県民代表ではないのだから、県民県民というな私たちと言え



「かみつく」を改名「沖縄 民主主義4」
定価1000円(税抜)
1月県内書店で発売予定
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「かみつく」を改名して「沖縄 民主主義」にした。

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高校生の頃、私は「沖縄を返せ」という歌にが違和感があつた。私たちは沖縄に住んでいるのになぜ「沖縄を返せ」と歌うのか。沖縄はすでにあるじゃないか。沖縄に住んでいるのに「沖縄を返せ」はおかしいと私は思っていた。

1.
固き土を破りて 民族の怒りに燃える島 沖縄よ
我等と我等の祖先が血と汗もて 守り育てた 沖縄よ
我等は叫ぶ沖縄よ 我等のものだ沖縄は
沖縄を返せ (返せ) 沖縄を返せ


戦後の沖縄は日本であって日本ではないような米軍の統治下に置かれていた。周囲には白人や黒人、フィリピン人がいたから子供は「民族」というイメージが湧かなかった。「民族」というものに親しみも湧かなかったし、自分は日本民族なのかどうかを考えたこともなかった。
私たちは日本語を使っているし、歌、映画、本など日本文化に親しんでいたし、体格なども本土の人たちと大きな違いはなかったから私は日本人であるという意識は強かった。しかし、純粋な日本民族なのかと言えば、そうであるようなそうではないような中途半端な気持ちになった。それに日本民族にはこだわりたくなかった。なぜこだわりたくなかったかと言えば、私の周囲にはハーフの子どもが居たし彼らとは友だちだったからだ。私が日本民族という自覚を持てば、ハーフの友だちを日本民族ではないと言わざるを得ない。彼らを差別することになる。だから、そんな風に考えるのが私は嫌だったのかも知れない。私は日本人という意識はあったが日本民族という意識を持つことには抵抗があった。
嘉手納飛行場の近くに住んでいたから、子どもの頃からアメリカ兵を見ていた。アメリカ兵には白人も黒人も居た。なぜ、肌の白い人や黒い人がいるのだろうと子供の私には不思議だった。肌が黒いのは黒い血が流れているからかも知れないと思っていた。
小学校の五年生の時、砂辺松一という素晴らしい先生が、「私たちも、白人も黒人もみんな赤い血が流れている。みんな同じ人間なのだ」と話した。私は砂辺先生の話に驚いた。「みんな赤い血が流れている」「みんな同じ人間なのだ」という砂辺先生の言葉が私の脳裏にこびりついた。このことも私が「民族」に興味が湧かなかった原因だと思う。だから、「沖縄を返せ」の「民族の怒りに燃える島」の民族の詞に私は抵抗感があった。
ハーフの人も同じ沖縄人だから沖縄の人権を取り戻す闘いなら一緒に闘うことができる。しかし、日本民族の権利を取り戻すということになるとハーフの人は参加できなくなる。だから、「民族の怒りに燃える島」と言う詞は沖縄の日本民族の闘いにはなるが、沖縄に住んでいるすべての人間の闘いにはならない。その歌詞は沖縄に住んでいるハーフや外国から移住してきた人たちを差別している詞であるという考えが私にはあった。

「我等と我等の祖先が血と汗もて 守り育てた 沖縄よ」の歌詞にも高校生の頃の私は反発していた。
高校生になると沖縄の歴史を知るようになる。また、父母から戦前の生活の様子を聞いて戦前が非常に貧困であったことを知ることができる。

一六〇九年に薩摩に侵略された沖縄は薩摩の植民地になった。植民地にされたということは惨めなことである。長い間植民地であった沖縄を「血と汗で守り育てた」とはどういうことなのか。虐げられた惨めな沖縄を一生懸命守ってきた祖先であるなら、否定するべき祖先である。私たちの祖先は植民地支配されていることに抵抗しないで生きてきたのだ。そんな祖先が守り育てた沖縄なら放棄して新しい沖縄をつくったほうがいい。昔の沖縄に返るべきではない。
祖先が守ってきた自由のない祖先崇拝の古い風習を私は嫌いだった。

