花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

稲葉翁伝② 荒神山 其の二

2021年08月31日 | レモン色の町

この“血煙荒神山”にはプロローグがある(浪曲では題して“蛤屋の喧嘩”)。

“血煙荒神山”の吉良の仁吉(月形龍之介)

慶応2年2月20日夜。東富田の料亭三筋屋の看板娘お琴(現場は旧東海道 富田南町の料亭四日市屋から1軒北に排水溝がある。そこにお琴橋という小橋があったが、今<昭和31年現在>は無い)に穴太徳(あのうとく)の子分 馬道の熊五郎が、醉に乗じてお琴を口説き、あわや落花狼藉に及ぼうとした刹那、お琴と婚約中の神戸の長吉の子分で同じ町内に住む加納屋利三郎(元は質屋の旦那でいい男)が来合せて喧嘩となった。仲裁が入ってその場は納まったが、翌3月21日、(現、)伊勢朝日町の東芝工場西北の丘陵地の野天賭博で再び顔を負わせたので刃物三昧となった。しかし、これも人が入って大出入りとはならなかった。

訂正:荒神山観音寺の位置が間違っておりました。地図の左側、加佐登神社の位置を荒神山と記しましたが、加佐登調整池の上(左)の観音寺のある場所が荒神山になります。

穴太徳は、これを機に荒神山の長吉の賭場を横取ろうと、雇い入れた信州松本の浪人 角井門之助ら33人で富田の加納屋を襲撃。夜になって利三郎宅も襲ったが、不在だったので家屋を破壊した。そのまま一行は鈴鹿 飯野から甲斐を経て、今の定五郎橋を渡り旧街道沿いのおこん茶屋まで引き上げて再挙を謀った。(おこん茶屋は、旧東海道上野から高宮東へ出る松並木の中央、鈴鹿川の北岸近くにあった西側の一軒茶屋で“おみね”という美人の一人娘があり、確か明治27年頃痴情関係から男に斬られて養生しているのを筆者<三重公論 大島重敬>も通りがかりに見たことがある)

“血煙荒神山” 仁吉の女房が穴太徳の妹だった って本当か?

帰宅して穴太一家の殴り込みを知った長吉、利三郎らは、子分33名を集めておこん茶屋を目指した。途中、鈴鹿の渡(現在の定五郎橋)を渡り北岸を西行し、東海道へ出る少し手前で神戸へ向かう熊五郎と正面衝突してしまった。たちまち堤防から河原の草地にかけて大乱闘が展開され、利三郎は熊五郎を切ったが、その利三郎も角井門之助に斬られた。其処へ来た幕府の御用聞き 福田屋勘之助、梅田屋栄蔵らに追い払われ、その場は死者1名を出しただけで終わった。ここまでが血煙荒神山の前奏曲である。  “血煙荒神山 最終章①”へつづく


稲葉翁伝① 荒神山 其の一

2021年08月30日 | レモン色の町

図書館にて、珍本発見である。『郷土秘話 港の出来るまで 稲葉三右衛門築港史』

真っ黒で字が読めまへん!貴重本です!

150ページほどの薄い本。テープによる修理が施されていて、発行は昭和31年11月3日と古い。著者は三重公論 大島重敬。 浜田の弘運館で印刷されている。挨拶文も著名な方が並んでいて、三重県知事 田中 覚・四日市市長 吉田勝太郎、大蔵政務次官代議士 山手満男、他に市議会議長、四日市港振興会長と並び、当時の商工会議所会頭 伊藤伝七も寄稿している。

