花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

がんばらんかい!諏訪商店街振興組合

2005年10月15日 | 諏訪商店街振興組合のこと
昨日、14日は四日市諏訪商店街振興組合の三役会があった。そこでエキサイトバザールのことが出た。
の商工課で助成金を出す窓口が変わり、次年度は金額がどのくらいになるか分からない。減るかもしれない。多分減るだろう、ということだった。
金が無くなれば止めるしかないか。というような雰囲気にオイラは取れた。否、これは役員さんに失礼かもしれない。オイラも役員か。
の前日13日にグリーンモールで先日のイベント「お諏訪さんにいらっしゃい」の反省会があった。秋のまつりに合わせて行われ、大成功を収めた。20軒ほどの商店街で、空き店舗が目立つ。日頃は人もあまり歩いてない。其処が人で埋まった。
省会の夜は、通りの真ん中に机が並べられて20人ほどが集まった。和気藹々として家庭的な雰囲気だ。ススム会長と、こんな雰囲気がスワマエにも欲しいなあと話した。MACKも招待を受けて、コスモちゃんの持ってきたギターで歌を披露してもらった。各お店から持ち寄った食べ物が並ぶ。
の元気にはまずこれが大切なんだなあと、つくづく思った。やればこれだけのことが出来るんだと自信を持ち、みんなが力を合わせるようになること。これが一番大切なことなんだ。
やイベント疲れ(ススム会長曰く)だったが、また元気が出てきた。諏訪栄商店街の垣根が取り払われ、みんながひとつになって、これからも活性化のための活動を続けて行こう。そんな気分でご機嫌だった。
ころが、翌日の諏訪商店街の会議ではしょぼくれるような話になった。ガンバレ!、四日市諏訪商店街振興組合。
30日は、よさこい祭りが盛大に行なわれる。
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白道寮物語 エピローグ

2005年10月12日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
平成2年10月。東京で展示会があったので出掛けた。その日はホテルで宿泊の予定になっていた。おいらは早めに用を済ませ、白道寮へ向かった。
宿から中央線で30分。夕闇迫る駅前商店街は少し近代的になったように見えたが、中華料理屋や本屋はそのままだった。帰路に着く人々があわただしく行き来している。
地を曲がると懐かしい居酒屋があった。が、すでに戸はしっかり閉められていて、かなり前に閉店したようだ。店の周りは草だらけだ。
の塀を右に見て、だらだらとした坂を下りると勝手口は立派な門に建て替えられて、戸がしっかり閉められていた。かすかにキンモクセイの匂いがする。
はどうなっているのだろうか。先を見ると、すでに白道寮はなく、荒れ果てた2階建てのアパートが4棟並んでいた。アパートは閉鎖されていて立ち入り禁止のロープが張ってある。20年以上の歳月の流れを感じる。この荒れ方からすると、オイラが寮を離れてまもなく取り壊されたに違いなかった。
辺を廻ってみたが、どこも門はしっかり閉じられていた。少し離れて境内を覗いてみる。木立の様子と山の上に建つ本堂は少しも変わりがなかった。あたりも暗くなってきたので、オイラは新宿へ戻ることにした。
イラが四日市へ戻った翌年、新宿駅で学生がゲバ棒を持って暴れた。新宿駅騒乱事件だったか。フーテンがはやったりして高度成長期のひずみみたいなものが、若者の間に出ていた時代だ。
時、新宿にアングラ劇場があった。一度見てみたかったので小池さんを誘ったが、結局、予備校の帰りに一人で行った。ビルの狭い階段を下りると、小さな部屋に舞台がある。10人ほどの人が入っていた。レースのカーテンの向こう側で、男女二人が理屈っぽいセリフをしゃべっている。まったく訳が分からなかった。
後にパンティひとつの女性が舞台に立ち、体にペンキで何か描けという。オイラは迷わず手を挙げた。女体を間近で見るのは初めてだ。震える手でへのへのもへじを書く。それが終わると、横にいたおじさんがペンキで線を加えて、蛇が体に巻き付いている絵に仕上げた。
イトが消され真っ暗になると蛇の絵が浮き上がった。蛍光塗料が入っていたのだ。音楽に合わせて裸の女性は体をくねくねと踊らせた。今思うと笑ってしまう。ばかばかしいことこの上ない。あれはいったい何だったのか。
いうところで、この物語はおしまいである。あれから十数年の月日が流れた。チャンスがあれば、また寺には訪れてみたい。
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白道寮物語5