「我等のものだ沖縄は」の歌詞は私を戸惑わせた。私は映画が好きでよく映画を見た。外国の映画は「自由」を勝ち取るために支配者と闘う映画が多かった。自由のために闘う。弾圧されている人民を「解放」する。そんな映画が多かった。私も「自由」「解放」のために闘うのに憧れた。ところが沖縄の抵抗運動の歌は「我等のものだ沖縄は」である。沖縄を物のように扱い、沖縄の所有意識丸出しである。抵抗運動のテーマは沖縄に住む人々の自由、解放であって沖縄という土地を所有することではない。所有を目指すということは独立すればいいだけであり、それでは琉球王国のように差別社会も認めてしまう。肝心なことは「沖縄」を我々のものにすることではなく、「沖縄に住む人々の自由」を我々のものにすることだ。
「沖縄を返せ」は沖縄の歴史、祖先を美化し、古い沖縄に返るというイメージが私にはあり、その歌は嫌いだった。「沖縄」に住んでいるのに「沖縄を返せ」という詞にも違和感があった。

私の違和感の原因を知ったのは最近である。「沖縄を返せ」は沖縄人がつくった歌ではなかった。

「沖縄を返せ 創作第一位に 九州のうたごえで発表」
「”第四回九州のうたごえ”は去る九月二二、二三日の両日大分市教育会館と体育館で盛大にくり展げられた。会場は遠く沖縄代表、奄美大島の仲間たちを交え約七千の人で埋められた。
 二十二日前夜祭では、各団体から出された創作曲の審査会が行われ、福岡高裁支部創作”沖縄を返せ”が十九の出品作の中で見事第一位を獲得し、満場の拍手を浴びた。」

日本のうたごえ一九五六年十二月一〜三日に全司法が参加。「仲間達」と「沖縄を返せ」を発表(全司法新聞第180号19561105)

「沖縄を返せ」は一九五〇年代に本土の裁判所に努める労働者がつくった歌だったのである。
沖縄を返せというの本土の人間が沖縄は日本だから、日本に帰せという意味だろう。なぜ「我等のものだ沖縄は」ていう歌詞ができたかというと、その時の沖縄の政治状況に関係している。

▼全司法新聞1956****「沖縄を見殺すな!各地に国民大会開催」
「プライス勧告が発表されて以来沖縄全島はもとより日本全国がアメリカの処置に対し限りない憤りを感じ、はげしい抵抗を行っている。沖縄では六月二十日中部地区与那城村を皮切りに全島四十五市町村が一せいに”四原則貫徹””領土権死守”の住民大会が行なわれ、六月廿七日代表四名が入京、これを迎え問題は折柄の参院選とぶつかり大きな波紋をなげかけた。日本各地においても国民大会がもたれ、七月四日東京日比谷で沖縄問題解決国民総決起大会を開催し国民の静かな抵抗を示している。われわれはこの問題が平和と独立に直接に連なることを充分に認識し、沖縄八十万の島民とともに手を結びあい最後まで斗おうではないか。」

その頃、米軍による土地接収が行われていた。沖縄では土地闘争が激しくなっていた。「我らのものだ沖縄」は米軍に土地が接収されることに反対して、我らのものだ沖縄の土地はと訴えた気持ちを歌詞にしたのだろう。
本土の人間がつくったので本土の人間の気持ちと沖縄の人間の気持ちが入り混じっているために、沖縄の人間がつくった歌だと思っていた私は違和感を感じたのだろう。
歌の成り立ちを知っても、人間ではなく土地にこだわっている「沖縄を返せ」を私は好きになれない。
最近の集会では「沖縄を返せ」を歌うのが定番になっている。


二十九日の琉球新報には「県民は金で転ばぬ」という大きな見出しで、県庁前に集結した反対運動家たちの様子を掲載している。「知事の裏切り 怒!怒!怒 弾劾!」のプラカードを翳している。手書きではなくすべてカラー印刷しているプラカードだ。たった一日でカラー印刷したプラカードができるようになった。印刷技術の発展は目覚ましい。手書きではないからプラカードを翳している人がつくったのではなく、彼はこの集会の主催者から渡されたのだろう。けっこうお金があるんだな。

「県民は金で転ばぬ」の見出しには苦笑してしまう。
この集会に参加しているほとんどの人間は公務員か教員である。彼らは安泰した収入と生活保障が完璧である公務員・教員試験に合格した人たちである。彼らの社会人としての出発がお金のための競争に勝ち抜くことであった。彼等こそお金のために死にもの狂いで頑張った人たちなのだ。お金のために転んだ人たちが「県民は金で転ばぬ」と言うのは滑稽である。

