。土方焼けしたような顔。それが夕方になると電動で、ヒクヒクと首を伸ばして動く。ボロ布の雑巾があえいでいるようにみえる。正直、不気味だ。中入道は栄養が十分でなかったのか、やや痩せ気味だ。それが動く。気味が悪い。
まりボロクソに言うと、いちょうやさんに申し訳ない。お金をかけて作られた努力を無にしてはなるまい。顔の化粧をしなおして、衣装も新調すれば、良くなるだろう。オイラは、火災の危険を申し上げてきた。この際、不燃性の衣装が必要となるだろう。きれいになれば、スワマエでの評判を呼ぶことになる、と会長は鼻と夢を膨らませている。
い商店街に、不気味な中入道は似合いかも(ススム会長談)。今も恐る恐る覗いてみたが、雑巾の巨大な塊がヒクヒクと動いている。よりにもよって、オイラの店の横に持ってくることもなかろう。
スム会長が、布団ハタキを100均さんで買ってきて置いていった。今夜、店を閉めてから中入道の衣装をこれで叩くそうだ。さぞかし埃が出るだろう。埃の割りに、きれいにはならないゾ、きっと。
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幕末単身赴任 下級武士の食日記パート2

2005年12月25日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
本日も「幕末単身赴任 下級武士の食日記」青木直己著(NHK出版)の本からであります。
延元年旧暦の5月29日、紀州藩の酒井伴四郎は参勤交代で18日かけて江戸に到着します。見るもの聞くものが珍しく、6月1日に早速、伴四郎は連れ立って江戸名所を見に出かけます。すぐに仕事というわけでなく、観光から始めるところなど、いたってのんびりとしています。
ず、江戸城へ登城する壮観な大名行列の見物です。朝、登城した付き人達は、桜田門や大手門の前で殿様の帰りを待ちます。これを目当てに屋台が出ました。田楽・甘酒・清酒・すし・作り菓子などを食べ、おしゃべりをして時を過ごしたのです。この年の3月3日、桜田門で井伊直弼が殺されています。伴四郎たちはこの大事件に余り関心がありません。
月17日には、愛宕神社から江戸の町の眺望を楽しみ、帰りに増上寺に立ち寄っています。甘酒とすしを食べ、お土産に子供の腹掛けと煙草入れを買い観光を楽しんでいます。紀州に居る子供を思い出した伴四郎でした。
月21日。家老である安藤家へ、菓子折りを持ってご挨拶ですが、四谷の祇園天王社の御輿見物のために延期しています。曲太鼓や角兵衛獅子を見たりして、多少の日程変更はどうでも良い感じです。
月24日、伴四郎たちは渋谷藩邸を訪れてご馳走になっています。あじの干物・からすみ・いさきと芋にぜんまいの甘煮とどじょう鍋(柳川鍋)でお酒をいただき、帰りに立ち寄って、汁粉2杯とすしを食べています。すごい食欲であります。
勤日は6月3日からでした。午前中の2時間ほど。6月は6日間のみ。7月はなし。8月は4時間勤務が13日間。9月から10日間ほど出ているだけです。これでは時間も持て余し、江戸見物に余念がないのも当然です。
ったいどんな仕事をおおせつかっていたのでしょう。伴四郎の叔父、宇治田平三は膳奉行格衣紋方という役職で、いわばお殿様の装束に関する責任者でした。お殿様の登城に、装束には細かいしきたりが決められていました。忠臣蔵はそのトラブルが原因でしたネ。伴四郎はこの叔父に付いて衣門方の役をおおせつかっています。
11月24日。叔父と連れ立って江戸の豪商三井家で、お殿様に衣装を着せる稽古をしています。このあと接待を受けています。ぼらの味噌汁・蒲鉾・芋・なが芋・たまご巻・ぼらの刺身・貝柱・生海苔・大根で酒を飲み、蒲鉾の味噌汁・芹・椎茸・蒲鉾・麩で飯を食べ、菓子の土産付きでした。
貢の上に胡坐をかいていた、武家社会の爛熟振りがうかがえます。切り詰めた収入で伴四郎の生活は、さほど豊かなものではありませんでしたが、好きな自炊を楽しんだり、三味線の稽古に出かけたり、湯屋の二階で話し込んだりして、結構持て余した江戸での時間を有意義に使っています。
いうことで、今日はおしまいです。
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年末奇譚