昭和31年 伊藤伝七氏による寄稿

さて“・・秘話”にふさわしい内容が出てくる。

夜遅く、回船問屋の稲葉三右衛門宅の戸を叩くものがあった。

「誰です、今頃何の用だすやろ」と内から声をかけた。

「船頭の利助です。ちょっと開けておくんなされ」

番頭の定七が表戸を細目に開ける途端に、利助と頬被りした男がいきなり飛び込んできた。一人は渡世人の庄太夫と名乗った。

「実は旦那さんに是非お願いせにゃならん急用ができましたんでナァ。是非今夜中に向い地の吉良まで船を出してくれと頼まれましたんや」

「船を出せというのは渡世人か?」

「へぃ、三河の仁吉親分に、清水港の次郎長の子分衆、大政、小政、大瀬の半五郎、法印大五郎、小松の七五郎、大野の鶴吉、桶屋の鬼吉です。」締めて33人である。

“決戦荒神山 監督:金田繁 大伴麟三・出演:月形龍之介 1932年 サイレント

「実は先だってから、神戸(かんべ)の長吉(ながきち)と桑名の穴太(あのう)の徳次郎の間に、縄張り争いが起こりまして、今日お昼の牛の刻から夕刻の六ッ時まで境の荒神山で大喧嘩がありましたが、この出入りで、吉良の仁吉が大怪我をしましたんで、お役人や穴太徳方のものに見付からないうちに、三河へ帰りたいと、こう申しますんで、へい。」

廣澤寅蔵の浪曲で有名な血煙荒神山である。 明日に つづく!!!

(267) 浪曲 「荒神山の血煙」 廣澤虎造 - YouTube


四日市湊物語⑯臨港橋その5

2021年08月29日 | レモン色の町

一方、浜街道から直角に分かれて築港に至る幹線道路に架けられた可動橋の臨港橋は、昭和7年8月に竣工した。径間72,7メートル、幅5,8メートル、工費7万2千円の巨費を要したが、これを四日市倉庫㈱(社長 熊沢一衛氏)と別会社の四日市臨港会社(社長 熊沢一衛氏)両社の全額寄付によって完成し、四日市港の二大名物として全国に名を挙げたのであった。

千歳運河に架かる臨港橋と鉄道可動橋(昭和10年)

初代の臨港橋は、橋面が木製で、中央の車道部分が木塊舗装、目地は加熱アスファルトの充填、歩道部分は板張りであった。

臨港橋特色の大型歯車(向こうに末広橋梁が見える)

昭和38年に架け換えた二代目臨港橋は、ヒンジ(蝶番のような働きをするもの)が東側に替わったほかは初代の橋とほぼ同寸で、石川島造船所で造られた。分かりました!上がる支点が反対になりました

昭和60年頃の二代目臨港橋(四日市港管理組合写)

平成3年10月、石川島播磨重工で完成された可動橋は、長さ72,6メートル、可動部26,4メートル、幅11メートルで全長は変わらないが、可動部分と幅員は約倍になっている。開く角度は70度、2分30秒で全開する。(メチャクチャ上がっております)70度だからこんなものですか?

橋が上げられたところを撮ることが出来た(2015年1月11日 の稚拙ブログより)※この時上がった角度はこんなものでした。通過する船が小さかったからか?

2015年1月11日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

二代目臨港橋が、初代に比べてやや使用期間が短いのは、自動車交通量の増加と車輛の大型化による橋の傷みが原因であった。ともあれ、四日市港に可動橋が現在二つも活躍していることは、全国的にも珍しい、誇り高い“息吹”であるといえるのである。

橋の中央に操作場がある

    椙山 満氏著 四日市市史研究 第7集より

特別付録:北野保氏の“よっかいち歴史浪漫紀行”に、末広橋梁通過中の貨物車の写真が掲載されていました。


四日市湊物語⑮臨港橋その4

2021年08月28日 | レモン色の町

和13年頃

大正14年 千歳橋架橋と千歳運河の造成工事

今の千歳運河 遠くに千歳橋が望める(現在)

千歳橋 現在

千歳橋 東向き 突き当りが日本板硝子さん 小学校の頃港の写生に来た。橋を渡った左に食堂があったのを記憶していますが・・・

国指定重要文化財<建造物 近代化遺産>末広橋梁(旧四日市港駅鉄道橋)<掲示板より>

末広橋梁は、現役では最古の可動橋で、昭和6年12月に製作されました。この橋梁は、四日市港修築事業で埋め立てられた末広町と千歳町の間の千歳運河に架けられています。四日市港修築事業は、明治43年から昭和3年までと、昭和4年から同11年までの2期にわけて行われました。千歳運河への架橋は第2期修築事業中に行われ、末広橋梁の他にも、幹線道路には可動橋である臨港橋も架けられました。

