花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

我が愛しの映画館⑯三重劇場

2020年10月31日 | レモン色の町

 昭和20年6月18日、四日市市街地は大空襲を受けた。戦後トップを切って塩浜にあった海軍燃料廠の旧軍人グループが、有限会社「三重劇場」を立ち上げた。昭和21年2月18日のことである。このグループはそれから納屋町の「ロマン座」新田町の「四日市宝塚劇場」、津市の「津パール劇場」と映画館経営を広げていった。

 三重劇場は“E・T”で同館最高の興行収入を上げているがその後元気がなく(清水義一代表)洋画系の不況と建物の老朽化の見切りをつけて昭和60年3月、劇場を名古屋市のヘラルド興業株式会社(古川勝巳社長)に譲渡した。同社は四日市宝塚劇場と津パール劇場の経営を引き受けたが、宝塚は61年8月31日、三重劇場と津パール劇場は62年6月7日に全館閉館となり大手興業会社は三重県から引き揚げていった。

ワイズ・ミューラーの“ターザン”、アランラッドの“シェーン”、ジョン・ウェインの西部劇、“マイフェアレデイ”等のミュージカルもの等青春の思い出が詰まっている。昭和48年、ブルースリーの“燃えよドラゴン”がヒットするとカンフー映画が次々と公開された。昭和57年“ET”を子供と観に行ったときは、場内溢れるほどの人だった。三重劇場最後の満員御礼だった。

三重劇場只今上映中は、1962年(昭和37年)2月25日封切りの『蒙古の嵐』伊仏合作の巨編で、アニタ・エクバーグ、ジャック・パランスが出演の作品である。併映は、『カリガリ博士』のフィリッツ・ラング監督、エドワード・G・ロビンソンとジョーン・ベネットでモノクロ作品。昭和19年公開という古い作品を付けている。おそらく『蒙古の嵐』が大作だったのだろう。看板も“陽春に飾る豪華番組”とある。上の劇場写真は昭和37年2月と想像される。

切符売り場の左が入り口で2階へ上がると事務所があった。劇場内両側壁面に十字のネオンが点っていて、劇場内にトイレがあった。従って臭かった。

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我が愛しの映画館⑮四日市劇場

2020年10月26日 | レモン色の町

昭和6年、幸町に「泗水キネマ」が開館した。昭和8年、名前を「帝国館」に変えるが経営不振となり、昭和11年名古屋の水野栄三郎に経営者が変わる。ところが、所有者との間にトラブルが発生し一時休館となる。昭和16年7月に所有者が変わり(経営者側の勝利!)「四日市劇場」と改称、県下一の設備という宣伝での再出発となり、振興キネマ作品の「大都会」「葉隠大名」で開館した。空襲で全焼したが、翌々年には改装オープンしている。

上映中の大友柳太郎主演“まぼろし燈篭の女”は右門捕物帖シリーズの第4話。昭和36年封切りだが、ここでは3本立てで少し遅れて上映された。

併映の“赤い影の男”南広主演。これも昭和36年封切り。もう1本の“お嬢吉三”は市川雷蔵主演の34年封切の大映作品“お嬢吉三”。面白そうであれば、遅れて五社協定無視で上映された。(訂正・五社協定は俳優が他社に出演するのを制限する協定でした。観客にとっては良い面もありました。山本富士子出演だと大映とイメージできます。各社の特色が役者によって分かりました)

  • “よつげき”または“かまぼこ劇場”の名で親しまれていた。昭和30年代には封切り済みの東映映画を主にした三本立ての二流館だった。小学5年生の頃、大映映画の仁木悦子原作「猫は知っていた」を友達と三人で観に出かけた。場内は満席、煙草の煙はもうもうとして休憩時間にはもく拾いのオジサンがうろついていた。三人は後ろ通路の手すりに腰かけ鑑賞していたが、ひとりが「怖いので帰る」と言い出し、しぶしぶ帰路に着いた。
  • 昭和33年封切り。四日市劇場ではかなり遅れて上映されている。
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我が愛しの映画館⑭生きる

2020年10月25日 | レモン色の町

東宝創立20周年記念として黒澤明監督により制作された「生きる」は、昭和27年10月9日、四日市では弥生館で封切られました。

最後に完成した公園で「ゴンドラの歌」を歌う渡辺課長

人は何のために生きているのか、生きているなら何ができるのか。『生きる』は、まっすぐに問いかけてくる心にしみる名作です。“こころをよむ シネマレッスン 主人公が教えてくれること 青柳秀侑”より