2005年12月24日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
本日は、実入りの少ない、奇妙な日だった。数日前、中年のご婦人が店に訪れ古いお仏壇の処分をお願いしていかれた。携帯の番号と、引き取り先の住所を聞いておいた。
束の日が今日だったので、さっそく電話をしてみた。話し中。30分ほど掛け続けた。話し中。引き取り先の住所を地図で探すと、とんでもない番地だった。諏訪栄町100000番10000号みたいなものだ。これ以上追求の仕様がない。
きらめて、今日の予定を逆方向に回ることにする。もうひとつの用件は、仏具の飾り方がさっぱり分からないとおっしゃる。行って並べなおしてあげようじゃないかと、車を走らせた。20年ほど前に配達した家だった。応対に出たのは若い奥さん。まだ二十歳代だ。自分はクリスチャンなので仏壇のことはさっぱり分からないとおっしゃる。
に入ってびっくりした。廊下は大きな犬が歩き回っているように汚い。つま先で座敷に入る。布団が敷いたままだ。あたりが雑然として寒い。もっともこれで暖房を入れたら臭くて叶わないのではなかろうか。まるで掃除がしてない。
具の飾り方もめちゃくちゃだ。お買い上げ当時は確か両親が居たが、今は存在している様子がない。その割には位牌がない。一帯全体どうしたのか。この家に何があったのか。
べ直している内に、おかぁんからお呼びがかかる。先ほどの引取りの方が待っているという。早く戻れときついお達し。車を飛ばした。そういえば先ほどの家では、お礼の一言もなかった。金銭をもらうつもりはなかったが。
取りの家ではおとなしそうな青年が待っていた。築後15年ほどの家だが引越しの途中か、家の中は、やはり雑然としている。土足で上がってくださいとおっしゃるので恐る恐るあがらせてもらった。お母さんも息子も離婚してこの家を手放すことになったそうだ。何の未練もない家だから、住所の記憶もあいまいだったのだろう。どうでもよい家、ということになる。唯、仏壇の処分に困っていた様子だ。引き継いでお祭りする気は、毛頭ないのか。
日は寒々とした。以前にオイラは、バチは絶対あたらないと言ったが、もう少し恐れおののく気持ちがあっても良いのではと思う。昔はこんなことするとバチがあたるぞ、とよく言われた。現代では怖いものがなくなってしまった。人間以上のものに敬虔な気持ちを持つことがない。
れから日本はどうなっていくのか、なんて年寄り臭いことを考えさせられた1日でした。
追伸
まさか、お客さんがこのブログを見るはずは
ないでしょうね
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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雪の諏訪神社

2005年12月23日 | おいらの商店街

ゆ~き~は、降る。お客は来ない。昨日はとんでもない日になった。
日の朝。スワマエ売り出しの景品をトラックから出すため商店街へ急いだ。千賀ちゃんに手伝ってもらい、カップラーメンやお茶を売り出し会場へ下ろした。朝早くには晴れていたのに、現在どんどん降っている。駐車場に入れようと思ったが、いや待てよ、住まいまで移動しておこう、と駅前に差し掛かった。
が地面を走る。信号で停止した。動くかと心配だったので少しアクセルを踏んでみる。滑ってびくともしない。バックミラーにはバスが大きく写っている。もう一度アクセルを踏みなおす。滑りながら少しずつ動く。このまま止まらないように転がした。前を横断の人が行く。早く信号が変わるように祈った。人を3人ほどひき殺して進んだ、というのは嘘です。
に仕事が残っていたので、もう一度歩いて戻った。きゅっ、きゅっ、と雪を踏む。辺りは静かだ。遠くで聞こえる子供の声が雪に吸い込まれていく。これで車のチェーンの音がなかったら、まったくの静寂だろう。歩く。唯ひたすら歩く。江戸時代はこんなだったろうと、江戸名所図会を思い出した。
事を済ませ、諏訪神社へ写真を撮りに寄り、坂内で、ねぎラーメンをご賞味しさせていただいた。ここのねぎラーメンは旨い。バシバシとねぎを噛みながら麺をすする。チャーシューでご飯をかっ込む。今日は休みだから、御褒美に中ビン一本も頼んだ。なんとなく、くらくらして満腹だ。江戸の人もこうやってくらくらしたのだろうか。
先週も食った。その後振興組合の会議で、横に座ったコスモパパに、なんか臭いと言われた。ねぎの匂いだ。その時ビールは入っていなかった。誰かさんは酒を飲んでいたが。臭いものは何でも旨い。
び歩いて帰る。1号線は車の渋滞。本日はお正月だ。うちに帰って本格的に飲みなおそうか。昼間の酒はいつまでも尾を引いていた。
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幕末単身赴任 下級武士の食日記

