花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

諏訪マーケット前

2010年09月28日 | レモン色の町
昭和32年 諏訪駅が現在の四日市駅へと移転し 諏訪マーケットの前には 駅跡の広い空き地ができました
辻さんは ちょうどキタオカさん前から 諏訪マーケットに向かって写真を撮りました
東方面から 西のひかりやさんへと・・・
          
前回掲載の霜書房の奥さんが 表に出てきています
          
氷の看板が見える柏屋さんの右に路地があり 辻写真館さんへと抜けていました
          
正面に見える屋根が諏訪劇場です
          
ことぶきパチンコさんの建物が見えます
          
新しく出来た近鉄四日市駅から 諏訪の商店街への通路として利用されていたようです

辻さん追悼 2

2010年09月26日 | レモン色の町
昭和32年、近鉄四日市駅が出来て、諏訪駅は取り壊されました。
諏訪駅の南(現在のパチンコホームランあたり)に建っていたのが諏訪マーケットでした。
          
建物表には諏訪百貨店とありますが、辻さんは諏訪マーケットと云ってみえました。
マーケット内部の賑わいです。下の写真は、まつ重文具店さん
          
戦後俄かに建てたマーケットは、小さな家屋の集合体でした。
          
入り口にあった霜書房さん
          
なかむらはきもの屋さん
          
手芸店さんは、時の流れを感じさせません。
          

辻さん追悼

2010年09月24日 | レモン色の町
          
右に辻写真館さん 北に伸びる路地は諏訪駅に通じていました 左がスワン美容室さんです
辻さんは 変わりゆく街の風俗を 多くの写真に残されました
          
諏訪公園南側の通りには飲み屋の屋台が並んでいました
          
屋台内部の様子が伺えます
          
諏訪公園西通りにあった 夜の「春告園」の様子です 「後楽園」と並ぶ四日市の赤線地帯でした
息を凝らしてシャッターを押す辻さんが眼に浮かぶようです
          
現在のすずらん通り 北京飯店前の賑わい レストラン笹井屋が並びます
          
すずらん通りを交差するように連鎖街がありました 路地には飲食店が軒を連ねています

辻 俊文氏逝く

2010年09月22日 | おいらの商店街
辻 俊文さんが逝かれた。
入院してみえたことは聞いていたが、あまりにも突然でその死が惜しまれる。
思えば随分お世話になった。辻さんは、一眼レフのカメラで、昭和30年代初めの移りゆく商店街を写してまわった。
当時の写真をインターネットに公開したいとお願いにあがったのは、8年ほど前になるか。快く了解を頂き、しまってある箱から写真の束を出された。
昭和30年頃は、四日市諏訪駅が撤去され諏訪百貨店が建った。1番街が形成され、四日市の中心商店街が大きく変わる時代だった。諏訪公園周辺では赤線地帯が廃止された。
「街の人々の風俗を撮りたかった」そうおっしゃられた。当時、辻さんの持つカメラは珍しがられ、人にカメラを向けても、さほど抵抗はなかったということだった。現在でも、辻さんの若かりし頃の写真が店頭に飾ってあって、当時のダンディな一面を覗かせている。
自治会などでも活躍された人であり、街の重鎮として商店街活動においてもよき理解者であった。
          
辻写真館さん前 左は諏訪劇場 娘さんを撮った写真か?
          
1番街通り 右マルミヤさん 左 フクヤさん
            
諏訪劇場前にたつ香具師
          
諏訪公園西の通り 市民壇裏
          
諏訪公園からいっぽん西に入った通り
          
すずらん通りから西にすすんだあたり ナショナルパチンコ裏
          
1号線を東に向かって 右側が諏訪新道
          
四日市近鉄駅前 南側バス停前

四日市とんてき協会様お疲れさまでした

2010年09月20日 | 諏訪商店街振興組合のこと
厚木のB-1グランプリが終了いたしました。四日市とんてき様、精一杯のご健闘、ご苦労様でございました。
残念ながら10位入賞は出来ませんでしたが、大健闘だったと思います。
予想以上の来客に2時間待ちとなり、かなりトラブってみえる様子がテレビから伝わってまいりました。
残念はともかく、なんと朝の報道番組で大きく取り上げられていて、会場で涙するご様子が写し出されていました。これは、なにより大きな成果だったと思います。四日市とんてきが敗者であったにもかかわらず、全国配信されたのです。
扱うお店も増え、来街者もふえると確信しております。
おつかれさまでした。