黒澤監督は、コントラストでも、合成でもなく私たちがよく知る『ある物』を使って、白黒の世界に変化を付けました。監督は何意を使ったのでしょう。

胃癌であることを知った市民課長、渡辺勘治(志村 喬)は苦しみから逃れるため、街で出会った作家(伊藤雄之助)に誘われ生まれて初めて派手に遊びます。

この時買い替えるのが帽子です。そして、映画の中ほどを過ぎたあたりで、葬儀の場面となります。

自分を変えるための帽子は、最後のシーンにも出てきます。重要な役割を果たしていたのですね。これにはラジオ番組“こころをよむ”を聞くまでは、気づきませんでした。

むしろ最後の回想シーンで、公園ができた暗渠を見下ろす渡辺課長の空は、真っ赤な夕焼けだったような気がしていました。

“いのちみじかし 恋せよ おとめ”最後、公園のブランコに乗り 明るい色の帽子をややあみだにかぶり、ささやくように歌いだします。そして少し顔を上げます。まるで奇妙な色の帽子が仏様の後光か、天使の輪のようではありませんか。おそらく彼は、その時、悟りを開いたのです。何のために生きるのか。この帽子こそ、人生に光明を見出したことを伝える小道具だったのかもしれません。

らじる★らじる NHK こころをよむ 聞き逃し より検索してください

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こころをよむ シネマレッスン

2020年10月24日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

久しぶりにラジオを聴くことにした。今ではネット配信で過去(2か月前まで)の番組をいつでも聞くことができる。

さて、番組は『こころをよむ シネマレッスン 主人公が教えてくれること』その内容は・・・

第1回 愛の眼差し「ローマの休日」「めぐりあい」10月4日

第2回 勇気を持って「サウンドオブミュージック」「24の瞳」10月11日

第3回 邦画の香り「七人の侍」「天国と地獄」「生きる」「東京物語」10月18日

第4回 旅立て少年!「スタンドバイミー」「ニューシネマパラダイス」10月25日

第5回 我慢の先に「太陽がいっぱい」「ディアハンター」11月1日

第6回 予感に胸が「ウエストサイド物語」「マイフェアレディ」11月8日

第7回 修羅の道へ「明日に向って撃て!」「アラビアのロレンス」11月15日

第8回 越えられぬ壁「いまを生きる」「アマデウス」11月22日

第9回 父の背中「ジョーズ」「ゴッドファーザー」11月29日

第10回 自由を求めて「猿の惑星」「イージーライダー」12月6日

第11回 慟哭の果てに「ひまわり」「道」

第12回 少女の夢「禁じられた遊び」「ある夜の出来事」12月20日

第13回 夢見る頃に「オズの魔法使い」「メリーポピンズ」12月27日

NHK第2放送 [放送日]日曜日 午前6時45分〜7時25分

[再放送]その週の土曜日 午後6時~6時40分

  • NHKらじる★らじる こころをよむ シネマレッスン→聴き逃し番組を探すで検索してみてください
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我が愛しの映画館⑬地球防衛軍

2020年10月23日 | レモン色の町

若き日の道元が、宋の天童山景徳寺にいた時の事。ある日、典座の老師がキノコを並べて干しているのを見た道元が、老師の体を心配し「ご自分でなさらずに、誰か若いものにやらせてはいかがですか?」と言葉をかけました。

老師は「他はこれ吾にあらず」と鋭い口調で答え、道元をはねつけました。「他人がしたのでは、わしがしたことにはならん」というわけです。

老師にとってはキノコを干す作務も大切な修行のひとつ。いま自分がやるべきだからやっているのであり、人にさせては修行にはならないと主張したのです。

 

東宝映画「地球防衛軍」は、昭和32年12月28日弥生館で封切られました。お正月映画です。小学生の時、友達と誘い合って出かけたのですが、みんなが揃うのが遅くなり、地底怪人モゲラの出現を見損なってしまいました。

 

宇宙人ミステリアンと地球防衛軍の戦いに、ドキドキわくわくでございました。

ミステリアンの勢ぞろい。カネカカットルワ!

レーザー光線の音が忘れられません。

 

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我が愛しの映画館⑫ゴジラ

2020年10月19日 | レモン色の町

昭和29年11月3日、とてつもない映画が公開された。水爆実験の影響でよみがえった大怪獣が東京に上陸して大暴れするのだ。その名は“ゴジラ”!

