花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

諏訪新道と本町がひとつに

2011年09月27日 | レモン色の町
本町の水谷氏からお借りした1966年(昭和41年)のチラシです。

なんと主催 新道通連合発展会とあります。抽選場所が三箇所、諏訪町・マコー前 沖の島町・京屋化粧品店前 本町・もち市前。つまり新道から沖の島、本町の通りがひとつになって抽選会をおこなっていたのですね。
     
     
もう一枚のチラシは、スワ百貨店 開店記念大売出し。オープンが昭和37年9月5日で、チラシの売り出し期間が開店間もなくの9月22日~27日となっており“楽しいお祭りのお買い物は・・・”と印刷されています。四日市祭の開催とあわせての売り出しだったのです。当選者のご招待日は、11月10日。市民ホール(現在の市営駐車場)で水原弘ショーが3回開催されるとあります。
スワ百貨店の住所が、四日市市浜田一番街となっております。
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まぼろしの映画“突貫小僧”

2011年09月25日 | 諏訪商店街振興組合のこと
本日もユーチューブを覗いておりましたところ小津安二郎の“突貫小僧”に出会いました。昭和4年のサイレント映画でコレマタ貴重なフィルムであります。(1巻と2巻があるのでご注意を)
      左 青木富夫
突貫小僧こと青木富夫は“生まれてはみたけれど”の弟役で、当時、母親が横浜でスナックを経営、そこへ客としてきた小津監督に「子供がこんなところで遊んで居ちゃダメだ、撮影所へ来なさい」と誘われ松竹蒲田で子役となった。決して可愛い顔つきでない青木は、やんちゃ坊主振りを発揮。ユニークな子役として小津監督の作品に何回も出ている。
(実際は、母親の店付近が教育上良くないということで、守役のお姉さんと蒲田撮影所に行っていたところを、小津監督に見出されたらしいデス)“突貫小僧”と“生まれては見たけれど”を比較すると、青木富夫の子役としての成長が伺える。兄は戦後の第1作の“長屋紳士録”に出演。八卦見の笠智衆に拾われて飯田蝶子の元にやって来る戦災孤児の役として出演している。
入院中の小津安二郎のところへ見舞いに来た兄弟は監督から「お前たち二人とも、たいした人間にはなれなかったなぁ」と笑われたそうでアリマス。
     
斉藤達雄は、当時の小津作品によく出ている。“突貫小僧”では人さらいに役で、突貫小僧をかどわかしたものの、散々手を焼かされる間抜けな役どころを演じているし、“生まれてはみたけれど”でも、厳格な父親のようでありながら、上司の前ではおちゃらかす惚けた役をこなしている。
監督にみられるユーモア溢れる楽しい作品は、当時のアメリカ映画に影響を受けたものデゴザイマス。
     
     
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小津安二郎 静かな反戦

2011年09月24日 | 諏訪商店街振興組合のこと
ネットで検索しておりましたらユーチューブで“小津安二郎の静かな反戦”という映画に出会いました。(5巻に分かれています。1の5から2の5と順にご覧ください)
吉田貴重監督は、小津生誕100年を記念した年にニューヨークのテロで壊滅したグラウンドゼロに出かけます。そこでは小津安二郎回顧展が開催されており「東京物語」が上映されていました。
その後、小津がシナリオ執筆に取り組んだ茅ヶ崎の旅館に詩人の吉増剛造氏と訪れて小津監督について対談します。その記録映画でした。
小津安二郎は二度にわたり戦地に招集されています。最初は中国の最前線へ、二度目はシンガポールへ映画監督という立場で出向いていて、そこで終戦を迎え、戦争高揚の映画を撮らされることなく捕虜となりました。
悲惨な戦争を目の当たりにしてきた小津監督は、反戦の意思を映画に表現したかった。しかし、兵士や戦闘場面は決して撮らなかった。平穏な日常をテーマにすることで裏返しの反戦を問いかけていたのではなかったかと吉田貴重監督は語ります。
日常は繰り返されます。平穏な日常の反復のなかで、少しずつ変化(ずれ)が起こり、昨日とはすこし違った反復が、繰り返されていく。そして死に至るのが人生だと話しています。それが人の望む幸せな人生ではないかと・・・。
これは深い!なんとなく小津監督の映画で語りたかった深層に近づきつつあるような、そんな重さに触れつつあるような気がいたしてまいりました。
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台風が来た!

