花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

こうせつ市場 その四

2024年01月31日 | レモン色の町

樹林舎刊の「四日市の今昔」に大正バザーがあった。

中町銀座通り左の大きな建物が、戦時中に営業取り止めの災難に見舞われた「大正バザー」。

中町 昭和18~19年 旧東海道と交差し、当時は中町銀座と呼ばれて多くの商店が軒を連ねていた。西方を望むこの写真の、最奥には老舗御菓子屋「栄昌堂」がある。(水谷宜夫氏提供)

昭和30年代以前、講和記念博覧会開催直後の中央通り。左角に市役所(昭和6年)、隣が千歳町から移築された公会堂、税務署と並ぶ。この公会堂裏に広い空き地が広がる。私の記憶では、ここに一六三八のこうせつ市場が出来たのではないかと思っている。(雨が降った後・・・人の道が通りの斜めに横断しているのが面白い)

私語→下総人様の住んでみえた社宅は、建ってますか?


こうせつ市場 その三

2024年01月29日 | レモン色の町

平成23年発行の写真集“四日市の昭和”樹林舎刊 に、慈善橋南の“市”の写真が掲載されていました。

「ばあちゃん!なんか買うてくれぇ!」

四日市市は東海道の宿場町として栄えた歴史を持ち毎月4日に「市(いち)」が開かれたことが市の名称の由来となっている。平成23年当時、市内には17も「市」があり、慈善橋卸売場は、四日市の朝市では店舗数が一番多く70店舗以上として知られている。(昭和33年 辻俊文氏撮影)

「此のところの、物価高には ついてけやんなぁ」

「市(いち)」は庶民の台所を支え、同時に意見交換の場であった。気心の知れたものが集まり、あちこちで井戸端会議が始まる、そんな、のどかな光景が懐かしい。(昭和30年初め 中西秀男氏撮影)

諏訪町にあった「こうせつ」が、商工会議所の裏にあったのか?市民ホールの西にあったのか?記憶がアマイでゴザイマス。お袋はあまり調理が好きでなかったのに、足しげく通ったのは、おしゃべりが楽しかったのかもしれません。その情報交換の様子を、退屈そうに下から見上げていた わたくしでゴザイマシタ。


こうせつ市場 その二

2024年01月27日 | レモン色の町

岡野先生は、最後にこう締めくくっていました。

定期市はかつて住民の資金力や購買力も低く交通の不便なところで発生した。しかし、四日市は定期市が出来たことにより、道路の発達、開拓を促し、それがまた市(いち)を発展させ、店舗化し、商業都市化していった。四日市の場合は、定期市が基になって町ができ海陸物産を得て発展してきた。定期市は都市の発展に関係あるのでどこの都市でも市日を市名に採ると思われるのに採っている市は数少ない。その中で四日市は都市形成と共に市民の体質を作りあげてきたからこそ市日を市名に採ったのであろう。

市(いち)は購買者との交流を大事にし、コミュニケーションの場ともなっている、これらは四日市の特色と考えられる。この意味で四日市はひとつの生活文化を市により作りあげてきたのではないだろうか。これこそが心の豊かさだと考えられる。

行政の支配統制があまりなく、行政が指導した市場は他の要因があったにせよ十分には成熟しなかった。経済が発達した今日の四日市に、定期市が増加し定着していることは四日市市民が持つ旺盛な生活意識(文化)の表れであろう。

2009年フリマ㏌ドームの様子

岡野先生は、市(いち)は文化だと言い切ってみえます。規模は小さくても、大きな資金を必要としなくても、比較的自由な出店は、まさしく市の魅力です。そこでは日常のコミュニケーションが展開し、情報が流れ、人と人との触れ合いがあります。こうして市は定着し、町が、そして商店街が形成されてきたのです。

エキサイト・四日市バザール


こうせつ市場

2024年01月26日 | レモン色の町

市場(いちば)で発展してきた四日市。明治以降の定期市場は形を変え、スーパーマーケット形式が出はじめました。文化展望四日市に岡野繁松先生が“庶民の市 四日市”としてこんな投稿をされています。