2005年10月11日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
白道寮に冬休みが来た。寮内には2名の予備校生と、九州へ帰るお金がない岩本さんの3人になった。
局、岩本さんも出してきたばかりのラジオを再度質入れし、そのお金を足して正月前に帰っていった。寮内は立花さんとオイラの二人だけになった。
つも夜になると、どこかの部屋に集まりお茶会と称して、持ち寄ったお菓子やコーヒーを飲んでしゃべった。オイラと立花さんは工藤先輩の部屋へ忍び込み二人だけのお茶会をした。その部屋には粉末の高級コーヒーがあったからだ。ラベルには外人女性がコーヒーを飲むイラストが印刷してある。
夜、見つからない程度に少しずつ飲んだ。ところが気がついたら、ほとんどなくなっていた。悩んだ挙句、オイラは各部屋から持ち出したコーヒーを、そのビンに入れておいた。白道寮ブレンドの出来上がりだ。その後、工藤先輩からは何のお咎めもなかった。
の寮は寒い。人が居ないと余計寒い。ある晩、台所の机を拭いていた。いくら拭いても白い物が点々と残って取れない。よく見たら布きんの凍った水だった。
さんは寮生が二人になっても食事を作ってくれた。毎朝、袖が付いた掛け布団を着て台所に来た。関東では変わった布団があることをそのとき知った。まるで布団の山が歩いているようだった。正月は関東風雑煮を作ってくれた。どんなだったのかは記憶にない。
災予防のため、寮内は暖房器具の持ち込みが禁止されていた。湯たんぽが唯一の暖房機だ。湯たんぽに水を入れ直接ガス台にのせる。栓をしたままかけた学生がいて、大音響と共に栓が天井まで飛んだことがあった。
イラは辛抱できず、秋葉原で電気敷布を買い込み、押入れに敷いて机を置き、その中で勉強した。暖かかった。が、ほとんど寝ていた。
レビを一切見ない1年間だった。ニュースはラジオか、台所に置いてある新聞を読んだ。新聞は工藤さんのだ。皆が見るので工藤さんが読む頃にはくしゃくしゃだった。住職は、お金を出している人に悪いといつも怒っていた。
雪の降った冬が終わり、寮に春が訪れようとしていた。オイラは受験に出掛けたが、すべて惨敗だった。結果、四日市に戻された。
年前、兄が寮を勧めなかったわけが、わかった。
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白道寮物語4

2005年10月10日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
昭和7年に寺が創建されたことをネットで知った。白道寮はその後、間もなく建てられたのではないだろうか。オイラがお世話になった昭和42年当時、すでに古い建物だった。庭に大きなキンモクセイの木が植わっていた。
休みになると寮生のほとんどが里へ帰った。それでも6名ほどが残っていた。ある夜、歩いて、否、走って5分ほどのところで盆踊りがあった。オイラと小池さんは覗きに行った。若い女の子がたくさんいた。二十歳前の若者である。江戸時代だったらすでに所帯を持って子作りに励んでいる頃だ。しかも男くさい寮と予備校の往復。当然異性を求める気持ちが湧いてくる。というよりそれ一途だ。
イラは恥ずかしくて踊りの輪に入れない。どうしようか?と、そこで小池さんが酒を少し飲もう、と提案した。盆踊りが終わらぬうちにと二人で居酒屋へ走った。10分ほど上り坂を走った。少し飲むところが、ちょと時間が掛かりすぎた。すでに9時。オイラはあわてて会場へ急ぎ戻った。間に合った。
ころが二人は気分が悪くなってしまった。馴れないお酒と、転がるように坂を走ったため、すっかり元気がなくなってしまったのだ。賑やかな会場を後に、二人はすっかりしょげて帰った。
る夜、小池さんがこっそりオイラの部屋を覗きにきた。本堂横の庭にアベックが来ているから見に行こうというのだ。真っ暗な坂を二人は息を潜めて登った。「居たいた」と言う。小池さんには見えるのか、おいらは暗くてよく見えない。白いものが動いている。二人は徐々にその白いものに近づいた。
3メートル程近づいたところで男が気づいた。「だれだ!」大きな声で怒鳴られた。二人は一目散で坂を転げ降りた。寮に飛び込むと、何もなかったような静けさだった。食堂で先輩二人が話し込んでいる。そこでオイラは小池さんが居ないことに気がついた。
配になったオイラは、高下駄を大きく鳴らし、口笛を吹きながら本堂へ向かった。境内で小池さんに出会った。小池さんはいったん捕まったが、男を殴って逃げてきたのだという。捕まったことは本当だろうが殴ったことは眉唾ではなかったのか。
ち入り禁止の境内に入ったアベックが悪かったのか、それを覗きにいったオイラが悪かったのか。まあ、無事でよかった。そんな真夏の夜の出来事だった。
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白道寮物語3

