花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

四日市の中世城館⑬二条河原の落書

2022年03月30日 | レモン色の町

元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武政府が樹立されました。鎌倉幕府の北条氏打倒に参加した者は、反北条の一点では一致しつつも、政権構想での意見の対立は激しかった。これに後醍醐天皇の個性が加わって、政策や方針も一貫性を欠き「二条河原の落書」にあるような混乱状態が現出したのです。

榎原雅治著“室町幕府と地方の社会”より 図書館の本

“此比(このごろ)都にはやる物、夜討(ようち)、強盗、謀綸旨(にせりんじ)”

夜討と強盗は治安の悪化を示していますが、謀綸旨(にせりんじ)とはいったい何のことでしょう?

“綸旨”とは、天皇の意思を伝える文章様式のことです。一般に天皇の言葉は何人もの公家や官人の手を経て伝えられる重みのあるものですが、“綸旨”は、蔵人(くろうど)によって天皇の言葉を直接伝えることができました。後醍醐天皇は、内乱状態の中で成立した軍事政権の中で、恩賞認定のような即効性が必要な事項を素早く発するためには、シンプルに使用できる“綸旨(りんじ)”を扱うことが多かったのです。ところが、簡単であれば偽造もしやすい。その分、信頼性が低かったのです。

“本領(ほんりょう)はなるる訴訟人、文書(もんじょ)入れたる細葛(ほそつづら)”これは訴訟の多発を云っていますが、当時、多くの訴訟人が京都へ殺到しました。なぜでしょう?

隠岐に島流しに会っていた後醍醐天皇が、元弘3年6月、京都へ凱旋した時の“綸旨”は、元弘の乱で獲得した所領は、元の持ち主に戻すよう発しています。ところが翌月には、戦に負けた北条方のもの以外は、支配している土地の権利を認めるというように180度変わりました。恩賞を期待する武士の要求が強かったからでしょう。こうしたややこしい方針によって、所領紛争が多発し、多くの訴訟人が京都へ押しかけたのでした。

組織のトップに立つものが、その決断にぐらつきがあっては、世の中が収まる筈がありません。確固たる信念で筋を通していかない限り、混迷の時代は続くことになるでしょう。このあと、南北朝から、室町、戦国時代へと向かいます。

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四日市の中世城館⑫坂部城址

2022年03月28日 | レモン色の町

坂部城址は三重団地の西にあった。北側 城山緑地公園入口の坂を上る。

西坂部城跡

上ったところに案内板が立つ

西坂部には城跡が二カ所あって、小字「城」に鎌倉時代の三日平氏の乱において若菜五郎とともに平賀朝雅のために滅亡した萩原小太郎が拠点とした城があった。室町時代に朝明郡の中野城に拠った赤堀藤太郎がその前にここを居城としたとも伝えている。

もう一カ所は、この地で小字名「城の谷」といい、永録年中(1558-1569)に山本豊前がここに居たという。

城域は南北に、北ノ、本丸、二ノ丸、三ノ丸と名付け得る小区域があり、それぞれに土塁がめぐらされていたと思われる。

土塁は二ノ丸(南端)、三ノ丸(西南端)のフェンスで保護された部分に残っている。

この城跡は、四日市市開発公社により三重団地造成に際し、公園として残され、市民にとってかけがえのない文化遺産として また憩いの場として整備されたものである。   昭和47年3月31日  四日市市教育委員会

市開発公社三重平団地内に公園整備されている。標高77.1メートルの丘陵尾根にあり、左半は2段程の削平地があり、西半も2段程の削平地となる。南と西に細い土塁がフェンスで囲まれて保護されている。中央の最高部は台状地となり本丸といわれている。『勢陽五響遺響』に、「元久元年(1204)平氏党 若菜五郎 萩原小太郎に命して守禦(しゅぎょ)せしむ処なり」とある坂部城跡であろうか。(60×150m) “三重の中世城館”三重県教育委員会刊より

帰りはここから南側へ下りた

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懐かしの映画館跡巡り

2022年03月26日 | レモン色の町

3月24日“男の囲炉裏端の会”さんで実施いただいた“懐かしの映画館巡り”の記事を、中日新聞の篠崎記者さんが同行して記事にしていただきました。いい加減な説明でしたが、調べなおし記事を作っていただきました。ありがとうございました。“男の囲炉裏端の会”の志田さんにも、御礼申し上げます。

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衝撃写真ベスト4

2022年03月25日 | レモン色の町

昨日は“男の囲炉裏端の会”で、6回目の“昔の映画館巡り”を実施、楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。毎年同じことを話すのもどうかと思い、今回は、私の“レモンい色の町 衝撃写真ベスト4”を参加の皆様と共有させていただきました。

大正時代に建てられた“旧図書館”と昭和4年に出来た“熊澤図書館”の2棟が写った珍しい写真です。「写された四日市」市立博物館刊より

2021年10月16日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

掖済会前海水浴場の空撮。三滝川河口になります。小学二年生の金津さんは、角の石灰工場の仕事をいつまでも眺めていました。この時は、飛行機ショーが行われ、多くの観客が集まっています。港連合自治会さん所蔵