2011年09月21日 | おいらの商店街
台風15号は東日本のほうへ向かったらしい。午後3時頃にはすっかり雨も止み、明日は秋晴れの天気が期待できそうデアリマス。
オラの商店街は風雨が強まった昼前からシャッターが下ろされ、ほとんど休業状態となった。
先日、朝の連ドラでこんなセリフを聞き、忘れられません。「お店は、いつも戸が開いている」だったと思います。店はいつでも誰でも自由に人を迎えるように出来ているという意味合いのこと。あなたを「いらっしゃい」と受け入れます。
台風来襲の中、今日もなんとか店を開けていました。夕刻、ひとり、ふたりとお客様が入ってきます。みなさん「よかった、買い物ができて」といった表情をされます。
店が閉まっていたら「なんや せっかく来たのに 閉まっとるがや」となります。その点、コンビニは絶対に期待を裏切りません。見習うべきだと思います。
基本は、まずお店を開けていること。
ですが、なかなかムツカシイ。個店がテナントにはない利点、それはいつでも自由に休業できること。でも、それだけお客様の期待を裏切っていることになります。
自分にも言えることですが・・・反省!
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「彼岸花」作品紹介

2011年09月19日 | 諏訪商店街振興組合のこと
9月30日公開の「彼岸花」のストーリーです。
 平山渉(佐分利信)は、娘(有馬稲子)が親に相談なく谷口正彦(佐田啓二)と結婚することを知る。それを知った頑固な父親は「承知できない」と怒る。娘は娘で「私たちのことは、私たちでやっていきます」と言いかえす。
結婚をめぐる親とこの食い違いといったものを、小津監督は例によって雰囲気を盛った落ち着いた口調で語りだす。
 平山は、三上周吉(笠智衆)から相談を受ける。三上の娘(久我美子)は、バーに勤めながら、恋人長沼一郎(渡辺文雄)と同棲している。彼女の行動的な割り切り方を点景として、いつも見合い写真を突きつける気ぜわしい親(浪速千栄子)の好意を、反面「やっぱりウチがおらんと、おかあちゃんさびしいのでやろ」と明るく笑う京都の娘(山本富士子)など、婚期を控えた三人の娘に、小津監督の暖かい眼差しが行き届いている。
 他人の娘の縁談には、なかなかものわかりのいいところをみせる佐分利も、いざ自分の娘のこととなると、まるで気違いのように怒り散らす。山本富士子の芝居にいっぱいくわされ、つい暗黙のうちに娘の結婚を許してしまう結果になる。「結婚式なんかに出ないぞ!」とやけっぱちになってみても、やはり「出ないわけにはいかないだろう」と折れてしまう。
 「結婚式に父の笑顔を見ないことが、心残りだ」という娘のために、旅立った娘の後を追って広島へ向かう。父親のはにかんだ表情を大きくとらえてこの映画は終わる。
 親と子の対立をとらえながら、そこにはきびしさや暗さといったものは感じとられない。その対立は親子の愛情を基調にした微温的な情緒へ、容易に横すべりしていくからだ。
 山本富士子のおきゃんな性格がいい。佐分利は頑固一徹でありながら、子を思う親の心情をよくだして、巧演。
               昭和33年当時の映画紹介より
  垂坂のMさんからいただいた当時の新聞記事です。
     