橋梁は全長58メートル、幅4メートルの全体では五連の桁より成りますが、鉄道基点よりの第二煉目から第四連目の三連が可動橋本体部にあたります。中央の一連(第三連目)が、第二橋脚上に立てられた門型鉄柱側に跳ね上がる跳開式の可動橋です。可動部分の前後に架かるプレートガーダーには、明治時代の「作練式」という桁が使用されています。橋梁の設計は、山本卯太郎の主宰する山本工務店が行いました。

山本卯太郎は、近代日本における橋梁コンサルタントの草分け的存在であり、架道橋を専門としました。末広橋梁は、彼の代表的橋梁作品として橋梁技術史上高い価値があります。

また、四日市港の発展過程の中で、陸上運送と運河舟運が拮抗していた時代状況を物語る典型的な土木構造物であり、四日市旧港港湾施設とともに我が国の港湾の近代化を示す代表的な施設です。

近代化産業遺産:末広橋梁は、経済産業省から「大量輸送を支えるため近代化・国産技術化が急がれた鉄橋・鋼橋の歩みを物語る近代化産業遺産群」に認定されました。(平成21年2月23日認定)

             平成21年6月  四日市市教育委員会

末広橋梁の現在 路線内への立ち入り禁止の表札が立つ 撮影に入る人が多いのでしょうか?


四日市湊物語⑭臨港橋その3

2021年08月27日 | 諏訪商店街振興組合のこと

当時、東京に山本卯太郎という人がいた。大正末期から昭和の初めにかけて、商港の荷役に必要な機械工事の設計、製作、施工を専門とする会社を経営していた。彼は技術家としての緻密さと周到さがあり、取引や交渉も早かった。先述の三つの可動橋は、主にこの山本工務所が引き受けることになり、まず、築港工事の基盤にあたる尾上町から2号地に渡る末広川橋から取り掛かるはずであったが、経費縮小の為、普通橋として掛けられることとなり、跳ね上げ橋として生まれるべき末広川橋は流産の運命に終わった。

昭和13年

大正14年、関西(訂正:完成の間違いでした 陳謝!)の近づいた2号埋立地が千歳町と命名されるに及び、それまで末広川と呼ばれていた築港運河は新たに千歳運河と名付けられた。そこに架けられた長さ32間、幅7間の鉄鋼橋は、大正15年3月9日に完成し、千歳橋と命名されて、当市最大の近代橋梁として脚光を浴びることとなった。

昭和7年 千歳橋

昭和11年 千歳橋を渡って国際振興大博覧会会場へ向かう市民 

大正9年12月、四日市駅から末広町岸壁に近い四日市港駅まで開通していた臨港貨物船(訂正:線)は、昭和6年12月、山本工務所の技術の粋を集めて出来上がった『四日市港駅鉄道橋』と呼ばれる径間54メートル幅4メートルの可動橋を轟々と渡り途中千歳町地内で多数の工場用引込線の枝を伸ばしながら第1埠頭に延長されていった。

千歳運河に架けられた鉄道可動橋

現在の末広橋梁

    椙山満氏著 四日市市史研究 第7集より

 


四日市湊物語⑬臨港橋 その2

2021年08月25日 | レモン色の町

大正9年に作られた築港計画図 前回掲載の明治19年デ・レーケ氏の計画図と比べていただくと面白い

この1号地は、明治43年から大正6年にかけて,当時の南起海岸(西末広町))と呼ばれた松原の海を埋め立てて出来上がった新四日市港の母体となる地区で、大正6年12月18日末広町と命名され、ここを基盤としてその東側の海の中に人口島を造成することになる。

明治40年 ・第1期埋め立て工事で消える直前の南起海岸の夕景(四日市の100年より)

大正11年。埋立は完了している。

地図の右側に四日市銀行と蔵町がある。出口對石市の絵がここから描かれた。

2021年8月17日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

その島が第2地区とも2号地とも呼ばれ、大正4年から14年にかけて埋め立てられていった。大正14年4月1日千歳町と命名され、末広町との間に生まれた水路の浚渫が始まるわけであるが、4大事業(阿瀬知川の開さく)によって、阿瀬知川口が名を変え末広川口と呼ばれるようになったこともあって、この末広町・千歳町の間を南北に走る延長2664メートルの水路を誰言うともなく末広川(運河)と呼ぶようになった。