身の丈が50mもあろうかという大怪獣で、戦車や戦闘機の攻撃もまったく通用しない。それどころかビルさえも叩き潰す怪力を持ち、口からは白熱光を吐いて、あらゆるものを炎上させてしまうのだ。

品川駅、銀座の松坂屋に和光の時計台、数寄屋橋、国会議事堂に勝関橋・・・と東京の名建築をことごとく破壊。

戦後9年、ようやく復興なった帝都はまたしても灰燼に帰してしまう。嗚呼!昭和こども新聞より

生物を溶かす薬でやっつける 海洋汚染もいいところでゴザイマス

ゴジラの最後

「ゴジラ」は再映の時に、当時、新東宝や大蔵映画を上映していた北側の劇場で観た気がする(この時は劇場が2館だったと思う)。

大正から昭和へ連綿として映画館経営の歴史を誇る『弥生館』は、建物の改修を迫られて昭和51年8月12日、3館を収容する『弥生会館』をオープンした(この時に1階が喫茶と駐車場、2階が3館の劇場になった)。1か所の映写室から3館のスクリーンに映写するという集中映写方式の県下初登場であった。メインの弥生館は東宝・監督若杉光夫、山口百恵・三浦友和「風立ちぬ」と監督 西川克己、森昌子「どんぐりっ子」。『四日市スカラ座』はチャールトン・ヘストン、三船敏郎「ミッドウェイ」。もう1館の『ぼたん劇場』は特選各社作品上映館としてスタートしたが、その後『弥生館2』となる。さらに有料駐車場、コーヒーサロン「オスカー」を併設して従来の劇場スタイルから脱却、多角経営に乗り出した。久保仁著“ローカル映画館史”より

平成9年2月28日『弥生会館』は閉館の日を迎える。この事は、稚拙ブログの2012年10月22日と2014年6月21日に掲載させていただいている。

 

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我が愛しの映画館⑪つづり方兄弟

2020年10月18日 | レモン色の町

弥生館の歴史は古い。明治26年開館の『新地座』が、大正10年に新興キネマ系の劇場『弥生座』に改名。

大正11年

昭和10年『弥生館』となる。

同20年6月の空襲で焼失したが、翌21年新築オープン。東宝系の封切館となり「ゴジラ」の第1作も上映された(昭和29年11月3日封切り)。

昭和37年(次週は 用心棒と椿三十郎が再映される)

昭和43年

加山雄三の「若大将シリーズ」、森繁久彌の「社長シリーズ」、また黒澤明監督の作品の数々や、文芸作品なども上映された。

昭和33年封切られた東宝映画『つづり方兄弟』は印象が強い(家の前の病院に出入りする人が捨てるごみを拾っている光景とか、フウフウが高熱を出しているシーンとか、ありありと目に浮かぶ)作品だった。監督は『警察日記』の久松静児。

文雄を見舞う先生(香川京子)横には同級生役の二木てるみ

枚方市のはずれ、柿の木の下にある小さなボロ家。ここにブリキ職人の野村元治(織田政雄)と妻みつ(望月優子)それに六人の子供が住んでいた。学校へ行っている圭一・まち子・文雄(頭師孝雄)の三人は、みな 天才と評判をとるほど作文が上手だった。

圭一は作文コンクールで貰った自転車で新聞配達をしながらソロバンを習っている。まち子は“みつ口”だが、それでも学校の先生になろうと思っている。誰からもフウフウという愛称で呼ばれている文雄は、小学二年生だ。(注・先生役に津島恵子・香川京子、友達に二木てるみ、ブリキ屋に森繁久彌、妻に菅井きん、医者に左卜全らが出演している)

頑固な気性の元治は、出先きで面白くないことがあると、仕事を中途にして帰ってきて、酒をあおってゴロ寝してしまう始末だった。こんな不甲斐ない夫を見てみつは夫婦別れをする決心で妹のはま(乙羽信子)の許を訪れた。けれども、戦争未亡人のはまの口から、元治が月々生活の足しにと、いくらかのお金を届けていると聞かされ、みつは夫の心遣いにうたれた。

こんな兄妹の生活に流れこんだ大きなニュース モスクワの国際作文コンクールの話である。三人揃って書いた綴方は、いじらしい祈りをこめて遥か北の国の都へ送られた。折返し受取の通知が来たが、なぜかフウフウのだけは来なかった。

フウフウは、学校の帰りに茶色の仔犬を拾った。マルと名づけて可愛いがった。フウフウは新しい夢を得たのだ。ある雨の日。いなくなったマルを探して駈けずり廻った文雄は、その夜高熱を出した。家庭薬で間に合わせたりしている間に、容体は取りかえしのつかないものになってしまった。文雄はわずか八歳で亡くなった。悲しみの中へ、新聞社の人たちが駈けつけて来た。そして、フウフウの作文が、モスクワで一等当選になったことを知らせた。せめて文雄の生きている間に一同は新しい涙を拭った。

 

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今週の禅語 可も無く不可も無し

2020年10月18日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

店頭に禅語を印刷したものを公開しております。ウィンドウを拭いていたら 子供さんを連れたお母さんが読んで聞かせていました。ハズカシカッタ!

