花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

諏訪振興組合総会開催

2016年05月28日 | 諏訪商店街振興組合のこと

平成28年5月26日午前10時30分より、四日市諏訪商店街振興組合 第41回定期総会が開かれました。

今年度は、スワセントラルパーキング駐車場の耐震設計に取り組むこととなり、総会前に鹿島建設様より説明がありました。前回の総会では、耐震診断結果の報告をしていただき、恒例の“おお揉め”となりましたが、今回は質問もなく、組合始まって以来の順調な総会となりました。まさに時11時45分。定刻より早い終了となりました。

来賓の方から(松阪市居住)四日市は、三重県一の都会である旨のお褒めの言葉をいただきましたが、駅前中心商店街のハシクレトシテ答えるべく努力をしていく大切さを、ひしと感じました。


映画“おくりびと”

2016年05月25日 | 諏訪商店街振興組合のこと

「おくりびと」を撮った滝田洋二郎監督は、富山県高岡市出身である。高岡といっても近年合併した旧福岡町で、高岡の外れにあたる。監督は最近、短編で高岡市のコマーシャルをつくった。高岡市に働く外人青年が日常の中でさまざまな地場産品に触れていく物語で単なる観光宣伝に終わってないということだ。

四日市もストーリー性を持つ短編で、街を宣伝してはどうだろうか?“藁の盾”でトラックが暴走したり、“末広橋梁”でゴルゴ30がライフルを発射したり・・・。

“おくりびと”の原作は、青木新門著の「納棺夫日記」で舞台は冨山だが、映画では山形となっている。

「納棺の手引き」が撮影された酒田港座は、2002年に閉鎖されていたが、この映画により2009年に映画や催事会場として再開された。(山形県酒田市日吉町1丁目)

“鶴の湯”は現在、庄内映画村に移築。主人公、小林大悟と美香の住む“スナック和”は「上野コンチェルト館」として公開されている。(山形県上山市栄町1丁目)

ユニークな建物である旧割烹小幡だった“NKエージェント事務所”は2009年より内部が一般公開された。(山形県酒田市日吉町2丁目)

映画のご縁が、街の活性化に結びついたよい例である。

ちなみに、映画ロケ誘致を逃した冨山県では、県議会の席で担当課長が後悔の答弁をした。


続 男はつらいよ

2016年05月24日 | 諏訪商店街振興組合のこと

フジテレビの「男はつらいよ」で、ハブに噛まれて死ぬ寅次郎に抗議が殺到した翌年(昭和44年8月27日)山田洋次監督は映画「男はつらいよ」を完成、渋る松竹を押し切って公開した。これがヒットした。

第1作は、さくらと諏訪博との結婚。そして、御前様の娘、冬子(光本幸子)に振られる物語だった。初めのマドンナと思いきや、実はフジテレビで佐藤オリエが最初のマドンナを演じている。寅次郎の恩師 坪内散歩(東野英治郎)の娘が夏子(佐藤オリエ)である。冬子に夏子なのだ。内容も、テレビ版「男はつらいよ」を繰り返すように、散歩先生との出会いがあり、娘の夏子に片恋をし、先生が亡くなり、寅は捨てられた母との再会をしたりしている。

この頃の寅は、やくざっぽく、乱暴で、ハチャメチャである。水を得た魚のように渥美清は生き生きと車寅次郎を演じている。

“谷よしの”という女優さんをご存知か?山田監督に気に入られているとみえて、“男はつらいよ”シリーズの36作でチョイ役を演じている。そして、この作品では珍しく二役を勤めている。大発見!と喜んでいたら、ウィキペディアで“患者の付き添い”と“葬式の客”と紹介されていた。

そして、失恋のときが来る。佐藤オリエの彼氏は、藤村薫という医師役の山崎努である。この頃の山崎努は当然だが、若い。

最近になったようやく観た、滝田洋二郎監督「おくりびと」(平成20年)では、NK(ノウカン)エージェントの社長を個性的に 渋く演じている。

葬儀屋の宣伝か!と思っていたら、とても良い作品だった。


第4回 よっかいちお菓子フェスタ 開催

2016年05月22日 | おいらの商店街

お天気に恵まれ、本日は「よっかいちお菓子フェスタ2016」が開催されました。

ユマニテク専門学校様のマジパン体験コーナー

青山里会様のブース

魅力ある内容であれば、これだけ大勢の方に出かけていただける。ありがたいことです

大きなキーワードは、子どもさん でしょうか

ご協力いただいた皆様に、ひたすら感謝です。ありがとうございました


渥美清と映画“運が良けりゃ”