タウン・ウオッチングに参加して

2010年09月18日 | 諏訪商店街振興組合のこと
9月17日午後3時より、四日市商工会議所まちづくり支援課の呼びかけでタウンウォッチングが行われました。指導は地球環境デザインの石崎均氏。1番街・諏訪西・本町・諏訪の四つの振興組合のメンバー中心に約30名が参加しました。
タウンウォッチングとは、実際に街を見て回り、まちの持つ資産や改善点などを挙げ、出された意見をまとめて街のグランドプラン作成作業につなげます。
中心市街地を各振興組合の4ゾーンに分け、それぞれがグループに分かれて街をウオッチングします。写真とアンケート、そして気付いたことをカードに書き込んでいき、再び集まり、まとめたものを発表し合うのです。
日頃、商店街にどっぷり浸かっていると良い面を見落としがちですが、今回、我々のメンバー(諏訪西と諏訪)に加わっていただいたコンサルタントの藤本さん、県の産業支援センターの松崎さんからは、外から見た新鮮なご意見が聞けました。時には、来街者の眼で商店街を見る必要があるようです。
旧東海道沿いには、和菓子・表具・仏壇店が目に付きます。ここから東方面には寺院も点在し、駅前にはない歴史を感じさせる街並みから、ふさわしいコンセプトが探れそうだとのことでした。
魅力ある店舗も目に付き、工夫と創意を凝らして営業しているお店と、そうでないお店との格差が感じられました。
道路の植栽やモニュメントは、どれだけ手入れが行き届いているかで、商店街の取り組む姿勢がうかがわれます。
清掃は大金をかけずにすぐにでも出来ること。散らばったゴミは目に付きます。掃除が行き届いているか否かは、そこに営む住民がどれだけ街を愛しているかにつながり、街の安心・安全の目安となります。
1番街周辺は飲食の店が充実してきました。諏訪西は、神社と公園を生かした街並み作り。本町は歴史を感じさせる和菓子店や八百屋、魚屋、食堂などの最寄品を扱う店が多く。中間に当たる諏訪地区は、個性を打ち出そうとする専門店の力量が問われるところです。
石崎先生からは、今回の取り組みにあたり空き店舗を調査したところ、じわじわと侵食が広がっている。これ以上すすむと街に力がなくなる危惧を感じる。この事業は大切なチャンスとして捉えたいと話してみえました。
地元の表参道スワマエは、高齢化と営業不振でのパワーダウンが気がかり。お互いの振興組合が連携を取り合い、刺激し合い励まし合って、元気な中心商店街にしていきたいものです。
商工会議所のまちづくり支援課様にはご足労をおかけします。大きな命題を背負ってのお仕事、お付き合いをよろしくお願い申し上げます。

観光の哀しみ

2010年09月12日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
ただ今午後4時。日曜日。残暑が続く商店街は閑散としている。惰眠から目覚め、半ば呆然として店の真ん中にたたずむ。恐ろしいほどの閑散振りである。
本町のハットリ氏から借りた、酒井順子著の「観光の哀しみ」を少し覗いてみる。観光の何が哀しいのか?
旅行をしているとき、ふとした瞬間にものすごく、哀しい気分に襲われることはないでしょうか?の一文で始まる。
観光という行為は、基本的には「招かれてもいないのに出かけていく」ことによって成り立っていることが、哀しみの原因ではないか、と書いてみえる。
観光客にお金を落として欲しい一方「旅の恥はかき捨て」気分で立ち入って欲しくない部分は拒絶されるのが原因の一部か。
さて、旅の哀しみで思い出す。
昔、男ばかりの十数名で一泊旅行に出かけた。卑猥な期待感でいっぱいの楽しい旅行である。行き先は○○温泉。役員が腕によりをかけて探し出した穴場だ。泊まる旅館は、駅前の温泉街から少し外れたところにあった。
遊郭の面影が残る通りに建つ宿は、木造の二階建てで古びていた。
薄暗い玄関から入ると、すれ違いざま、おばはんにマタグラをつかまれた。慣れた手つきで次ぎつぎと触って行く。ヨロコブと言うよりもあっけに取られた。つかみ返す気分にはなれない。
さて、小さい風呂に押し合いで入った後、宴会がはじまった。
ここで三人のおばはんの熱演が始まる。あまりのおぞましさに、ほとんど記憶にないが、最後は並んで腰巻ひとつで踊っていたのを覚えている。
参加者の大半が中座して部屋に寝転んでいると、飯が用意できたと呼び戻された。
夜が明けて朝食時。旅館の朝は独特な雰囲気がある。
おばはんは、昨夜の非礼を弁解という形で話す。客に舐められないため昔からやってきたことだそうだ。
おそらく、この御仁方は若い頃娼婦だったのだろう。おばはんの好意にノリの勢いで答えるべきだったか?
哀しみというよりも、悲しみを感じつつ温泉街を後にした。