可もなく不可もなし 物事を決めてかかってはいけないという意味です 年を重ね 経験が豊富になってくると 取り掛かる前に「あ!ダメ」とか「あ!それムダ ムダ」とか決めつけがちです。可能性を信じて『やる前から しり込みをしてはいけないな』と 自分に言い聞かせています。戻れるところまでは行動してみましょう。

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我が愛しの映画館⑩透明人間

2020年10月16日 | レモン色の町

『透明人間』は、昭和29年12月29日のお正月映画第1弾として東宝映画で上映された。戦後間もない作品だけあって、雰囲気がよく出ている。これは、街灯テレビの様子である。オイルパーマ250円・オータニ美容院

当時幼稚園児だった私は、母親におんぶされて弥生館へ観に行ったのではなかったか?灰の入れてある金属の箱に炭を入れて風呂敷に包んで持ち込んだ。足温器である。

河津清三郎は、東映のヤクザの親分という印象だったが、菅井一郎や藤原鎌足らとグループを作りフリーで活躍していたそうだ。

主演の河津は、太平洋戦争時、軍の実験で透明人間にされたが、透明の利を使い、キャバレーを経営するギャングと闘うという物語だが。ここでも悪の巣窟がキャバレーになっている。

その奥がギャング団の事務所である。

そして、最後の決闘シーンではアレレ?と思った。

なんと三條美紀を盾に取る悪人のボス・高田稔さんの左手が、しっかりと三條の胸を押さえているではないか。

確認のため モイチド。さすがに監督から注意を受けたのか、その後の手の位置は変わっているが・・・そんなの アリ?と言いたくなる。

河津清三郎で検索していたら、ウィキペディアにこんな面白いことが書いてあったので少々長いが、掲載させていただく。

昭和4年の映画「首の座」では、なかなか役の感じがつかめず苦しんでいた。「恋人が激しく止めたのに自殺してしまい、途方に暮れる」という場面だったが、マキノ正博監督の「芝居するな」との指示にも関わらず、力んでしまってどうにもならない。前に仕出しが入ったところで、河津がぐっと息を詰めるので、マキノ監督が「違う! 気張るな!」と怒鳴った途端、緊張した河津は一発、屁をしてしまった。「役を下ろされる」と思った河津は「あァ……」とマキノ曰く「何んとも情けない、阿呆みたいな顔」をしたのだが、三木稔はこの機を逃さずキャメラを回し続け、河津のこの表情をすっかり撮影してしまい、さっさと次のセットに移っていった。

このとき、屁の音は聞こえていたがスタッフは一所懸命で誰も笑わず、「うまいこと芝居しよんな」と思ったくらいだった。が、河津はマキノと三木を追いかけ、屁を詫びながら撮り直しを頼んできた。

マキノ監督が「阿呆んだれ! お前、もういっぺん屁出るか、よし出たとてあんないい芝居出来へんて! よかったなァ、おおきに、おおきに」とねぎらうと、呆然とした後河津は泣き出してしまった。

あとで三木キャメラマンはマキノ監督に「大きい屁こきやがってなァ。屁ェこいたらええ芝居になったちゅうのは、ちょっと珍しい役者やで」と感心していた。

河津は後年までこれを憶えていて、マキノと「あんたみたいに意地の悪い恰好のつかん監督はなかった」、「いや、そやない、お前ほど下手な役者はないで、屁ェこいたら芝居が出来た。けったいな屁みたいな役者やったぜ!」と、互いに冗談めかした会話を交わしている。

完成後、この映画で河津は、「演技賞もんだ」と高く評価され、その後大スタアとなったのである。

 

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我が愛しの映画館⑨諏訪劇場

2020年10月14日 | レモン色の町

まだ諏訪駅は健在の様子か?昭和31年頃と思われる。1号線が左右に走り、中央通りは未完成だ。昭和27年の講和博を終え、中央通り整備にかかったころだ。中央下にどっかと威容を誇るのは諏訪劇場。左下の諏訪駅は画面外になってしまっている。残念!

毎週土曜日の夜は東映映画の日。父と諏訪劇場へ。6時頃の始まりで、ニュース、予告と続いて、時代劇二本、蛍の光が流れるのが午後9時30分、自店の前の嶋口屋で肉うどんを食べる。いつもは35円の志のだうどんだが、映画の夜は、50円の肉うどんか天ぷらうどんが食べられた。

昭和32年9月26日の辻さんの写真。片岡千恵蔵の大菩薩峠を上映中だ。

「四日市の今昔」樹林者刊から、昭和37年の諏訪劇場。背景には、スワ百貨店が建設中だ。上映中は「お殿様と髭大名」里見浩太朗・桜町弘子。

次週上映は「大江戸の鷹」と

「若者たちの夜と昼」松山善三の脚本だ。題名は少々刺激的だが、内容は真面目そう。その手の期待にはこたえれなかったかもしれない。

昭和53年の地図では、四日市東映はジャスコB館になっている。

スワ百貨店もユニー系のアピカになった。ここの“寿がきや”にはお世話になった。

 

 

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