昭和13年

2号地の埋め立てが急ピッチで進みつつあった大正9年頃この末広川運河に架橋が計画された。一つは、将来第1埠頭のできる近くに臨港橋を、次には運河の中間部に臨港鉄道の橋梁(四日市港駅鉄道橋)を、北方では尾上町と2号地を結ぶ産業道路に末広川橋であった。この三つはすべて可動橋(跳上げ橋)として計画され、これが出来れば全国に類例をみないニュールックの築港になるのである。  椙山 満氏 四日市市史の研究 第7集 より


四日市湊物語⑫臨港橋その1

2021年08月24日 | レモン色の町

話は明治19年に戻る。稲葉三右衛門によって四日市港の修築が完成するとほどなく、三重県ではさらに新たなる四日市港の修築計画を立てることが懸案となってきた。内務省土木局のオランダ人技師デ・レーケによるプランもその一つであったが、財政難のため着工するまでに至らなかった。

デ・レーケ氏による四日市港の構想模型(明治19年)

だが、四日市港を取り巻く海運の状況は、港湾の拡大整備をそのままにしておくわけにはいかなくなってきた。明治22年、九鬼紋七、田中武兵衛らは、デ・レーケ案を基礎とした願書を県に提出したが受け入れられなかった。そして、明治39年になって、四日市市単独での四大事業の着工が決定した。

尾上町と末広町の間の阿瀬知川口に架けられた昌栄橋(大正4年3月13日竣工)

この4台(訂正:4大)事業の内、新生した埋立地である尾上町から西末広町に渡るための納屋運河に尾上橋が架けられたのは明治42年1月。この橋は四日市駅と築港を結ぶに必要な橋で、そのすぐ阿瀬知川川口には水門が架けられた。

その水門のある阿瀬知川口には、大正3年9月(?上の写真と日が合いません?)、昌栄橋が架設せられ、尾上橋から南に造成中の新四日市港の第1地区というべき1号埋立地への工事資材を運ぶ重要輸送路が出来上がったことになる。   椙山満先生 四日市市史研究より


四日市湊物語⑪国産振興大博覧会

2021年08月23日 | レモン色の町

昭和11年、新港竣工と同時に千歳町で開催された「国産振興大博覧会」は、国全国的にも空前の大博覧会で、陽春の港四日市は全国各地から押し寄せた人波で連日大賑わいであった。

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その後、四日市港は塩浜地区や稲場町地先(大協町)、午起地先において用地造成が行われ、海軍燃料廠や大協石油、浦賀ドッグ(終戦で未完成)、などが立地し、工業港への性格を強めていった。


四日市湊物語⑩ ペスト騒動の末

2021年08月21日 | レモン色の町

昭和3年7月、四日市港の第1期工事全部が竣工した。しかし、工事を行っている頃、隣の名古屋港ではすでにその第2期工事が進められ、入港船の一部が名古屋に吸引され始めていた。そこへ突如として四日市にとって不幸な事件が発生してしまった。ペスト騒動である。

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2021年8月2日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

四日市は対策の為、大正6年に開港検疫所を誘致したが、大正10年には名古屋港に追い越されてしまった。

第1期工事に続き昭和4年4月から第2期工事にかかり、昭和11年3月現在の第1埠頭にあたる荷揚げ場などの施設が完成した。この機会に港四日市の姿を国内はもとより、広く海外にも宣伝しようと、昭和11年3月から「国際振興四日市大博覧会」が、四日市港頭(千歳町)にて華やかに開催された。


四日市湊物語 ⑨四大工事と臨港橋

2021年08月20日 | レモン色の町

明治39年、日露戦争が勃発し貨物の集散が一層激しくなり、もはや旧態に甘んじておれなくなった。そこで次の4事業を始めることとなった。①阿瀬知川の開削 ②入江の浚渫 ③海面の浚渫と埋め立て ④諏訪前(諏訪新道より本町)の道理改修 に取り掛かることとなった。

明治43年尾上町での起工式の様子

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新港建設の大工事は、大正元年の大暴風や、大正3年のシーメンス事件による政変、第1次大戦による物価上昇などいろいろな障害に合い、一時は工事中断の恐れもあったが、県と市の懸命の努力によってまずは順調に進み、昭和3年7月に第1期工事の竣工を見たのである。

相生橋から西(納屋町、本町方面)を望む 大正13年