安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

公共交通と原発を中心に社会を幅広く考える。連帯を求めて孤立を恐れず、理想に近づくため毎日をより良く生きる。

閉塞感で行き詰まったとき、ふと思い出す「幼き日」の出来事

2024-06-02 23:21:08 | 日記
6月に入った。

4~5月はとにかく忙しかった。4/13、長野県大鹿村でのリニア問題学習会での報告、4/27「ノーモア尼崎事故!生命と安全を守る集会」での記念講演、5/15にはレイバーネットTV「日本の空は大丈夫か~羽田事故とJAL争議」に出演した。そして、5/25には、私が原告になっているALPS処理汚染水差止訴訟についてのオンライン報告もあった(こちらも資料を公開できるならしたいが、残念ながら有料会員向け講演会のため公開できないこと、お詫び申し上げたい)。

2週間おきに人前に出ての著述活動を続けてきており、1つが終わったら次の準備に取りかからなければならない状況で、他のことを考える余裕はまったくなかった。今後しばらくこうした予定は入っていないため、改めて自分の置かれている現状に思いを至らせると、ずいぶん閉塞感が強まっていると感じる。

定期的に全国異動のある我が職場だが、2013年4月に北海道に来てから今年で11年を過ぎ12年目に入っている。空気も水も食べ物もおいしく、本州にいるときは春になるごとに私を悩ませていたスギ花粉症とも無縁(函館など道南の一部地域を除き、北海道にはスギがない)。人々もみんなのんびりしていて、公共の場所でベビーカーを見ただけで子育て世代とクレーマーの反目が始まる東京のような殺伐としたムードは札幌でもまったくと言っていいほどない。ここの暮らしはかなり気に入っていて、もう本土帰還などできるならしたくない、このまま現状維持でも悪くないとずっと思っていた。ついこの間までは。

私の心がざわついたのは今年4月1日付の人事が公になってからである。今の職場に来る前に出向していた関連法人で、仲良く机を並べていた係長クラスのほとんどが昨年春までに課長補佐(準管理職)になった。同期採用者にはすでに課長になった人も少なからずいる。年次が後の人の中にも課長補佐昇格者が出ているが、彼らは私が経験していない本部勤務を経験している。本部経験者は同期採用者であっても「別世界(世間で言うエリートコース)の住人」なので、私には関係ないと全然気にしていなかった。ところが、年次が後で本部勤務経験もない人物が今年4月、課長補佐に昇任すると聞き、今まで「みんな早いな」と思っていたのが、逆に自分が遅れているだけだということが見えてきたのだ。

4月で異動した前の課長からはそれなりに評価を受けていると思っていた。2人で出張した際、ホテルで食事をしながら「あなたには早く昇任してほしい」と言われていたからである。だが今になって思い出してみると、課長が私に期待していたのは、他派閥に奪われていた課長補佐ポストの奪還だったことに改めて気づいた。3月に人事評価の面談をした際に課長が不機嫌だったのは、私にその期待を託したのに叶わなかったからに違いない。

課長が組織内派閥抗争の「駒」とする目的で、私自身は望んでもいない管理職レースに勝手に乗せたということに気づき、私も大きく傷ついた。管理職への忌避感情はより一層強まり、「仮に打診されても絶対に受けるか」と今は思っている。毎年秋に、人事上の希望を書いて出せる制度が職場にはある。秋までの半年で私の気持ちが変化するかどうかは見通せないが、件の課長が異動してしまったこともあり、気持ちは変わらない可能性が高い。おそらく「北海道内の職場で今まで通り係長として業務を続けたい」と書くことになると思う。

私より年次が後の人の課長補佐昇任がすでに始まっているが、私は他人のことにはそもそもあまり関心がない。職場関係者でこのブログの存在に気づいている人がいるかはわからないが、敵とみなした人物はブログ上で容赦なく打倒・粉砕を呼びかける私のような人物をリーダー職に就けることはあまりに冒険が過ぎると思うのが普通の感覚だろう。

私はこれまで原発問題での各種講演などにも呼ばれ、話をすることもあったが、どこの反原発運動団体でも役員などの職には就いていない。そのことを講演主催者に伝えると驚かれることも多く「宣伝チラシにあなたの肩書きを何と書いたらいいか」と相談されることも多かった。結局は「元福島県民」とでも書くよう依頼し、そのようにしてもらうことが多かった。きちんと勉強し知識を身につければ一兵卒でも巨大な敵と闘うことができる。むしろ私のようにリーダー職に不向きな者は「兵隊として最強」を目指すべきだというのがかねてからの私の持論である。

実際、最近はどんな人物が課長で来ても「○○さん(私の本名)は大ベテランなので仕事をいろいろ教えてください」と言われるし、本部勤務経験が浅い人が私に仕事に関する質問をしてくることもある。最強の兵隊として頼られる位置にいることのほうが、薄っぺらな管理職であることよりよほど意味のあることなのではないか。最近はそんなふうに思うことも増えている。

