花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

商店街が無料Wi-Fiに

2017年06月28日 | おいらの商店街

CTYさんのWi-Fi取り付け工事が、表参道スワマエで行われている。3時間ほどかけての大きな工事だ。

これで、駅前と三滝通り交差点だけだった無料Wi-Fiが、諏訪栄町全体と諏訪新道に拡がることとなる。反スマホの私としては、ノートパソコンを掴んで通りへと繰り出すことになる。(コケナイヨウニ キヲツケヨウ)

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17年前 商店街ドミノがあった

2017年06月26日 | おいらの商店街

平成12年8月26日“ズームイン朝 商店街ドミノ”が日本テレビ系で放送されました。四日市と千葉県ユーカリが丘のドミノ対決で、半年ほど前から企画に入り、商工会議所で何度も会議を重ねました。今思うと信じられないようなパワーがあった時代でした。

1番街ペンギン前から東を望む

3番街に入ったドミノ

当時の録画はVHSカセットテープで、今は再生デスクが無く、後日、長谷川氏にお願いしてDVDに焼き直していただきました。当時の録画放送を観ていただき、参加された方に懐かしんでいただけたらと9月の“まちゼミ”で上映しようと思っています(当店にて)。

諏訪神社にて

ラストの巨大ドミノ 圧巻です

 まちを挙げての“ドミノ”は、平成11年にも東京台東区の佐竹商店街で2000本以上のカセットテープを使って行われたのですが、この年は14万本にエスカレート、最初で最後の二度と出来ないスケールとなりました。

諏訪公園にてゴールです

 たくさんの学校や団体の皆さんにかかわって頂いたことが分かります。中心市街地をステージにして多くの市民が集い、イベントを楽しむ。街のありようの大切さを再考させてくれる良い事業でした。

 半数の方が逝去されました

もうお目にかかれない方々の元気なお顔もあり感無量です。ナ~ム~!

コメント (11)
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映画“人情話の福団治”

2017年06月20日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

Mサンに教えていただいた 四日市出身の 落語家 桂 福団治さんの映画が名古屋で上映されます。落語家でありながら、喉のポリープが原因で一時話せなくなった事もある、苦労人でゴザイマス

 

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新図書館は中心市街地に建つか!

2017年06月19日 | 諏訪商店街振興組合のこと

 昨日は“新図書館シンポジウム”に出かけました。参加者が少ないと移転がとん挫する可能性があるので心配していましたが、107名の方が集まりました。多くは、ボランティアをしている方、建築設計士、過去行政にかかわっていた人と、関心の高い人が集まりました(当然ですが…)。しかし、今の図書館で満足、街の活性化と図書館は別問題と考えている方が意外に多く、街の者が中心市街地移転の声を大にする必要を感じました。

事業の経過を聞いてない!今回のシンポジウムはガス抜き!といった言葉も聞かれ、後半の分科会(KJ法によるワークショップ)では自分の過去の偉業を延々と述べるお偉い人、立地場所の自説を大きな紙で公表する人が出る始末。辛抱強くすべての意見を聞く座長さんには頭が下がりました。(第二班担当の岡崎からみえた三矢さん?はとてもよくできた方でした。)

市のハード事業にシンポジウムを設けるのは大切なことで「意見百出を乗り越えて、市民が一つになることは大切なことだ」と諏訪西の久安氏が申しておりました。

場を変えて、このあと3回のシンポジウムが各地で開催されるとの有賀先生のお話に、中心市街地活性化と新図書館の乖離が進むことを恐れます。周辺の方にとって中心市街地への図書館移転は、それほど大切な問題ではないからです。

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知事抹殺の真実

2017年06月18日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

面白そうな映画を紹介していただいた。このときは、水谷建設の汚職であまり気にとめなかったが、時間があれば出かけたいデス!

 

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山中貞雄監督と丹下左膳余話

2017年06月17日 | 諏訪商店街振興組合のこと

映画鑑賞会の再開です。今回は、昭和という時代を懐かしみながら、監督と時代背景を探る映画会にするつもりです。初めに、マキノ雅弘監督「続 丹下左膳」の鬼気迫る左膳の部分を観てから、山中監督の左膳と比較していただきました。若くして中国で戦病死した天才監督のプロフィールも紹介しましたので、作品に興味を持っていただけたと思います。

80年以上前の映画であることにびっくりします。大河内傅次郎左膳は飛び、走り実に軽々と動きます。また、矢場の女将“喜代三”との掛け合いが面白く、「子供は嫌いだよ」と言い合った次のシーンでは、ちゃっかりご飯を食べさせています。意地を張り合いながら実は根っからの子煩悩ぶりがほのぼのとしていました。音声が聞き取りにくかったのですが、喜代三の歌声には聞きほれました。そして、高勢實乗(たかせみのる)の珍優ぶりも楽しめました。

左 高勢實乗

やくざとにらみ合う左膳

真ん中にちょび安 その左に駆けつける左膳

戦後、GHQ?によって、チャンバラシーンがカットされたと聞きました。なるほど最後のシーン、ちょび安の敵を討つため、やくざ者と対峙した左膳。ところが、場面は飛んで、ちょび安がこけ猿の壺を1両で売ろうとするところへ、止めに来る左膳の場面になっています。つまり、やくざと左膳の切合いが抜けているのです。“カタキウチ キンシ!”とはアコギナGHQ?様でした。

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山中貞雄という監督

2017年06月16日 | 諏訪商店街振興組合のこと

本日【丹下左膳余話 百万両の壷】上映です。5時30分より スワセントラルパーキング2階会議室 入場無料 感無量?

