井上勝
井上勝鉄道局長官は、総理大臣伊藤博文に、箱根の険峻、天竜川、富士川、大井川などの大河を除けば「概ネ平坦」で、中山道よりも32キロ短縮でき、工期も半分以下、費額も1000万円以下に抑えることが出来る東海道筋に進めることを上申した。こうして東京~名古屋間のルート変更が行われたのである。まさに、日本の鉄道史上、空前にして絶後の出来事であった。「日本鉄道史 幕末・明治編」老川慶喜著 中公新書
伊藤博文 内閣総理大臣
明治19年、路線変更が公布されて3日後、東海道鉄道は着工された。これにより、まず湘南地方の別荘保養地、海水浴場あるいは観光地としての開発の拍車がかかることとなった。こうして明治22年2月、国府津〜御殿場〜沼津〜静岡まで通り、2か月後には大府まで伸ばされた。一方、大津〜長浜間の湖東線が開通し接続、新橋〜横浜間の東海道幹線は、3年という早さで完成した。これで、嘉永年間の江戸〜京都間の大名行列は19日間かかっていたのが、東海道線全通後は11時間2分という速さで達するようになった。
国有化直前(明治39年)の鉄道網
さて、四日市に本社を持つ関西鉄道(かんせいてつどう)が設立されて、四日市〜亀山間に線路を敷くのが明治23年、四日市〜桑名間の開通は明治27年であり、タイミング的にも東海道線の鈴鹿峠超えが絶望視され、これに負けじと奮起した様子が想像できる。
一方、東海道線の開通により横浜〜四日市〜神戸を、船で運搬していた日本郵船は減収に、大津〜長浜間の太湖汽船は、営業廃止に至っている。
来航した蒸気船が持参した機関車の模型は、文明開化を告げる日本国中に大きな影響をもたらしていったのであります
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