2005年12月20日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
万延元年(1860)紀州和歌山に住む酒井伴四郎は、参勤交代のため江戸に単身赴任する。几帳面な酒井氏は、江戸での日々の暮らしや食べ物について事細かに書き残していた。
白い本を見つけた。「幕末単身赴任 下級武士の食日記」青木直己著 NHK出版生活人新書。万延元年5月11日。和歌山を出立した一行は、大阪から中山道を経由して18日間かけて江戸に到着している。
月11日は新暦で6月20日。梅雨のさ中の旅立ちで、洪水やがけ崩れに遭遇しているが、当時の旅はいたってのんびり、今のように時間に追われることはない。淀川の増水を理由に大坂見物に2泊したりしている。
の途中、どんなものを食べているのだろう。樫の井宿で蛸を肴に酒を飲み、堺ではあんころもち4個、大坂で虎屋饅頭、草津で姥が餅5つ、木曽で篠原餅、擂鉢峠でまたあんころ餅、上松でわらび餅と柏餅、とちの木村で栗粉餅、塩尻峠では茹で卵、桔梗が原で栗餅、碓氷峠で「峠の力餅」。安中宿で芋饅頭の油揚げ。餅の名物が多かったのだろう。先々でいろんな餅を食べている。
いものをよく食べているが、昼間から酒も飲んでいる。レンコンの油揚げで味醂酒(焼酎+もち米+麹)を一盃、きゅうりもみで焼酎、うどんと生節で一杯。そうめんで酒一合とそれほど量は多くないが、暑気払いに一杯と、ほろ酔い気分で旅を続けている。途中で名所見物をしたり、女郎をひやかしたりの旅だった。
うやく江戸に付いた伴四郎は、赤坂の紀州藩中屋敷に入り、挨拶回りを済ませて買い物に出ている。どんなものを買ったのか。火箸・土瓶・風呂火口(火吹き竹)・着物を吊るす衣紋竹・取っ手の付いた陶器の平鍋など、とりあえず始める生活の様子が垣間見える。
戸の町には3763店の蕎麦屋があった。ひとつの町に必ず1軒はある勘定だ。しかも屋台蕎麦屋は別だから、いかに江戸の人がそばを食していたかが分かる。伴四郎も買い物帰りに蕎麦屋に立ち寄っている。
時の蕎麦屋のメニューが載っていた。御膳大蒸籠(48文)・掛け蕎麦、盛り蕎麦(16文)・あんかけうどん(16文)・あられ(24文)・天ぷら(32文)・花まき(24文)・しっぽく(24文)・玉子とじ(32文)そして、上酒一合(40文)。
四郎の江戸でのグルメ体験はこのあとも続く。またの機会に。なぜなら、ここまでしか読んでないのです。
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喪中ハガキ顛末記

2005年12月14日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
年末になると喪中のハガキが出回る。新年のご挨拶を控えさせていただきます・・というやつだ。
かげさまで、知り合いからお知らせをいただいたと言って、お客様が進物線香を買いにみえる。オイラのところも、この1月にお袋を亡くしているからハガキを出したら、昨日も御仏前を持って来ていただいた方があった。
Kさんもかなりご高齢でいろいろとお話していかれた。白内障の手術を先日されたということだ。顕微鏡を見ながら角膜をめくり水晶体を取り替えるそうだ。麻酔も要らない簡単な手術で、片目だけではかえって見づらくなるので、日を変えて片方ずつ行った。
回目は緊張のあまり、少しも痛みは感じなかったが、2回目は痛かった。先生痛くないとおっしゃったのに2回目は大変だった、なぜか?と聞くと、緊張していると痛くない。そんなものだとの答えが返ってきたそうだ。長すぎる緊張は体に悪いが、適度な緊張は必要なのだろう。
魔に犯されながらもKさんは150歳まで生きたいとおっしゃる。でもねえKさん、あまり長生きするのも大変ですよと話した。友人や孫が先に亡くなっていくのを見届けるのもつらいことだ。
っぱのフレディ」という絵本を以前読んだ。変化は自然の摂理で、生まれ、生き、死ぬことは当然の流れだ。満足な人生を送るためには、精一杯生きて人に尽くし、喜びのうちに次の変化を迎えよう。そんな内容だったと思う。人に尽くす、というところが難しい。
は御仏前を届けに知り合いのMさんをうかがった。Mさんは10月に弟さんを亡くされている。オイラが小さい頃よくかわいがってもらった。会うや否や「武ちゃん、年取ったなあ」と頭を見ておっしゃる。毎日見てるとそうでもないですよ、とオイラは苦笑い。そう言うご当人も長い髪の毛にマダラ禿だ。お互い頭を見ながらのご挨拶になった。
Mさんはあまり仕事好きでないタイプで、事業の大半を弟さんに押し付けていた。病状が出てわずか2ヶ月だった。おかげで仕事の段取りが分からず悪戦苦闘の年末を迎えてみえるらしい。
れはMさん、罰ですよと、やんわり禿のご挨拶のお返しをしておいた。
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年末雑感