  ◇     ◇     ◇

そして私には「原体験」もある。今からもう50年近く前、幼稚園の頃の遠い出来事である。

当ブログ2月14日付記事で書いたように、私はもともと他人と同じことを、他人と同じスピードでこなすことが苦手だった。学校でみんなでいっせいに何かやるときに、自分だけついて行けないことがしばしばあった。懸命に努力しても、追いつけなかった。なぜだろうと考えたが、理由はわからないままだった。

特に苦手で、イヤでたまらなかったのがマラソンだった。通っていた幼稚園では、毎日、園をスタートし、決められたコースを1周して園まで戻ってくるマラソンがあった。雨が降れば中止になるので、ビリ常連の私はいつも雨を願っていた。

それでも一時期までは同じように走るのが遅かった同級生の女の子と、ビリになるのがイヤで競っていた時期もあった。仮に智子ちゃんと呼んでおこう。

私と智子ちゃんはいつもビリ争いの常連だった。毎日ビリが続くのがイヤで、私は智子ちゃんを出し抜くにはどのタイミングでスパートをかけるのがいいか、いろいろ試していた。スパートが早すぎて息切れし、ゴールまでに逆転されたので、翌日はゴール直前になってスパートをかけたがゴールまでに追いつけなかった。概して私の作戦は成功しないことがほとんどだった。

それでも、毎日ビリ固定がイヤだった私は、ある日、余力を残したまま、智子ちゃんにつかず離れずの位置をキープしておき、早くもなく遅くもない絶妙のタイミングで全力のスパートをかけた。今度こそ成功……と思った瞬間、悲劇は起きた。舗装状態が荒く、でこぼこになった路面につまずいて転んでしまったのだ。

智子ちゃんがどんどん遠ざかっていくのがわかった。起き上がろうとしたが、出血した傷が痛くて気力が萎えていくのがわかった。一方では先生が「何してるの! 速く走ってゴールして! 次の(お遊戯の)準備が間に合わないよ!」と叫んでいるのが聞こえてきた。ようやく起き上がったが走る気力もなく、よろよろと歩いてかなり時間をおいてゴールした。疲れ切っていて、先にゴールした智子ちゃんが声援を送ってくれていたことにも気づかないまま。そのことを知ったのはかなり後になってからだった。

「もうイヤだ! マラソンなんてしたくない!」

幼稚園から帰った私は母の前で号泣した。得意でもないことを集団生活の中で強いられ、疲労が限界に達していた。母には叱られるかと思ったが、意外にも何も言われなかった。代わりに言われたのは「負けるよりは勝つ方がいいに決まっているけれど、全力を尽くしてもダメなら、自分のペースで最後まで走りきるように。最後までやり抜くことは、ずるをして勝つよりもずっと価値があること」。それを聞いて心が軽くなった気がした。

その翌日から、私は自分のペースで最後まで走りきることに専念した。スタート直後からズルズルと後退していく私を見て、智子ちゃんは最初、戸惑っていたが、2~3日経つと、私が競争を放棄したのだと理解したようだった。すると、驚くことに智子ちゃんも自分のペースで走るようになった。私がいる限りビリになることはないという安心感もあったと思う。先にゴールした智子ちゃんが応援する声が聞こえるようになった。毎日ビリでも、それが自分のいるべき場所なら仕方ないと、割り切ることができるようになった。私は2年保育だったが、年長になっても後で入園してきた1年生より足が遅く、卒園するまでずっとビリのまま終わった。智子ちゃんが2年目に何位だったのかは聞かなかったし知りたいとも思わなかった。

私に速く走らせることをあきらめた先生が、それまでは直前にしていたマラソンの後のお遊戯の準備を、朝一番に整えてからマラソンに臨むように変更してくれていたことを知ったのは、卒園する直前のことだった。迷惑をかけたのにお礼を言わないまま卒園してしまい、先生には申し訳ないことをしてしまったと今は思っている。

  ◇     ◇     ◇

半世紀近く前の遠い記憶を呼び起こしたのは、今また出世レースで自分がしんがりにいるらしいということに気づいたからである。20歳代前半で私を産んだため、母は後期高齢者に入ったが実家でまだ健在である。このことを話したら母はなんと言うだろうか。もし半世紀前と変わっていないなら、「あの日」と同じように言うはずである。「負けるよりは勝つ方がいいに決まっているけれど、全力を尽くしてもダメなら、自分のペースで最後まで走りきるように。最後までやり抜くことは、ずるをして勝つよりもずっと価値があること」だと。

今の私は、この母の言葉を拠り所にして生きる以外にないと思っている。大切なのは最後までやり抜くこと。目の前に与えられた仕事、課題にしっかりと向き合い、ひとつひとつ、結果につなげていくこと。結果に結びつかないときでも、腐らずに次につながる「何か」を残すこと。マラソンがイヤで号泣しながらも、2年間、1回も途中棄権はしなかった。転んでよろめきながらも走った回数と同じだけゴールをつかんだ。あの半世紀前の経験に学ぶことが、今の私には大切なことのように思う。

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