花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

市井からの眺め96国営化の後②

2020年07月26日 | レモン色の町

大隈重信内閣により召集された“軌制調査委員会”は、大正5年4月に、第1回が総理官邸で開かれた。ところが、鉄道施設の未整備な地方に地盤を持つ議員の多くからは、狭軌のままで良い、金をかけるなら地方新線の建設に力を入れるべきだという意見が出され、この年の8月まで14回にわたって開かれた委員会も「軌制ニ関スル根本方針ヲ議決スルニ至ラ」なかった。

大正5年10月、大隈内閣が更迭され役員も解任となる。この間、第二次大隈内閣は、欧州で起きた第1次世界大戦(大正3年7月〜大正7年11月)に日英同盟に基づいて参戦している(ドイツ領の青島 出兵)。結果、軍需製品を中心とした輸出が伸び、日本につかの間の好況が訪れることとなる。

横浜線での広軌改築実験

大正5年、鉄道院に再任した後藤新平は、工作局長 島安次郎の意見書に注目した。広軌改築はそれほど難しくなく、さほど負担にならないという。後藤は、島案に力を得て広軌改案を推進、横浜線の原町田〜橋本間に広軌鉄道実験装置を造ることに賛同した。

原町田は 横浜鉄道時代の駅名(明治41年)現在は町田駅となっている

島は、狭軌と広軌の二重線路を敷き、改造した機関車を走らせ実験は無事終えた。ところが、大隈総理に続く寺内正毅内閣では、多数決で広軌案が否決された。大正7年、米騒動で寺内内閣は辞任、次の原敬内閣になると地方中心の交通政策となり、広軌論は事実上不可能となった。

<余談>

“地方私鉄1960年代の回想”のブログを見つけた。八王子・内部線の懐かしい風景が楽しめる。

近鉄電車と並ぶ八王子線客車のかわいいこと。例によって コピー・貼り付けで お願いできませんでしょうか?

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コメント (17)
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