2005年10月09日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
浪人時代の1年間お世話になった白道寮に庭には、大きなキンモクセイの木が植わっており、秋になると強いかおりがしていた。
の東に小さな住居が建っていた。寺の雑用をしていた原さん夫婦の家だ。原さん夫婦は、寮の食事の準備や、境内の掃除などが主な仕事だった。まだ若く30代で子供はなかった。原さんは兄とは同期で寮生活を送った人だ。無口な体の大きい人で、画家を目指していると聞いた。けれど、家を覗いたときキャンバスに描きかけの絵が1枚掛かっていただけで、原さんが絵を描いているところを見たことは一度もなかった。それは抽象画だった。
さんは、朝の会食の準備と、夕食を用意してくれた。夕食は台所で個々に食べる。おかずは寮生の希望を結構聞いてくれた。とんカツとか鯵のフライトとか、腹持ちのいいものが喜ばれた。ただ、食用油のせいか、風呂にあまり入らなかったせいか、腫れ物が体のあちこちに出来た。お互いが「蛸の吸出し」を塗り合った。
脇腹に腫れ物の出来たことがあった。夜、食堂ですれ違う小池さんを脅かそうと身を隠したが、腫れ物が痛くて挙げた両手がおろせない。思わず合掌のポーズをとってしまった。オイラに気づいた小池さんはひっくり返るほど驚いた。
の五右衛門風呂は、三日に一度だった。しかも、夜遅くなると白濁の湯が風呂桶の底に、申し訳程度に残っているだけだった。誰かに声をかけて追い炊きをしてもらってもいいのだが、あまり薪を使うと住職に叱られた。
こで、たまには揃って近所の銭湯へ出掛ける。原さんも一緒だ。僧が履く高下駄を鳴らし、徒党を組んで行くので時間が掛かる。道路を渡るとき、度胸試しといって疾走してくる車を止めたりした。今思うと寒気がする。帰には、駅前商店街の屋台でおでんを食べてくる。(但し、お酒は飲まない)2時間ほど掛かって寮に着いた頃は、体がすっかり冷え切ってしまっていた。
口な原さんだったがいい人だった。住職に叱られた寮生をよくかばってくれた。具体的にどうかばってくれたのかは記憶にない。表立って動ける立場ではなかったからだろう。
、時間は超スピードで過ぎている感じがする。けれど、あの白道寮での1年間は、確かにゆっくりと流れていた。
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白道寮物語2