2021年10月15日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

霞洋館新館。別荘地でもあった富田浜海水浴場は、リゾートランドの様相を呈していました。戦争前夜のつかの間の平和が描かれています。「写された四日市」より

2021年6月8日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

Webサイト 椙山満先生の“北勢軽便王国物語”で知りました。

北勢軽便王国物語 (cty-net.ne.jp)

現在のハローワークの場所にあった合同駅は、四日市鉄道と三重鉄道の終点であり、始発駅でありました。

2021年10月18日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

昨日お尋ねがあった 四日市鉄道の”すは”と、三重鉄道の“すはまえ”駅の位置です。その後、ふたつの諏訪駅は、東海道沿いに統合されました。本町 まちかど博物館 水谷宣夫氏所蔵

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四日市の中世城館⑪茂福城址2

2022年03月23日 | レモン色の町

西側から

2022年3月15日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

近鉄名古屋線の富田駅と霞ヶ浦駅の中間の軌道東側に位置し、城跡を標示する石柱と最後の城主茂福盈豊(みつとよ)の碑が建てられています。

茂福城址の古い碑が立つ

この碑文によると、貞冬という人物が越前朝倉氏のもとにいましたが、応永年間(1394~1428)の乱を避けて当地に移り、地名に因んで茂福氏を名乗ったとされます。また、朝明川上流の保々に城を構えていた朝倉氏は、その同族といわれています。

東から西向きに
 「伊勢軍記」によれば、永禄3年(1560)に茂福氏は羽津城の田原氏と合戦に及び勝利したとあり、その7年後に城主朝倉盈豊は、長嶋で織田信長の家臣である瀧川一益(かずます)に謀殺され その際、斬られた主人の首を家臣の小川宗春が奪い取り、朝明郡保々(朝倉氏の本拠地)に葬ったといわれます。この時の戦いで茂福城は落城したとされています。

“満児喜圓大居士”とあり、墓石であることが分かります
 昭和52年の発掘調査で、外堀の一部とされる遺構や土器、山茶碗などが見つかりました。四日市市のホームページより

茂福城 - Wikipedia

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四日市の中世城館⑩鵜之森

2022年03月22日 | レモン色の町

浜田城址 其の六 雨の鵜の森

今日は雨。鵜の森公園を南から入る。

遠くに冠木門が見える

<浜田城の歴史>

明徳3年(1392)南北朝統一。北伊勢は48家が割拠。

元中9年(1392)佐野景綱(田原秀郷を祖とする)が三重郡栗原に赤堀城を築く。

応永35年(1428)赤堀城は次男の景宗に継がせた。景宗は長男を羽津城に、三男忠秀を浜田城に封じ、赤堀本家は関氏の次男を養子とし継がせた。

弘治~永禄年間(1555~1570)東海道を浜田城の東に移し四の付く日に市場を開いた。

永禄1年(1559)長野勢が塩浜に上陸、浜田と堀木勢が迎え撃ち撃退。塩浜合戦。

永禄2年(1559)関城主安芸守、神戸蔵人友盛方の茂福城を攻める。茂福合戦。

永禄3年(1560)織田信長、今川義元を討ち取る。桶狭間の戦い。

永禄10年(1567)織田信長、北伊勢に侵攻。員弁、桑名、朝明、三重降伏。

永禄11年(1568)長野城主工藤藤定、赤堀城を攻め降伏させる。

織田信長第2次北伊勢侵攻。

足利義昭第15代将軍に任官。

永禄12年(1569)織田信長、伊勢国司北畠具教、具房父子を攻め信長の次男信雄を養子としていれ和睦。その後信雄は天正4年北畠を滅ぼした。

此処が鵜の森神社と公園の境

元亀1年(1571)姉川の闘い 織田、徳川連合軍の大勝利。

滝川一益が茂福城主朝倉掃部介盈豊を桑名矢田城でだまし討ち。

織田信長、比叡山焼き討ち。足利幕府滅亡。

元亀2年(1572)羽津城主田原右京亮近宗、茂福城にて滝川一益の家臣山口四郎右衛門に毒殺され、同時に羽津城も攻められ落城。

天正1年(1573)織田信長、長島願証寺を6万の大軍で襲撃。

天正2年(1574)織田信長、北伊勢の寺院を焼き討ち。

天正3年(1575)滝川一益が浜田城、赤堀城を攻略。中川掃部助奮戦討ち死に

戦は何時も残酷です

 

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四日市の中世城館⑨鵜之森

2022年03月21日 | レモン色の町

浜田城址 其の五 掃部殿塚

平成29年1月15日の鵜の森神社 雪景色

前年(平成28年)10月 綱の会さんが 鳥居左側の神社と公園の境に“冠木門”を建てました

“掃部堂之秋景(かもんどうのしゅうけい)”知られざる四日市の面影より 水谷百碩画 四日市市立博物館刊

天正3(1575)年の浜田落城の時、浜田家の家臣中川掃部助が戦死した場所を、地元ではかもんど(掃部殿)塚と呼び、祠ももうけられていました。百碩は、掃部堂(かもんどう)という字をあてたようです。たわわに実る稲穂と鬱蒼とした森と対照的に描かれています。現在も、天理教四日市分教会の中に残されています。