 山本富士子は、監督初のカラー作品にふさわしい華やいだ雰囲気をだしていますし、妻役の田中絹代は、娘を弁護するしっかりした奥さんぶりをみせています。
     
 Mさんは当時映画館で渡されるパンフレット?も送っていただきました。
 このときの併映が“松竹グランドスコープ 泣き笑い日本晴れ”で出演は、渋谷天外・古川ロッパ・榎本健一・桂小金治・若水ヤエ子・伴淳三郎とまあ古いこと・・・上映期間は、昭和33年9月13日~9月22日となっています。
 Mさん、貴重な資料をありがとうございました。
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小津監督「生まれてはみたけれど」

2011年09月17日 | 諏訪商店街振興組合のこと
11月25日公開の小津安二郎再発見「大人の見る絵本 生まれてはみたけれど」のポスターを仕上げました。少し早いようですが・・・この作品は昭和7年に制作されたモノクロ無声映画です。
小津安二郎不朽の傑作、日本の無声映画のひとつの頂点、とベタボメです。
     
     
     
 これは世界的にも小津安二郎の初期の代表作として定評のある傑作である。小津はこのときまだ28歳。しかし見事に完成された表現に達しており、日本映画界で不動の地位を確立した。
 公開当時は、不景気時代を代表する暗い映画だと言われてきたが、実に見事に喜劇的に表現されており、笑いが痛烈な社会批評、人間批判になっている。
                   日本映画学校校長 佐藤忠男

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樹林舎発行「四日市の昭和」

2011年09月13日 | レモン色の町
     
図書出版“樹林舎”から「四日市の昭和」が発刊の運びとなった。
今日は代表取締役の高橋正義氏がわざわざ挨拶にみえた。
本書には、辻俊文さんの写真が多数掲載されている。実は辻さんの撮られた昭和商店街の写真は、現在岡田財団に寄贈されており、過去に私のところへ辻さんから紹介をいただき、記事を探しにこられた経緯があった。
昨年9月に亡くなられた辻さんの作品の多くが紙面を飾ったことは、喜ばしいことと思っている。
表紙の写真は、1番街交差点から諏訪神社を望む、表参道スワマエを撮られたものだ。左に三味太楽器店があり、商店街中央までアーケードが完成半ばだ。昭和32年中西秀夫氏の撮影とあるが、香具師が出ており、道行く人の服装から想像するに、お正月風景じゃなかろうか?とにかく凄い人出でアリマス。
向かって左側を歩くご夫人が、比較的軽装なのを見ると5月頃か?日の丸の国旗が揚っており、祝日であるのは確かです
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小津映画に観る 個人的勝手解釈

2011年09月12日 | 諏訪商店街振興組合のこと
親子の関係から、人生の「輪廻」(世代交代)と「無常」(この世のはかなさ)(曰、中野 翠さん)を表現しようとしていた小津監督は、「晩春」「麦秋」「彼岸花」「秋日和」「秋刀魚の味」となんども同じテーマで映画作りを進めていました。
この同じテーマでの繰り返しは映画が発明される前、江戸から明治にかけては庶民の娯楽としてあたりまえのことでした。現代でも、歌舞伎や能、落語などは同じ物語を、演じる人が変わることで、観客は繰り返し楽しんでいます。それが実演鑑賞の妙、だったと思います。
明治36年生まれの小津安二郎は、能が好きでした。「晩春」にも能鑑賞の場面が出てきますが、当然映画づくりの世界に能や歌舞伎の影響を受けていた、というよりもそこから抜けだしがたい監督だったのではなかったのでしょうか。
映像メディアがあたり前の、次々と消費されて行く現代では、なぜ同じ映画ばかり撮るのか不思議かもしれませんが、晩年に近づく監督にとっては「輪廻」と「無常観」を表そうとしたとき、それは、親子の関係が一番適切だったのではないだろうかと、勝手に考えております。
心地よさを感じながら“ふっと”ため息が出るような、笑いながらもしみじみと考えさせられるような、そんな小津安二郎の作品に魅せられていくばかりの私でアリマス。

10月のポスターができました 「秋日和」です 乞うご期待
     
     
     