2005年10月08日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
キンモクセイの香りで思い出す。オイラが浪人をしていた1年間を東京の白道寮で過ごした。寺が併設している寮だ。武蔵野台地の傾斜を利用した寺で、山の上に本堂、下には住職の住まいと境内をはさんで寮が建っていた。
池さんは静岡の人。一番の友達だった。えらが張って頬がこけ、無精髭だらけで丸渕のメガネをかけていた。つまりおっさんみたいな顔だった。それでもオイラより1つ年上なだけだった。それでも高校生だった。
池さんは、病弱だったため充分高校に通えず、今になって通学しているということだった。しかし、なぜ静岡の高校ではなかったのか、病気がちな感じもしなかったし、なんとなく小池さんには謎がつきまとっていた。
休みのある日、みんなで酒を飲みに行こうということになった。3軒はしごをした。2軒とも、小池さんは店のお姉さんと親しく話をしていた。常連だったのだろうか。最後の屋台で、小池さんは労務者風の人と腕相撲をして簡単に負けた。そしてこう叫んでいた「われわれは、戦争を知らないんですぅ!」
てんぐてんになって夜遅くに寮へ帰った。階段をあがった窓から小池さんは気分が悪いといって嘔吐した。オイラも右へならえした。翌朝、先輩から「小池、ちゃんと掃除しとけよ」と言われていた。誰も見ていなかったはずなのに、誰かが密告したのか。その日の午後、全員が近くのプールへ行って、ようやく酔いがさめた。
トリップショーに行こうと小池さんに誘われたことがある。ここから中央線で30分ほど西にあるという。そこには小池さんの友達が待っていた。3人でお酒を飲み、友達はそこで別れた。初めて見るショーは、お酒の勢いで他の客と騒いでいただけで、期待したほどの感動はなかった。日頃、想像していたほうがずっと刺激的だった。
る夜、散々酔った小池さんがオイラの部屋に飛び込んできた。オイラはふざけ半分で湯飲みの底に残っていた水を、小池さんのお尻の穴めがけてかけた。小池さんは真剣に震え上がり、熱を出して数日寝込んでしまった。東京にいるお姉さんが心配して覗きに来ていた。この寮に親族が来ることは大変珍しいことだ。お姉さんは結構きれいな人だった。寮には、1年間いただけで、静岡へ返されていった。
校生の小池さんは、オイラの一番の友達だった。そして謎の多い人でもあった。
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白道寮物語1

2005年10月07日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
キンモクセイの香りがしてくると思い出す。昭和42年3月。浪人生活のため、オイラは兄の後を付いて下宿を探していた。2~3探して回ったが思わしいところがなく、結局、兄が学生当時お世話になった白道寮に向かう。兄はあまり気乗りがしなかった様子だ。
宿から中央線で30分ほどのところにある白道寮は、浄土宗の寺が経営していた。駅前の商店街を抜けて閑静な住宅街に入る。当時、あたりはまだ武蔵野の名残りが色濃く、木々の茂みがあちこちに点在していた。
の塀づたいにだらだらと坂を下ると、右側に勝手口の小さな門があった。門をくぐって左側が寮。先に進んで右方向へ坂を登ると本堂になる。どこからか聞こえてくるピアノの音。鳩の鳴き声はよく聞いた。
人時代の1年間をここでお世話になった。白道寮には17~8名の大学生が下宿している。いずれ僧籍に付く大学生がほとんどだったが、浪人生や高校生も受け入れていた。戦前からあった古い古い木造の建物で、1階に炊事場と食堂、風呂場とそして南側に寮生の部屋、2階に上がると廊下を挟んで狭い部屋が両側に並んでいた。
本さんは九州から来ている大学生。休みになっても帰る旅費がないため、動くと腹が減るといって、よく部屋でゴロゴロしていた。里から仕送りが来ると寮費以外をインスタントラーメンとタバコ代につぎ込む。買ってきた品々を万年床に並べて悦に入っていた。わずかな残りはパチンコ代だ。
曜日の朝は読経で始まる。寮長が作ってくれた薄い味噌汁と納豆。一汁一菜の食事が済むと、なんとなくみんなで寮の前の庭に集まる。庭は床屋になった。
イラは床屋の経験があると嘘をついて岩本さんの頭を刈った。はえぎわがうまく揃わない。刈る部分が頭頂目指して徐々に登っていく。結果、虎刈りのモヒカン族みたいになった。それでも岩本さんは怒りもせずに「マフラーをするから良い」と言い、寒くもないのに首巻をしてデートに出掛けていった。
休み前。岩本さんはいいアルバイトがあったと喜んでいた。それは立川基地でのバイトだった。ベトナムから送られてきた死体がプールに漬かっている。その死体が浮いてくるのを竿で押し沈めるという仕事らしかった。お金になると皆に自慢していたが、1日行ってやめたらしい。感想と結果は聞けずじまいだったが前宣伝だけはすごかった。
道寮での1年間には、いろんな思い出がある。
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とりいった鳥居の話