史蹟 掃部殿塚

四日市草創の領主 名族 田原氏も 末路に近づいた天正3年(1575)の夏 浜田城の前衛として三滝川に織田信長の武将 瀧川一益の勢を堀木信濃守 中川掃部助等は衆寡敵せず此処彼処で討たれ 城主 遠江守 元綱は割腹して果て 浜田城(鵜の森)の落ちると共に皆散り散りになった。

 掃部助も終に恨みを呑んで此処に討ち死にした 埋められた屍の上に建てられた石龕(せっかん)は、おそらくは後年 鵜の森神社創立前後のものであろう 古戦場の常として陰々たる燐火の雨 夜毎に燃えて 浜田の子女を恐れしめた 地方民は尊崇して掃部殿の森と称し その後約350年間付近の木を切ったり祈るなどすれば たちまち病魔に犯されると語り伝えられ 樹木の生い茂るにまかせ 鬱蒼たる森のまま残されていた

 元地主 井島氏は 田原家の重臣で中川氏とも縁故であったから 毎年6月6日浜田城没落の日に その霊祭を欠かさず営んでいられた

 大正5年(1916)天理教教会内地となるに当たり 形見に残された数本の亭々たる老杉も朽ち失せ 境内に威容を留めていた大樹の松は 昭和34年9月26日(1959)伊勢湾台風で倒れて 今は石龕(せっかん)と僅かの雑木に遥か昔を偲ぶのみである

 

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四日市の中世城館⑧鵜之森

2022年03月20日 | レモン色の町

浜田城址 其の四 十六間四方白星兜鉢

YAHOO!地図より

参道入口左に“浜田城址”の石碑が立ちます。裏に浜田城の歴史が掘られています。

文明2年(1470)田原美作守忠秀(たはらみさくのかみただひで)は、この地に城を築き浜田城と称した。

 忠秀は当時の赤堀城主 田原肥前守 景信の二男である。

 その祖先は藤原鎌足であり、九代の末裔 俵藤太郎秀郷(御伽草子に描かれた三上山の百足(むかで)退治や平将門の討伐で勇名を轟かせた)の十一世の孫に豊前守景綱があり 信濃に移り佐野小次郎と称した。景綱より八世の孫 肥前守 田原孫太郎景信は、応永年代に上野の国赤堀より伊勢の栗原に移り、地名を赤堀と改め城を築いた。

 景信はその実子 景宗を羽津に、次男忠秀を浜田に、三男を赤堀に置いた。

 忠秀は築城の後、常盤の芝田町を通っていた東海道を城東に移し、東西に大道を通して市街を構成し、市場をひらいて今日の四日市の発展の基礎をつくった。

 浜田家は忠秀から紀伊守 藤綱、遠江守 元綱と三代 百六年間続いたが、天正3年(1575)織田信長の伊勢侵攻により、瀧川一益の大軍に対し、百余騎にて大手門を開いて押し出し、必死の戦いを挑んだが元綱は負傷し、城兵討たれるもの多く、元綱は 子息重綱を脱出させた後、城に火をかけて切腹して果てた。天正3年6月6日のことで、ここの浜田城の歴史を閉じた。

鵜の森神社には、浜田氏四代の霊が祀られており、浜田の家宝であった兜と伝えられている田原藤太秀郷ゆかりの十六間四方白星兜鉢(国指定重要文化財)が社宝として所蔵されています。

南から濠址を眺める。正面 土塁跡が小山を作っています。

土塁の上に遥拝所の碑が立っています。裏側になります。

遥拝所は拝殿に向き合っています。“太神宮遥拝所”とあります。

神社裏。稲荷社の赤い鳥居が並びます。ここを抜けると、西のローラースケート場に出ました。その後テニス場に、現在は公園になっています。

 

 

 

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今年も開催!エキサイト四日市バザール

2022年03月20日 | 諏訪商店街振興組合のこと

今年のメインは、eスポーツです

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四日市の中世城館⑦鵜之森

2022年03月19日 | レモン色の町

浜田城址 その三 土塁

今朝は少し早く出て、浜田城址の土塁を確認に出かけた。

戦前の鵜の森神社

鵜の森神社の拝殿を回ってみると、土塁が築かれ、周りは堀になっていた様子が分かる。

① 南側は整備されているが池状になっています。お堀の名残りです。

②土塁と堀跡の間を西へ

③ 拝殿の裏側は、昔 ローラースケート場になっていました。その後 テニス場に・・・現在は起伏のある公園になっています。

④ 本殿の裏側の土塁 昔の石積みが残ります 訂正:④の部分は 地図の位置から左になります“土塁”と書いてある字の当たりでした

⑤ 北川(訂正・北側)へ回ると稲荷社の鳥居が見えます

⑥ 北に出ました。腰曲輪址(?)は駐車場になっています。腰曲輪址って何でしょうか?

腰曲輪(コシグルワ)とは何? Weblio辞書

向かって左から廻り込み 右側に出ました。お城というより“砦”というイメージがふさわしい。

 

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