花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

掃部塚(かもんどづか)秋景

2012年11月27日 | レモン色の町
商工春秋12月号が届きました。

今月は水谷百碩画伯(1868~1928)の“掃部堂(かもんどう)の秋景”です。
天正3年(1575)の浜田城落城の時、浜田家の家臣中川掃部助が戦死した場所を地元では、かもんど(掃部殿)塚と呼び、祠(ほこら)も設けられていました。
百碩は、掃部堂(かもんどう)という字を当てたようです。
たわわに実る稲穂と雀を追い払う鳴子の様子が鬱蒼とした森と対照的に描かれています。
現在もかもんど(掃部殿)塚は、天理教四日市分教会の中に残されています。(四日市市立博物館蔵)


天正3年(1575)織田の軍勢に攻められた浜田(鵜ノ森)城主である遠江守元綱の家臣中川掃部助は、恨みを呑んでこの地に果てました。
以来、塚の周辺は鬱蒼とした森となり周辺住民に恐れられていましたが、現在は、四日市天理教境内にその碑を残すのみとなりました。


元気な中心商店街を!

2012年11月26日 | おいらの商店街
今年も“よさこい祭り やったろ舞”が中心商店街を舞台に繰り広げられ、終日元気な踊りでにぎわいました。


また昨日は四日市市長選の投票日でもありました。
当選 田中俊行 56792票
     伊藤昌志 24288票
     谷口りつ子 3582票
田中市長は「元気な産業と輝く文化のまちを目指します」と、二期目に向けての抱負を語りました。
よろしくお願いいたします。

中心商店街雑景

2012年11月24日 | おいらの商店街
鵜の森公園の紅葉がちょうど見ごろです。桜の木が晩秋にはこんなに美しくなるとは・・・・

もみじの赤もきれいです。

駅前中央通りのライトアップも始まっています。

せっかくですからここを公園にしてはいかがでしょうか?四日市大学の生徒さんからも提案していただいています。
辻さんの写真。昭和40年7月31日。ちょうど反対に当たる農協前から撮っています。楠の木も大きくなりました。

文化の諏訪駅からイベントのお知らせです。


“おもちゃ箱”で思い出しました。

昭和31年8月30日。キタオカさんの前に当たる諏訪駅跡地で“歌のびっくり箱”と題した歌謡ショーが開かれました。
まぁなんと大勢のお客さんが押し寄せたことか。

繁盛店を目指して!

2012年11月21日 | 諏訪商店街振興組合のこと
商店街の繁栄は、まず個店の繁盛から!

11月20日から“全国商店街支援センター様”にお願いしていた6カ月臨店研修が開かれ、参加希望があった6店舗を中心に、繁盛店づくりを目指して勉強会と実施が始められました。
昨日、東京からお越しいただいた“日本コンサルタントグループ”地域経営研究所 所長の牛久保修一さんとコンサルタントの相楽 守先生に6店舗を回っていただき、第1日目は全体研修、2日目は1日かけて臨店の後、参加店研修を行いました。
各お店の抱える悩みをじっくり聞きながら、どうすれば見える形での繁盛を目指すことができるのか、知恵と汗を出し合って改善してまいります。
商品知識のプロになろう・店内が良く見えるファサードを・文化や風習を伝えるお店を目指そう・季節ごとのウィンドゥの模様替えを・マスコミが取り上げるような話題づくりを・一店逸品を・共同チラシを作ろう等、実施に向けての具体的方法が出されました。
今回の臨店研修が終了を迎える平成25年2月27日には、全員で成果を喜び合えるような、そんな日を迎えたいと楽しみにしています。
第2回 臨店研修と参加店会議は12月19日に開かれます。
追記
市の商工農水部から山口さん、商工会議所から水谷さんにアドバイザーとして参加をいただきました。
お忙しい中お越しいただき、ありがとうございました。