明治32年、竪町に“勧工場”という平屋建ての私設バザーが出来た。通路の両側に玩具や洋品雑貨が並べられていたという。その後、個人経営となり“湊屋玩具店”となったが、人びとは『おもちゃや』とは言わずに『かんこうば』と呼んでいた。

増田武夫氏の残された浜往還 昭和2年 勧工場

大正8年、村田七衛門氏が東中町に出店制の“大正バザー”を、大正14年には、伊達貫一郎氏が竪町に同じような“東洋バザー”を建設した。やや高級品で敷居が高かったと聞いたことがあるが太平洋戦争で企業整備にあった。(閉店させられたということだろう)

大正バザー

大正10年5月新丁の湊座前に“第一公設市場”がつくられたが立ち退きに遭い、市の指導で当時の鈴木眼科の南に移転。15軒ほどの店が、大売出しなどをして賑わっていた。しかし、昭和5年に再び立ち退きを受け閉鎖した。“第二公設市場”が、大正11年北町にも開設されているが、長く続かず閉鎖されている。市の指導であるところが注目されるが、市民からの要求声が大きくないと続かなかった。

第二次世界大戦で焼け野原になった旧四日市市内に公設市場が復旧した。昭和25年6月慈善橋南詰に商業者の“共栄会”を一部に取り込んだバラック建ての即売所が開設。昭和30年になると、出店農家の増加で拡張している。

昭和24年8月、三滝通りを挟んだ市役所西側の農協連所有地に“三泗農産物即売所”ができたが、昭和26年8月に商工会議所裏側に生鮮食料品を主とした販売を造った。そして、昭和35年11月になると諏訪へ移っている。

昭和43年

この頃、私はお袋についてこの“こうせつ”へよく出かけた。市営駐車場の南西あたり踏切を渡ると“こうせつ”があって、一六三八(いちろくさんぱち)の日に開かれていた。凄い賑わいで、のちに道を隔てた西側にも増設された記憶がある。昭和48年に西浦即売所に移転している。近年閉鎖でもめていたが、現在は駐車場となっている。

昭和31年頃

 


最後の白内障手術

2024年01月22日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

2日前に「手術の時間が30分早くなりました」という電話が入った。私の前の患者さんは 車椅子の認知症のおばあさん。前回の診察の折 ロビーでヘルパーさんに「同じことを何回も聞かんでええの!」と 大きな声で叱られていた。前回の手術から同席だったが 今日は見受けられない おそらくそのおばあさんがキャンセルされたのではなかろうかと邪推する。何本もの目薬を注すのは無理だろう と思う おかげでスイスイと順番が回ってきて 滞りなく済ませることが出来た。

数日前 親父の27回忌があって その時 坊様から聞いたことに ワンマン親父が死ぬと 残された奥方は認知症になる確率が高い とおっしゃった。従順に辛抱してきて やっと解放された気軽さから気が緩んでしまうのだろうか?ホンマカイナ? であれば うちの奥方をはじめ 世間の女房殿は 認知症にならない!といえる。

今週のGGシニアさんのYouTube“えっ これが四日市駅”は マンネリを脱却したか?好評でありがたいことでアリマス。気を良くして次回に挑戦したいと思いますので どうかよろしくお願い申し上げます。鉄道は皆さん関心が高いので わたくし素人にとっては危険ゾーンですが 皆様のありがたいお言葉をいただけるので たのしい作業になると思っております。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。ホンマに コメント くださいねネ

本日は 片目でございますので こんな内容で失礼いたします

追記 いま、朝ドラで 笠木シズ子とエノケンの出会いを放送していますが Youtubeエノケンのお染久松 を検索すると 当時の画像が観られます  

 


白内障の手術 その二

2024年01月20日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

後半ご報告の前に、岡野繁松先生の書き残された 四日市驛 のお話を聞いていただきたいと 切にお願いする次第です 涙なしでは見れません って ホンマカイナ

「えっ!これが四日市駅/たけちゃんの四日市町歩き」 (youtube.com)

さて、白内障の後半です すでに数名の先客がいた。14時40分の手術になぜ13時に呼び出されるのか?と座っていたら、10分ほどで呼ばれた。やや緊張!