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小津映画に見る「輪廻」と「無常観」

2011年09月11日 | 諏訪商店街振興組合のこと
9月30日の小津安二郎再発見は「彼岸花」です。
この作品は、昭和33年9月7日に公開された小津監督始めてのカラー作品で、机に飾られた花や、山本富士子の着物の裏地に見られる赤や黄色の色彩が見事です。例によりチェックのカーテン、縞模様の着物、湯飲みの模様などに小津の趣味が色濃く出ているところにもご注目ください。
今回は、父親役の佐分利信が娘の結婚に大反対なのですが、中村伸郎の説得や山本富士子の策略、田中絹代の内助の功も手伝って有馬稲子の結婚を許すことになります。
     
小津監督の戦後作品には立て関係を描いたホームドラマ、娘を嫁に出す親子ドラマが多く見受けられます。「晩春」と「麦秋」では原節子が、「彼岸花」では有馬稲子が、「秋日和」では司葉子が、「秋刀魚の味」では岩下志麻が親の元を離れて嫁いで行く物語です。
晩年、がんに侵されていることを知った小津は病床で「やっぱり映画はホームドラマだ」と語っています。同じテーマの作品を作らざるをえなかった監督は悩んでいたんですね。その答えになるかどうか・・・と中野翠さんは著書「小津ごのみ」にこう記しています。
「麦秋」以降の小津映画には似たようなセリフが繰り返し出てくる。
「麦秋」では菅井一郎が「うちも今が一番いい時かも知れないねえ。これで紀子でも嫁に行けばまた寂しくなるし」と言い、
「お茶漬けの味」では木暮実千代が友達の娘である津島恵子を指して「この子ぐらいの時、何したって面白いのよ」それに対して友人は「そう、一番いい時ね、今」と応え、
「秋刀魚の味」では笠智衆が娘に向かって「そりゃお父さんだってね、今が一番いい時だとは思っているよ。でも、それじゃあいけないんだ」と言います。
多くの人は、様々な不満や屈託を抱えながらも、いささかの心理的努力をして、こういった言葉を呟き、自分の人生を肯定しようとする。
もうひとつ、今回の「彼岸花」では、山本富士子が「せんぐりせんぐり」というセリフを繰り返している。これは順繰りという意味らしい。
「小早川家の秋」では最後のシーンで、火葬場から立ち上る煙を眺めながら農夫の笠智衆が「(死んだのが若い人だったらかわいそうだけど)死んでも死んでも、あとからあとから、せんぐりせんぐり生まれてくるわ」と言うのだ。
     
これらのセリフから感じられるのは、「輪廻」とか「無常」、もっと俗に言えば「世代交代」や「この世のはかなさ」だと中野さんは語りこう結ぶ。
「今が一番いい時」という言葉の底には「いつまでもこの状態が続くわけではない」という思いが張り付いている。「私たちはいいほう」という言葉は「これを自分の一回こっきりの生として受け入れなけらばいけないのだ」という思いを「せんぐりせんぐり」という言葉は「いつか自分もこの世を退場する」という思いを、いわゆる「前向き」に言い換えたようなものだ。
誕生、成長、成熟、衰退、死・・・。世代の違う人間同士が同居する家族(特に親子関係)とは、まさに「輪廻」「無常」の場だ。凡人たちにとっての根本ドラマの場だ。
小津安二郎監督の残されたメモにこうあった
「何でもないものも二度と現れない故にこの世のものは限りなく貴い」
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本町通り商店街“大正100年祭”

2011年09月10日 | おいらの商店街
本町通り商店街振興組合が大正100年を記念して平成23年10月23日(日)より30日(日)までイベント“大正100年祭”を開催する。
それに先立ち、個人所有の大正時代の懐かしい品々(着物・写真・家具・おもちゃ等)があればお借りしたいとの事だ。
連絡は、本町商店街の“みずたに”(℡ 352-4241)までご連絡を乞うとのことであります。
     
     
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