花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

戦争直後の諏訪公園

2018年03月28日 | レモン色の町

昭和28年の名古屋タイムスからの再々掲載です。

“聖なる教会”真ン向かい 紅い燈ともる特飲街 そのまた隣が幼稚園

〇 諏訪連鎖街を昔は新田町といった。戦前、諏訪神社の境内だった土地に諏訪産業という会社が軍隊の払い下げの建物で建売りを始めたのが戦争直後、ボツボツ人も入り住んだが、一日で二人の通行人しかなかった日もあって最初に店を開いた人は泣いたそうだ。これが一期生。それから順次二期生、三期生、四期生となるころは今のような盛り場が出来上がった。それ以後は新入生と称するそうだ。現在(昭和28年当時)七十六軒、周辺は商店で真ん中の小道はノミヤが多く、客も社用族が多い。僕の家というのは、桑名町で同名の店を出して有名だった。主人は年うつり、いまやまるハゲとなった。ホセとカルメンは同じ資本のバー、白菊、文楽はよくはやるノミヤ、特徴はヨルバイトをしないこと、だそうだ。街に立つ女もいないし、温泉マークも周辺にあるにはあるが青線的形態ではないらしい。その方の御用は専らこちらと港楽園、春告園という特飲街がある。両方合わせて40軒、女を不当にサクシュするとかいうのでしばしば手入れをされたアブレ赤線業、行き詰まりの狭い路地のズラリと並んで、気の弱い男はとても近寄れない。ほかに諏訪公園前に待合という名の特飲店が数軒、その前にはカトリック教会があり図書館があり幼稚園があり、まことによき対照をなしている。すなわち図書館の窓から干し物が望まれたり、幼稚園の子供が区域へ迷い込んだり、しばしば問題が起こるゆえん、もともとカトリック教会があったのを無理に赤線が出来たものらしい(昭和30年頃までは教会と赤線が並立していた)。かつて、立ち退け、いや退かないでゴタゴタがあったそうだ。

〇 諏訪神社は信州の分身、9月25日から27日までが祭礼で有名な大入道やクジラ船の山車が出る。裏は公園、サルが飼ってある。のどかな雰囲気である。近所のパチンコ屋から軍歌(軍艦マーチ)が流れてくる。パチンコはさかんで満員「出やん、出やん」とガラスを叩いている。名古屋より甘いので、名古屋から出稼ぎに行ったらいかが?(文・川太郎、え・ワシズ泉夫)

過去、稚拙のブログ“温故知新”にも書いたが、諏訪公園内にあるスワパズルパーキングの場所に“四日市幼稚園”が建っていた。母園である(ボエ~ン)。空襲で焼け残った演舞場(①より③の部分)に、保育室④と管理室⑤、そして、昭和27年、2階建ての保育室⑥が建て増しされた。

写真が、正門横に建つ保育室、この2階(図の一番左が2階部分)で卒園式が行われた。すぐ西が春告園(赤線地帯)。道の西にカトリック教会があり、教会の築山から南を望むと港楽園(赤線)の竜宮城が見えた。飲み屋に囲まれているような繁華な場所に幼稚園があったのだ。ここの砂場はひどかった。砂の中から犬のフンが出てきたりした。O-157どころではない。現在であれば問題になるところだ。

昭和43年のゼンリン地図をみると、四日市幼稚園はなくなりトルコセンターがある。公園北側の屋台はあるが、南側は撤去されている。パズルパーキングの開業は54年4月だから、山本七郎氏が、駐車場建設に向け屋台撤去の交渉を始めた頃だろうか?

余談だが、昭和22年諏訪駅南のスワマーケットが開業したが、26年3月火災を起こして市内初の災害救助法が発動されたとあった。

もう一つ余談。明治44年6月に堀木の火葬場ができたそうだ。堀木村の南に建てられた。


男の囲炉裏端様 お世話になりました

2018年03月27日 | レモン色の町

3月22日の街歩きは大変お世話になり、楽しいひと時を過ごさせていただきました。早速、代表の志田様から当日の写真とアンケートをお送りいただきました。有り難うございました

午前9時30分スタートです。昭和13年8月16日、諏訪公園の猿の檻に、台湾から台湾猿5匹を導入することになりました。猿が送られてきた当日、公園課の課長さんは喜び勇んで来たところ、なんと、1匹だけニホンザルが混じっていました。約束が違うと課長さん怒ったところ「この1匹は 通訳 デス」

(“浅草お茶の間寄席”で仕入れたネタです)熱心にメモを取ってみえるので、中断しようかと思いました。申し訳ありませんデシタ。

ロッポニカ前にて。この日はお休みでした。藤井さん曰く、全国でも貴重な劇場だそうです。

諏訪駅跡地にて、諏訪駅があった記念碑か何かを建てるといいのではというご意見を頂戴いたしました。

あかもん前にて。店頭に板が立っていて、そこをするりと通過するのが楽しみでした。

最後のこども交流館前にて。昭和4年に熊沢一衛氏が蔵書と共に寄贈した旧四日市図書館。その西にあったのが四日市私立幼稚園。行政はトルコセンター建設を阻止するために幼稚園を建てたという意見もありましたが、トルコセンターのほうが後だったような気もします。調べます。