2016年05月18日 | 諏訪商店街振興組合のこと

フジテレビの“男はつらいよ”が始まる4年前、渥美清は山田洋次監督の“運が良けりゃ”の最後に特別出演している。江戸時代、長屋の金貸し婆が、餅といっしょに金を呑み込み死んでしまう。このことを知った隣の住人ハナ肇が、死体を火葬場に持ち込んで灰の中から金を取り出そうとするのだが、この火葬場の番人が渥美清である。小林信彦は“おかしな男 渥美清”でこう記している。

何ともいえない扮装、もじゃもじゃの頭で、鼻をクンクンいわせながら(私にはズーズーと聞こえる)「上焼きか、それとも並み焼きか」と言い、「火葬札、あるのか?」とたずねる。

金貸しの婆さんの死体を焼いて金をとろうとしているハナ肇たちは、そんなものを持ってない、うるさい奴だというので、近くの杭に縛ってしまう。

勝手に火葬にするハナ肇たちを見ていて、気味の悪い男(渥美清)は、「焼けた、並み焼き上がり!」と縛られたまま言い、そのまま杭を抜いて歩き、へらへら笑っている。

ハナ肇たちを<食ってやろう>と言う気持ちがはっきり出た怪演だが、何度観ても気分が悪くなる。やり過ぎである。

はたしてやり過ぎだろうか?と私は思う。そもそも焼いた死体の中から金をとりだそうとしている異常な場面で、ぎらっと光る演技を見せて<食ってやろう>と考えたら、これぐらいの<怪演>で良かったと思う。

渥美清は、自分が善人役では受けないことを知っていた。


フジテレビ“男はつらいよ”

2016年05月17日 | 諏訪商店街振興組合のこと

“おかしな男 渥美清”小林信彦著 新潮文庫より

昭和42年の渥美 清の主な仕事は、東映の<列車>シリーズで、翌年にかけて「喜劇・急行列車」「喜劇・団体列車」「喜劇・初詣列車」と三本作られている。のし上がってきたころの意気軒昂たる彼だったら、絶対に出演しなかったものだと思った。<渥美清の映画は当たらない>という評判に対して、彼の表現を用いれば、<自分を忘れられないようにしておく>映画だったのだろう。とあった。やはりヒットしなかったのだ。

前回、山田洋次監督は<列車>シリーズをヒントに“男はつらいよ”をつくったと書いたが、原型は、山田監督の昭和39年作品、ハナ肇の“馬鹿まるだし”にすでにあった。

この終わり方(失恋して、立ち去る)は、山田洋次の名前をはじめて一部の人に知らしめた「馬鹿まるだし」のラストと非常によく似ている。惨めな死に方をしたハナ肇の幻未亡人(桑野みゆき)に挨拶に来るシーンが「馬鹿まるだし」にあり、そのセンチメンタリズムが快いのだが、テレビ版「男はつらいよ」もほぼ似た終わり方をする。

フジテレビ“男はつらいよ”

昭和43年10月から翌年3月まで放送

奄美大島で、寅はハブに噛まれて死ぬ。

ヒントにしたのは<列車>シリーズの方でした・・・か???


“喜劇団体列車”と“男はつらいよ”

2016年05月15日 | 諏訪商店街振興組合のこと

山田洋次監督を“映画こそ生きがいの「映画バカ」”と称して、吉村英夫さんは著書「山田洋次と寅さんの世界」大月書店でこう書いてみえる。

山田にはすべてが映画の題材にみえる。例えば「シェーン」から「遥かなる山の呼び声」、「幸せの黄色いハンカチ」はアメリカのフォークソングから、「ローマの休日」から「男はつらいよ」31作「旅と女と寅次郎」を、俵万智短編集「サラダ記念日」から第41作を、第18作は徳富蘆花の「不如帰」のパロディである。

昭和42年11月公開、東映の「喜劇団体列車」を観てオヤ?と思った。内容が「男はつらいよ」のパターンなのだ。国鉄職員の山川彦一(渥美清)はまじめだけれど計算が苦手でおっちょこちょい、助役試験に何度も落ちている。母親役はミヤコ蝶々。迷子の世話で未亡人の佐久間良子に片思いをするが、最後は振られてしまう

監督は瀬川昌治氏で、42年6月に「喜劇急行列車」、43年1月に「喜劇初詣列車」を撮っている。そしてこの年、フジテレビで「男はつらいよ」が始まっている。寅さんは最後に奄美大島へハブ取りに出かけ噛まれて死んでしまう。これに視聴者から抗議が殺到し、44年8月に、映画「男はつらいよ」第1作が公開されることとなる。