2005年12月13日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
年の瀬のあわただしさが押し寄せてきます。ああ、時の経つのがあまりにも早い。
べ風がひどく今朝は雪かと思っていたら、そんな気配はなかった。あまりの寒さに本日より店に全館暖房を入れた。もったいない。今まで石油ストーブで辛抱していた。おっかあが毒づく。石油ストーブは体に悪い。空気を吸っていると気分が悪くなる。それなら表にたっとれ。などと口が裂けても申せない。
ショナルはんは、石油ストーブの具合が悪いとかで交換にあたっているようだ。昭和60年ごろの商品だから、今でも使っている方は居るのだろうか?うちも確か使用していた。捨ててしまったから、残念!さびだらけのを蔵から引きずり出してきて、せっせと掃除しても交換してくれるのだろうか。そんな輩も広い全国にはみえるに違いない。
画「三丁目の夕日」を観てきたとシーズがおっしゃってみえた。昭和30年のお生まれだから、当時の雰囲気は懐かしいと感じられたらしい。唯、氷を入れる冷蔵庫は知らないという。JRのほうにあるアンデレセンターの車庫に、しばらく物入れとして置いてあったのを見かけた。上が氷入れで、下に食品を入れる。氷の中に頭を突っ込んで、刃のついた手に入る大きさの氷かきで、鉋のように氷を削る。たまった氷に蜂蜜をかけてたべた。
キサイトバザールの市からの助成金が、来年は減額の気配という噂を聞いた。せっかく今年並みの予算でスタートしているのだから、何とか昨年並みを捻出していただきたい。何度も申しますが、これは全四日市市民お楽しみのイベントに定着している。予算が立たずに頓挫してしまっては、四日市の顔である街に失望する人がワンサと出るに違いない。
末。本業の商いはいたって暇なのだが、気分だけは一人前にあわただしい。
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エキサイトバザール2006開催決定???

2005年12月11日 | 諏訪商店街振興組合のこと
2006年のエキサイトバザール開催が決定した。主催者の諏訪商店街振興組合では、実行に向けての準備会と理事会で審議が進んでいる。ところが・・・・
算が心配だ、前年並みの資金が集まるかどうかの心配が付きまとう。主催者振興組合も厳しい経営に予算削減の意見が出る始末だ。ちょっと待ってよ御大将、主催者側の予算をいの一番に削っては、協賛する組織も右に習えして削減にかかるではないですか。これはさすがに訂正され、昨年通りの予算で行くことになった。錦の御旗は立つことになった。
川氏が言うように、エキサイトバザールも次回で15回を迎える。今や四日市市のイベントとなり市民に定着している。8月の花火大会が一時中断され、ブーイングの中で今年は再開された。エキサイトバザールも、万が一中止になればその反応は大きいに違いない。
のエキサイトバザール、夏の大四日市祭り、秋の四日市祭り、そしてまちなか文化祭は、いまや中心商店街にとって大切な行事となっている。市民が街に目を向けてくれる四大イベントだ。
ャスコ跡地のマンション建設も2月に向けてようやく動き出した。ギャルボ跡の飲食街の工事も始まった様子だ。忘年会シーズン真っ盛り。夜の飲食外も騒がしいし、駅西のアピタも賑わいを見せている。今が底で、これから四日市の街はよくなっていくに違いない。
訪新道も赤川金物屋さんの一角にマンション建設が決まった。市内に住居する人々が増えつつある。ここでエキサイトバザールを頓挫させてしまってはならない。
れわれは、街の長い歴史のほんの一翼を担っているに過ぎない。先人から受け継いだ街という財産を、次世代につなげていく義務がある。責任がある。街の存続を問われている
が一番大事なとき、かも知れない。
日のブログは、何の面白みもなかった。肩の張りすぎに、反省!
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