池上彰著「そうだったのかアメリカ」

2010年09月11日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
           
池上彰さんの本は面白くて分かりやすい。NHK時代に抑えられてきた思いが、ここにきて一気に爆発したような感がします。
「そうだったのかアメリカ」集英社文庫
1972年6月民主党本部に盗聴器が仕掛けられる事件が起きました。ウォーターゲート事件です。時のニクソン大統領は、「ワシントンポスト」の二人の記者の勇気ある追求の末1974年辞任に追い込まれます。
これからさかのぼる1961年。キューバの亡命者たちが、キューバのビックス湾に進攻上陸しますが、カストロ軍に敗れます。実はアメリカに楯突くカストロを負かそうとCIAが策略したことでした。
「ニューヨークタイムス」は事前にこのことを察知していたにもかかわらず、CIAの介入を伏せて小さな記事の扱いとしました。前もって報道されていたら今回のような失敗はなかった。このときの禍根がウォーターゲート事件に生かされているのです。
1971年、ニューヨークタイムスは、国防総省がベトナム戦争へのアメリカの関与をまとめた文書、歴代の政権が国民を欺いていたということが分かる文書の掲載を始めましたが、ニクソン政権の力で中断。しかし「ワシントンポスト」も参加して報道機関と政府の戦いとなり、裁判ではワシントンポストが勝利することになりました。
口やかましい報道機関が権力を監視し、報道することによって、アメリカの自由主義体制は維持できる。自由主義体制があってこそアメリカの安全保障は成り立つ、と言う論理でした。
結果、国民の大多数の意思で、アメリカ軍はベトナムから撤退することとなります。権力を恐れない報道機関がある、これがアメリカ社会の強みなのです。
もっとも、最近はメディアの巨大化でその伝統は危機にさらされていると警告してみえますが・・・
私が思うに、最近の日本の報道機関には歯がゆさを感じます。悪いことは悪いという根本の判断がぼやけてしまっているような、そんな気がしてなりません。
池上さんは今回の民主党代表選を、どう見ているのでしょうか。

四日市とんてき B-1グランプリ出陣式

2010年09月07日 | 諏訪商店街振興組合のこと
今日は、四日市とんてきさんのことを 商連おふぃしゃるぶろぐに記しました。
一度ご覧あれ!
http://ameblo.jp/y-shoren/
オー イソガシ
           来賓の四日市市長
           とんてきの試食会
           四日市とんてき協会のメンバー

妻の不在

2010年09月06日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
娘婿のお母さんが亡くなられた。
葬儀は川崎。おっかあと娘は一泊で出かけた。
家の中に猫三匹。外には四匹。犬一匹。隣の娘宅に猫三匹。合計11匹と自分が残された。(11匹の猫とあほ親父・・・馬場のぼるさんのこんな題の絵本があったのを思い出す)
おっかあは、猫どもお世話の詳細を文面に記していった。缶詰を三等分して・・・トイレを変えて・・・作業を終えるとチェックを入れるようになっている。
夜、早めに帰宅。犬の歩を大急ぎで済ませると、早速作業にかかる。暑い中、猫のクソを取るたびにオェッとなる。
オェッ オェッと言いながら、汗だくになって、1時間以上かけようやく終了。
顔を洗い、汗を拭いて、さて、本人の今夜の食事は何にしようか?今日は豪華にカツカレーといこう。
出来合いを買ってくるのもつまらない。そこでトッピングに決めた。解凍したご飯(豪華じゃない!)。中村屋のレトルトカレー(340円)に、買い求めてきたロースカツ(440円)をのせる。豪華と言うには程遠い。
合計の経費は飯別の780円?なんじゃ、これならココ壱のカレーのほうがうまくて簡単だった。
管理人がいないのを幸い、焼酎を少しおおめにいただく。
テレビに映る小沢一郎様の笑顔が、キモ悪い。
長時間にわたる晩酌の後、カレーをつくって、食卓の上を闊歩する猫ども三匹を蹴散らしながら食したはずが、如何にして食事を終了したのかあまり記憶にない。食器が片付いているのを見ると、どうやら自分で洗ったらしい。
妻のアリガタミを身にしみて感じる、暑い晩夏の夜でゴザイマシタ。ナ~ム