つまり、山田監督は東映の列車シリーズから「男はつらいよ」のヒントを得た、とみる。ただし内容の面白さは山田監督が上である。生真面目な国鉄職員よりテキヤ役を、渥美清は水を得た魚のように生き生きと演じている。シリーズ初期はかなり乱暴な性格が目立つが、渥美清に合っていたのだろう。

こんなエピソードを知った。ロケ現場近くで不良学生が数人騒いでいた。渥美清は、そこへ行くと「迷惑だから退いてくれ」と話す。学生は静かに退いていった。余程ドスの効いた話し方だったのだろう。

さまざまな題材をヒントとして、山田作品らしい映画を作り上げる。落語的センスがあり、感動と思いやりのある作品が仕上がる。


“七人の侍”をもう一度語る

2016年05月10日 | 映画の名言、映画の迷言

改めて観なおした、黒澤明監督の“生きる”と“七人の侍”は実に傑作である。“七人の侍”の構図一場面一場面は計算尽くされていて、監督の怒鳴り声に従って、役者は被写体として何センチの位置まで支持されていたと思われる。

さて、晩年の黒澤作品に魅力がなくなったのはなぜか?“どですかでん”“デルスウザーラ”“まあだだよ”“夢”と、我々の期待からは遠く外れたものとなった。

吉村英夫氏は「黒澤明を観る 民の論理とスーパーマン」草の根出版会 でこう書いてみえる。

 “生きる”から“七人の侍”のシナリオを書いた黒澤監督や橋本忍の目線は、領主や支配者の側ではなく、主君を持たない浪人や、あるいはまだもっと「下」とされる農民=民衆と同一の高さにあることは確かである。民の論理の立場を明確にしつつ、決定的に映画的高揚を想像することに成功した。ところが、民の視点は、「七人の侍」で足踏み状態になってしまったのである。

そして、「隠し砦の三悪人」「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」「赤ひげ」と再び映画的高揚をもって旺盛な映画づくりにとりかかったが、映画はめっぽう面白いのに、他方ですっぽりと低い目線と民の言い分はどこかへ置き忘れ去られていた。逆に民衆不信と英雄待望論から生まれるスーパーマンの論理を身にまとうことになってしまうのである。黒澤にととって後退になったと言わざるを得ないのは残念である。「赤ひげ」完成後、黒澤は、自分の目線が高くなってしまったことに気づき、三船をスーパーマンにし過ぎてにっちもさっちもすすめなくなったことを自覚し、民の論理が欠落してしまったことに思いいたったようだ。

五年後、「どですかでん」で彼は日本映画界に復帰する。だが皮肉にも「どですかでん」は、映画的高揚を想像する術を完全にどこかへ置き忘れてしまっていた。その後、五年に一度、やっとのことでうみだす黒澤映画は、スーパーマン路線に戻ることはなく、目線も低くしていくのに、引き換えに映画的高揚とは大きくかけ離れたものしかつくれなくなっていったのである


“七人の侍”を語る

2016年05月04日 | 諏訪商店街振興組合のこと

文春ムック スターの肖像” “映画史上最強の作品「七人の侍」はこうして生まれた!”より

平成3年12月号の文芸春秋で、黒澤明、山田洋次、井上ひさしのビッグ鼎談が掲載されていた。“七人の侍”の裏話を語り合ってみえるのだがこれが面白かった。

井上「たとえば勘兵衛(志村喬)というリーダー役がいます。彼は一度は百姓の申し出(野武士から村を守ってほしい)を断るんですが、百姓が寝泊まりしている木賃宿で、人足に「お侍、この抜け殻どもは稗食ってるんだ。自分たちは稗食ってお前さんたちにゃ白い飯食わしてるんだ」といわれて「よしわかった・・・もうわめくな」という。百姓の味方をしてやろうと決意するわけですね。で、僕の一番好きな「このめし、おろそかには食わぬぞ」というところ、あそこはいつ見ても泣くんです。

そして、もうひとつ、井上ひさしさんの言葉から

井上「戦争が終わって、民主主義が入ってきて、日本に憲法ができて突然、世の中は「平和」と民主主義全盛、子供ながらに途方にくれた。そんな時あの水車小屋のお爺さん、儀作さん(高堂國典)といいましたか、あの人こそ日本の国の将来だとはっきりわかったのです。つまりふだんは人の離れた所でコツコツ生きているんですけれど、いざというとき村の人たちに頼りにされている。カネは持たない、力も強くない、でも危機に陥ったときに知恵を出す。世界中がもめて困ったとき、東洋の端っこの日本に立派な憲法というものがあってそれが指針になる。戦後民主主義になった日本の生きるべき道が、、ある意味で水車小屋の儀作という長老に現れている気がしたんですね