まさしく 上の風景のような映像が体験できる

手術室は、一旦廊下へ出た左の突き当りにあった。狭い。左のロッカーへポケットの中の物すべてを入れて鍵を渡される。中では3~4人の看護婦さんが忙しく立ち回る。すでに番を待つ方が4人ほどみえるので、室内は大わらわだ。点滴をする人。車いすの老女に何度も声をかける看護婦さん。その中で、手術用の服を着てキャッポをかぶり座って待つ。体温と血圧の検査があって、消毒の目薬を10回ほど注され、その都度ライトを当てて目を覗く。時間がかかるはずである。車椅子のおばあさんが時間を聞いていた。最後に痛み止めの目薬を注してもらって手術である。

手術室の中は意外と広い。椅子に座ると、慣れた手つきで穴の開いたシートを当て、目ん玉をかっぴらいて、スポイトで消毒薬をどっと流し込む。まぶしすぎるライトを見るように言われる間もなく終了。時間は数分だった気がするし、痛みは全くなかった。角膜を切り剥がし、中の水晶体を砕いて吸い取る。それからレンズを入れる。そんな作業かと思っているとあまり気持ちの良いものではない。ガーゼをテープで止めていただき終了。期待以上のお釣りを頂戴して帰る。

片目がふさがれたままでは何もする気が起こらない。翌日、ガーゼが外される。白や青色がこんなにもきれいだとは思わなかった。それからが忙しい。3種類の消毒薬を、1本は2回、2本は4回注す。並べておいて、覚えをしないと、どれをいつ注したのか分からなくなる。寝るときは保護メガネが必要だ。要するに、眼に圧をかけてはいけないのと、ばい菌が入ってはダメなわけである。かくして、3日後の検査で入浴が許され、眼を保護しながら穏やかな日常へと戻る。や否や!もう片方の目に消毒の目薬を1日5回注す。今度は右目の手術の準備だ。現在、借り物の眼鏡だから、左目でクリーンな世界を楽しみ、右目で近くの物を見る。次回の左目の手術で、ようやく爽やかな世界が両眼に広がる。痛みを伴わないことが何よりである。

知人が 白内障の症状がないのに みんなが良いというので 私もやってみようかな? と話していた。


白内障の手術 その一

2024年01月17日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

このところズーッと物が見にくくなっていた。眼鏡を変えれば良しか?と思っていたら昨年春ごろから左目に白い靄のようなものがかかりだす。近所の眼科へ出かけたら眼鏡を変えるだけでは治りません!ときた。

「強度の近視に遠視、乱視にドライアイと白内障、それに緑内障も出ている。緑内障は目薬で止めるしかないので、本日より1日1回点眼してください。」という。踏んだり蹴ったりの結果で、その日から緑内障(1日1回)とドライアイ(1日3回)の目薬を注すことになった。

ところが、片目でしか見えないので、本を読むのが億劫になってきた。これはいかんと思い、1か月後に眼科へ行くとやんわり白内障の手術を勧められ、紹介状を渡された。

幸い手術を受ける眼科医は近くだったので、申し込みに出かける。まず、左目の手術を1月15日14時40分しますので13時ころに来てくださいということに決まった。1週間後に右目をするという。左目だけでいいのにと思う。不安だらけである。ド近眼の私は、眼鏡をどのタイミングで調達するのか?と聞くと仮の眼鏡の在庫があれば貸しますとのこと。あってほしい!また、友達は100万円出すと良いレンズが入るという。大金である。値段を聞くと、健康保険の2割負担ですから、3万円でおつりが出ますの返事。おつりが出るのはありがたい まずまずか、ということで、手術3日前から消毒の目薬を1日4回注す。私の目ん玉は目薬の大攻勢だ。で、当日がやってきた。

すべてをドクターに委ねるしかないと時間通りエレベーターに乗った。 つづく


四日市旅館案内 その二

2024年01月14日 | レモン色の町

年末、工場夜景を楽しみに うみテラス14 へ出かけました。

「人気の工場夜景のツアーに参加してみた!/四日市コンビナート」 (youtube.com)

戦後の昭和27年頃は、結構な数の旅館があった。諏訪公園北の西新地あたりに多いのは、赤線の春告園周辺にあたるので、ラブホテル的意味合いもあったのだろうか?そこから湯の山街道を渡って北側は、商人宿が多かった。

店名を記入してみた 諏訪駅周辺から旧東海道沿いの旅館になる

みつば屋さんへは、昭和40年代ころ 京都の問屋さんが泊まっていて 商品を届けに行ったことがある 出張の人で賑わっていた 諏訪駅から徒歩5分では 到底行けない

広告にあった「大善」さんは中央通りの南側になったので諏訪駅から遠くなった アメリカ食堂も宿泊できたのだろうか?閉店して20年ほど経つか? 川市さんの本店があった場所は 札ノ辻近くになり 昔の看板が見られる。市役所東のちん屋さんは、最近まで平屋の古い木造が残っていたが、取り壊されたか?