山中貞雄監督は、明治42年11月8日 京都市東山区 扇子職人の家に生まれました。

少年期より「カツキチ」と呼ばれる大の映画好でした。

昭和2年 マキノ撮影所へ入社 昭和3年 嵐寛十郎プロダクションに移籍しました。

その年の夏 嵐プロダクションは、スポンサーに逃げられ、山中はプロマイドを売るなどして資金稼ぎに奔走しますが その年の年末、寛プロ解散します。

年末に、山中は「人間とも思えぬ形相」で実家に帰り 兄弟から映画をあきらめるよう説得されるが聞きませんでした。

昭和4年 2月 脚本家でデビュー 

     3月 嵐寛十郎が東亜キネマで映画復帰 山中もチーフ助監督として参加します

        脚本家「鞍馬天狗 前後編」としても活躍

                            日本映画界の巨匠と評価されるに至りました。

昭和7年 「むっつり右衛門」シリーズの脚本でアラカンに評価される

                            「磯の源太 抱き寝の長脇差」で初監督します。

                            第二次寛プロから 日活京都撮影所 へ移籍  若き天才監督の名声をほしいままにします

昭和9年 シナリオ集団「鳴滝組」を結成

                         ここで伊藤大輔、伊丹万作、小津安二郎、清水宏 等と交流することになります。

昭和12年 東京 PCL映画製作所(現 東宝スタジオ)で「人情紙風船」を撮りますが

                            封切り当日召集令状が届き、中国へ出兵しました。

昭和13年9月17日  中国河南省の野戦病院で 赤痢の為戦病死、享年28歳の若さでした

河内山宗俊 真ん中が原節子

                           

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昔日の三和商店街と諏訪駅構内

2017年06月15日 | レモン色の町

8月初め、樹林舎さんから“四日市市の今昔”が出版される。かなりの意気込みで本日もチラシが入っておりました。

これまた貴重な写真。三和商店街が建つ。「昭和21年、港湾関係の会社重役が海山道に“松竹映画劇場”を建てたが、素人経営のため1年で取り壊し、その建物をJR四日市駅前に移築してマーケットにした」とあった(ローカル映画館史より)。どうやらマーケットは三和商店街のようだ。入口に元気屋さんが、今のようにフルーツ専門でなく八百屋さんの雰囲気だ。隣には丸武家具店さん、当時から月賦で営業されていた。

 これは諏訪駅構内の写真。西方向に撮られた。左から内部線、日野八王子線。(内部、八王子線は、同じホーム。日永で別れてますね)プラットホームがあった。真ん中が湯の山線。右尾。う一つホーム(1番ホーム)があって近鉄線が国鉄四日市駅からと名古屋方向へ延びていた。こうしてみると構内は広かった。諏訪駅が撤去された跡は、広い空き地ができて殺伐とした風景だったが、なるほどと想像できる。

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昔日の 鵜の森公園と諏訪公園

2017年06月07日 | レモン色の町

鵜森公園の西(後にプール、その後 テニス場)に、ローラースケート場があった。初めてのローラースケートだったが、しゃがんだままだとうまく滑れた。そのとき、お尻に出来物が出来ていて、尻餅をついた拍子に激痛が走り、完治した。どうやら手前中央でですべるのが私のようだ???

諏訪公園、南入口を望む。だるまや は懐かしい。ねぎ焼きを買って食べた。右に藤棚、正面にハチトリさんが見える。

8月樹林舎さんが、昭和の四日市の写真集を出版される。

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丹下左膳余話 百万両の壷2

2017年06月04日 | 諏訪商店街振興組合のこと

林 不亡原作の「丹下左膳」は、伊藤大輔、マキノ雅弘などの名監督により過去にも何度も映画化されているが、同じ大河内傅次郎が主演している丹下左膳シリーズの中で、山中貞雄が監督したこの作品は、それまでのチャンバラ映画から、左膳を中心にした人情喜劇に見事に変貌している。ある小藩に伝わるこけ猿の壺、その壺の中には先祖が隠した百万両のありかが示されていた。その壺を巡って、藩主の弟の道場主や父親を殺された少年、少年を引き取る矢場の女将など様々な人間ドラマが展開する。古道具屋には「河内山宗俊」にも出演している珍優、高勢実乗(みのる)。澤村圀太郎は、伊藤大輔監督のトーキー「丹下左膳」(1933年)でも同じ柳生源三郎を演じている。沢村貞子は妹、加藤大介は弟になる。長門裕之、津川雅彦兄弟は子供役を演じている。笑いとテンポを巧みに取り入れた演出は、この若くして亡くなった監督の天才ぶりを証明している。

 山中貞雄。戦地に倒れ衰弱しながら28歳の若き才能は、無念に震えたことだろう。京都の生まれ。旧制商業学校の時から映画のとりこになり、18歳で京都の撮影所に入る。手がけた作品は多いが、現存するのは「丹下左膳余話 百万両の壺」「河内山宗俊」と「人情紙風船」の3本といわれる。もし彼が戦争から生還していたら。多くのファンや映画人がそれを語り、夢想する。駆け抜けた年月はあまりに短いが、その命は永い。

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