昭和不況の中の映画

2012年11月19日 | 諏訪商店街振興組合のこと



なんとこの映画は、昭和11年に公開されました。
当時は2.26事件が起きた年です。身売りが行われ、朝鮮人労働者が強制労働に従事された、そう云った不穏な世相を反映した映画です。
にもかかわらず、南伊豆を走る路線バスにはあまり暗さが感じられません。
運転手(上原健)は道行く人すべてに「ありがとう」と声をかけながらバスを走らせます。それはリズミカルですら感じられます。
驚くべきは、江戸時代から変わらずに営まれ続けていた伊豆半島の世相が描き出されていることでした。
これは貴重なフィルムです。私たちは、江戸・明治・大正・昭和と一定の印象を持って意識づけてきました。しかし、地方の人々の暮らしは、学校ができたことや、バスが走るようになったことぐらいで、人々の生活そのものはそれほど変わってはいませんでした。
大きく変わったのは昭和30年代以降だったでしょうか。
ゆっくり、のんびり、時の流れは時代に左右されまいとばかりに過ぎていきます。けれど、時代の不穏な流れは、しっかりとこの地方にも浸透してきていました。
この映画はハッピーエンドで終わります。フランク・キャプラの“或る夜の出来事”の影響を受けたと聞きました。
心地よく楽しい、人生に元気が出る、素晴らしい映画です。
この映画を推薦していただいた方に、深く感謝したい気持ちです。

失敗は成功のもと!

2012年11月15日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
14日付の中日新聞“紙つぶて”より

ハリーさんの人生訓は「失敗を生かす」です。
「失敗をしたことがない人には大きな仕事は任せれない」
“失敗は成功のもと”失敗を恐れず挑戦する心意気こそ大切です。
そして失敗を体験に再び挑戦する意気込みこそ、
大切な
たった一度しかめぐり合うことのできない
生きている 人生への
アカシだと思います
失敗を 恐れるな!
失敗に くじけるな!

再び 午起海岸のこと・・・

2012年11月13日 | レモン色の町

昭和15年ころの午起の様子です。

昭和24年の三滝川河口 浚渫工事の様子です。三滝川から流れ出る白い砂は河口の午起に白い砂浜を作りました。
船の出入りのためには、しばしば河口の砂を取り除かなくてはなりませんでした。

昭和28年ころの航空写真。中央の十字路に立つ二階家が午起バス停でした。ここから右へ進んで、午起住宅を過ぎると、そこに高い堤防がありました。母親に連れられて海水浴に行ったころは、多分この頃だったのではなかったでしょうか。美しい砂浜は、すぐ近くにありました。

バス停付近から東北を望んだ写真は昭和40年ころです。
すでに海岸は埋め立てられて火力発電所の煙突が望まれます。
名四国道をまたいだ午起住宅地は陸の孤島となり、やがて姿を消すこととなります。

昔日の午起

2012年11月10日 | レモン色の町
商工春秋11月号より 四日市十二景 水谷百碩画伯による“午起の綱引き”

現在、第二コンビナートが建ち並ぶ午起は、昭和30年(1955)頃までは海水浴場として親しまれていました。この絵は、漁師が地引網をしているところで、画面右上には白い灯台と稲葉町から延びる四日市港の防波堤が描かれています。綱を引く人の他に手に網を持った赤ちゃんを背負った女性や子供の姿が見えます。

中央を流れる三滝川の右側が午起海岸。明治44年の地図より
昭和30年代初め、まだ幼児の頃だったと思う。母親に連れられ午起でバスを降りた。バス停は乗り降りする人やバスを待つ人で賑やかだった。正面に高いコンクリートの堤防が迫っており、そこを超えると一面の砂浜に大勢の人が海水浴を楽しんでいた。
小学校のとき学校から午起に出かけた。帰ると体中油の斑点だらけで、店の売り台に立たされシンナーのようなもので拭きとられた記憶がある。すでに海は汚されていたのだろう。
早朝、友人の正ちゃんと自転車で午起へ走った。当時は名四国道の工事中で部分的に道路が出来ていた。白い砂浜は海蔵川を超えて遠く富田浜へと続いていた。貝殻を拾ったりして遊んだが、そのとき正ちゃんは大きなハマグリを1個持って帰った。