次回来年は、四日市で開催された二つの大博覧会について北野氏にご登場願えれば、楽しいんじゃないかと思い提案させていただきました。昭和27年の農業博覧会は、市役所前ロータリーから西へ、内部八王子線をまたいで工業高校あたりまでが会場だったそうです。広大な敷地に多くの来場者が訪れました。

伊勢新聞様、毎回取材いただき感謝申し上げます。

 


見方を変える

2018年03月25日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

PHP文庫‟日本史の謎は「地形」で解ける”竹村公太郎著は興奮する本だ。その栞に松下幸之助氏の言葉が記されていた。

何事もゆきづまれば、まず

自分のものの見方を変えることである。

案外、人は無意識の中にも一つの見方に執して、

他の見方のあることを

忘れがちである。

歳をとるととかく頑固で、自己中心的になる。柔軟な考えを持ちたいものです。


第3回 市内歴史散歩

2018年03月23日 | レモン色の町

昨日は、男の囲炉裏端の会さん主催の“懐かしの映画館巡り”にお邪魔しました。今回は、年1回のペースで3回目。戦前戦後の諏訪駅の様子を中心にしてお話しさせていただきました。私のようなものに何を話せばいいのか苦慮していたところ、よっかいち近代遺産研究会の北野保氏が参加されました。北野氏には樹林舎さんの写真集“四日市市の今昔”発行の際にお世話いただきました。北野氏から鉄道の広軌と狭軌、原爆模擬弾投下、四日市の偉人方の偉業、風俗と四日市幼稚園のこと等、貴重なお話が聞けて勉強になりました。楽しいひと時をいただき、みなさまに感謝です。ありがとうございました。


“すわまえ食堂”オープン

2018年03月17日 | おいらの商店街

映画会が終わると、常連の本間さんが駆け寄ってきて「感動しました。ありがとうございました」とお礼の言葉をかけてくれました。実はこの作品“新 喜びも悲しみも幾歳月”は、昔、劇場で感動した記憶があり、上映したい念願の作品でした。自分が高齢者になるとまた感慨深いものがあります。

この作品の最後に、植木等の孫が五島列島の浜辺で写真を燃やすシーンがありました。偶然にも表参道スワマヱでO氏が“すわまえ食堂”をオープンし、そのメニューに五島列島から取り寄せた“五島手延うどんのかまあげ”があるので、映画会の最後に紹介させていただきました。“すわまえ食堂”は、当面午後6時からですが、23日から昼間の営業になるそうです。

人柄が良いO氏を商店街で応援したいと思っています。皆様も是非出かけてください。“かまあげ”税別700円でございます。ついでに“五島灘”という焼酎をいただきました。癖のないすっきりした芋焼酎です。こちらもご賞味ください。


諏訪駅物語

2018年03月11日 | レモン色の町

戦前、東海道筋にあった諏訪驛は、戦後、キタオカとパチンコホームランのところに移った。この駅舎は、昭和31年9月に撤去されるまでの十数年の間建っていたことになる。3月初め、取材に来たCBCテレビの方に、1番街の通りを電車が走っていたと話したら驚かれていた。時代なんだなぁと思った。

諏訪駅はぼんやり記憶にある。そこで北岡氏とリオさんに尋ね、マップを作ってみた。不明なところが多く、ご指摘があればご教授願いたい。

この写真は、樹林舎さん発行の“四日市市の今昔”からの1枚(門脇 篤氏提供)である。休日の朝、名古屋行きのプラットホームを目指す集団。左の親子連れが父親と自分のように思える。あの日、父親は珍しく名古屋へ連れて行ってくれた。仕入れか何用か記憶にない。後ろ向きに腰を掛け電車の窓から外を見ていたら、隣の男性が割込んできた。父親は“押さないで欲しい”と注意すると、男は“冗談を言わないでくれ”と答えた。その会話が妙に悲しく今でも記憶に残っている。だからきっとこの写真は父親と自分であるに違いないと確信している。しかし、砂利を踏んで歩くこの道は、どの地点なのか?北岡時計店前か?駅構内の北口あたりか?


第80回 朔日恵比寿開催!

2018年03月04日 | おいらの商店街

3月1日は木曜日休業のお店が多かったため、2日に“表参道スワマヱ朔日恵比寿”を開催いたしました。

2011年12月に“復活 朔日恵比寿 スペシャル”を開いて以来、今回で80回目を迎えました。その間、景品に工夫を加えたり、のぼりや売り台を変えるなど絶えず変化するようにしてきました。ありがたいことには、ここ数年、北勢地域若者サポートステーションの皆様のご協力をいただいています。これからも変化、進歩していく“朔日恵比寿”であり続けたいと思います。