松島旅館さんは 洋室完備である それと 諏訪駅北へ2分のおきなさん 2分で湯の山街道まではちょっと無理か?

国鉄四日市駅周辺の旅館。さすがに四日市の玄関口、袋町や四ツ谷町にはホテル名のついた旅館や、老舗が並ぶ。東の旧四日市港 高砂町にかけても点在する。西駅前の広場から諏訪駅への曲線が善光寺カーブ。袋町の千葉館さんの電話は呼び、つまりとなり近所の電話を利用されていた。広告の濱千鳥さんは、千歳橋の西詰にあった。

 


四日市旅館案内

2024年01月13日 | レモン色の町

本町まちかど博物館の水谷宜夫さんの処でお借りしたパンフレット「四日市旅館案内」

船のイラスト

太白永餅さん、当時は江田町だった諏訪駅を降りてすぐのところに「大善」という旅館があった。何処だろう?

尾上町の「浜千鳥」ボート遊覧設備アリマス 村上時雨さん

中央通りも三滝通りも、中途半端。ということは、終戦直後のパンフレットになる。

国鉄駅周辺

西へずれて

川市さんは旅館をやっていた

昭和27年に開催された「講和記念博覧会」に合わせて 観光客向けに作られたようだ

貴重な資料、ありがとうゴザイマス 


江戸日本橋百川楼探訪 後編

2024年01月07日 | レモン色の町

さて、膳に並ぶ料理です。

小菜:海胆蒲鉾(ウニかまぼこ=白身魚のすり身にウニを加えて練ったもの)・鶉胡麻蒲鉾(うずらごまかまぼこ=鶏肉のすり身に炒った胡麻を混ぜ、蒲鉾風に蒸しあげたもの)・紅白花形薯蕷(しょよ=ながいもを花形に切って、紅白二色の甘酢に漬けたもの)・結牛蒡白胡麻あえ(茹でたゴボウを結び、ゴマと白みそと豆腐ですり混ぜたもの)・海老よせもの(えびのすり身を葛粉で固め味付けして丸めたものが蒸してある)・椎茸しんじょ(魚の白身をすり潰し揚げたり蒸したりしたものに椎茸が入る)

吸物:鯛の皮付しんじょ(タイのすり身におろした長芋を加え、薄く切った皮の付いた鯛で丸めて蒸したもの)・葉防風(焼き魚)・赤みそ

酒燗:切子の瓶に入る

なます:鰹(生のカツオを細く切り酢に漬けたもの)・胡瓜(きゅうり)・独活(うど)・大根おろし・かけ醤(ひしお=豆腐と麦麴を醤油に付けて発酵させた日本古来の調味料)

茶碗:青鷺(あおさぎ)むしり菜(江戸時代は様々な野鳥が食用として売られていた。鴨・雁・雉・雲雀(ひばり)・鶴・鷺・雀・鶫(つぐみ)・鶉(うずら)ほおじろ等

小菜:鯛赤みそ入むし揚(よく洗った小鯛に赤みそを詰め、蒸したのち油で揚げたもの)

碗盛:玉子しんじょ・わらび・塩はつたけ・うす葛

:ごはん!

香の物:茄子白瓜切漬

この料理松竹梅の竹クラスである。料金は一人前金百疋(ひゃっぴき)=千文。一両(10万円とする)は六千文。10万円を6で割ると、百疋は約16,700円になる。因みに“梅”クラスは百疋半、“松”で二百疋、泥亀(すっぽん)付きである。凝りに凝った料理の数々ですが、現在とあまり変わらない気も致します。基本は江戸時代に完成していたのでしょう。