2005年10月05日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
3ヶ月ほど前のことですが、1日は表参道スワマエが揃って諏訪神社へ参拝します。お祓いが終わってススムくんが、生川宮司さんにこんな質問をしたことがあります。「鳥居のいわれを教えてください」
ょうどイベント「お諏訪さんにいらっしゃい」の準備のため、悪戦苦闘して鳥居を作っているときでしたので、こんな質問が出たのでしょう。宮司さんから丁寧な説明をいただきました。
日、本屋を覗いていたら、瓜生 中という方が「古寺社めぐりの愉しみ」(ベスト新書)の中で、鳥居の意味と種類と題して掲載してみえました。
事記」によると、天照大神が天岩戸にお隠れになったとき、常世の長鳴き鳥を入り口で鳴かせて戸を開けようとしたそうです。この鳥の止まり木が「鳥の止まり居る」ところとなり、鳥居と呼ばれる所以になったそうです。どうです、もっともらしいじゃありませんか。
居にもいろいろ種類があって、「お諏訪さんにいらっしゃい」で作った鳥居は鹿島鳥居。茨城県の鹿島神宮がその形の代表だそうです。諏訪神社の型は神明鳥居でした。制作上(ダンボール)の都合で鹿島鳥居になりました。
串のことも出ていました。お祓いに使う榊(サカキ)に紙垂(半紙)の付いたのです。玉串に使われている榊は神の繁栄、紙垂は神さんの衣を現しているということで、この榊は神の住む聖域と人間の住む俗界に間に立つ木、境の木のしるしとなるそうです。これがサカキになったわけです。なんとなく駄洒落のオンパレードの感があります。
辺に神と書いて榊であります。それだけ神さんにはご縁のある木なのです。
本日は少し賢くなりました。
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秋の四日市まつり開催

2005年10月03日 | 四日市商店連合会です

10月2日、良いお天気に恵まれ、夏を思わせる暑い1日となりました。9時30分、予定通り山車蔵を出発した商連の甕破り山車は、地元の小学生に引かれて本町通へ向かい、新道通りで昼食をとりました。そして、今年初めて浜田町の練り受け所へ進みます。
勢の人で迎えられた浜田での演技を終え、山車は再び諏訪栄商店町に向かいました。午後2時過ぎ。やや疲れ気味で1番街商店街に到着して我々は驚きました。予想以上の人出です。イベントを行っていたグリーンモール商店街も人でごった返しています。今までの寂しかった秋のまつりが嘘のよう。夏の祭りに迫る賑わいです。
年半ぶりの大入道の巡航が影響しているのでしょうか。年配の方や家族連れが目立ちます。夏は若者中心の祭り、秋は山車が出る諏訪神社の大祭という方向付けが見えてきたようです。
闇迫る諏訪神社には新町の官公、本町の岩戸山、商連の甕破り、中納屋の大入道、南納屋の鯨舟と山車が練りこんでは演技を行っていきます。やはり並んだ山車を見るのは壮観ですし、風情があります。
年の秋のまつりは晴れやかで、運営に携わった皆さんも誇りを持って山車の巡航にかかわっていただいた、そんな気持ちの良い一日でした。
つかれさまでした
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イベント「グリーンモール・アーケード完成記念」

2005年10月01日 | おいらの商店街

10月1日、イベント「グリーンモールアーケード完成記念」第1日目が無事終わり、発展会の皆さんの努力が実りました。
日市まつり第1日目。諏訪神社では各山車の代表の方が集まってのご祈祷が行なわれ、その後、1時30分より獅子舞が練りこみました。今日はそれほど大きな行事もなく人出が心配されていましたが、お天気にも恵まれて予想以上の来街者で街は賑わいました。
前8時からグリーンモール発展会では準備が進められ、昼前後になると通りは人でいっぱいになりました。「こんな人出は久しぶり」と発展会の方も喜んでみえます。
後2時を過ぎたあたりから、少し寂しい感じがしてきました。歩行量調査をしていた石田さんに尋ねると、はっきり減少が数字に出ています。抽選券付のチラシ配布を、予算の関係で少し調整されたためでしょうか。
っかく来ていただいたお客さんに楽しんでいただく、年に一度のチャンスです。思い切ってチラシを増やしてはと検討会がもたれました。予算以上の出費は覚悟の上。何よりも、皆さんにお祭りを楽しんでいただこうということに決定です。
日は今日以上の人出が予想されます。街がお祭り一色で活気付きます。
が一番、まちらしくなる時です。
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