沖縄には金で転ぶ人は一杯いる。辺野古移設は小泉政権時代に交渉が始まったが、日本政府は陸上につくる予定だった。しかし、海を埋め立てないと利益が少ない北部の業者は政府の陸上案に反対し、埋め立てしないと辺野古移設に反対すると言いだした。それで政府は海側に移動することにしたが、北部業者は埋め立て地が少ないと政府案に反発して、海に100メートル近く移動しろと島袋名護市長に要求し、島袋市長は仲井真知事に要求した。だから知事はもっと海側に移動させないと埋め立てを許可しないと政府に脅しをかけたのだ。そのことで仲井真知事と政府が揉めたために、仲井真知事が埋め立てを承認する寸前で民主党政権に代わったて、埋め立てが頓挫しそうになった。
埋め立ては沖縄側が要求したものである。埋め立て賛成が沖縄県民であり反対も沖縄県民なのだから、実は沖縄人同士の対立である。
北部の業者は埋め立てしないと辺野古移設に反対すると言ったくらいにお金の亡者である。北部の業者も県民である。沖縄には「金で転ぶ」県民も居るのだ。
島袋前候補は「辺野古移設なくして北部の経済発展はなし」と宣言した。北部の経済は深刻な状態である。過疎化の進行が止まらない。過疎化を喰いとめ、経済を回復する手段として辺野古移設は大きい。お金に転んで猛勉強をして公務員・教員になった人たちはこれ以上お金に転ぶ必要はない。この人たちは他人(北部の人たち)のお金のことはどうでもいいと考えている人間たちである。要するに自分のことは側に置いといて、自分以外の県民はお金で転ばぬと言っているのだ。辺野古移設は自分の懐には全然関係ないからそう言うのだ。

県庁前に集まった活動家たちは午前十一時に「沖縄を返せ」を大合唱したという。今の時代では「沖縄を返せ」という歌は「公務員である自分たちが沖縄を支配するべきであるのに米軍が自分勝手に土地を使うのは許せない。我々の支配下に沖縄の土地を返せ」という意味になるのではないか。

たった三百人くらいの人間たちであるのに沖縄の支配者の積りでいる彼らは「知事の発言は一四〇万人の県民をばかにしている」と自分たちの主張=県民の主張だと決めつけている。選挙で県民に選ばれたわけでもないのにたった三百人が県民の意思だと思い込んでいる。こういう考えが独裁政権をつくるのだ。
「知事はもう県民の代表ではない」と批判しているが県民の代表は県民が選挙で選ぶのである。次の知事が決まるまでは仲井真氏が県の代表である。あまりにも傲慢な発言をする連中である。

「辺野古に基地ができたら半永久的なものになる。これ以上、沖縄に基地を造らせない」と豊見城市から集会に参加した伊波豊さんは(六十五)は訴えたというが、沖縄に米軍基地があるのは共産党独裁国家中国を抑止するのが目的だ。中国が民主主義国家になり、日本やアジアに侵略する可能性がなくなれば辺野古飛行場の米軍は撤退する。
辺野古飛行場の存続は耐用年数ではなく中国情勢が左右するのだ。なぜ、こんな簡単なことが分からないのだ。

「一四〇万県民はいい正月を迎えられない。公約をほごにする言葉遊びはやめてほしい」と沖縄市の平良留美子さん(四十九)は仲井真知事に憤りをあらわにしたという。
こういう集会に集まる人は自分の考えが県民と同じであると傲慢な妄想を持っている人たちが多い。県民に選ばれたわけでもない。県民世論を調査したわけでもないのに「一四〇万県民は」などと言う。驕っている人間たちの集合体のようだ。
平良さんが言う通り公約をほごにするのはいけないことだ。そんなことはあってはいけない。仲井真知事が「県外移設」を主張していると言いながら「辺野古移設」を容認したことは詭弁であるから「言葉遊び」は的確な指摘だと思う。沖縄自民党政治家の公約は軽い。簡単に公約を右から左に返る。言葉遊びをしている最低の政治家たちだ。
でも、平良さん。もし、仲井真知事が「辺野古移設」を公約にしていて、どたんばで「県外移設」に変更した時、あなたは今度と同じことが言えるかな。もしかすると「よくぞ公約を変更してくれた」と拍手喝采するのではないか。
「一四〇万県民はいい正月を迎えられない」というのは言いすぎではないかな。辺野古移設に喜んでいる県民も多い。それに普天間飛行場が辺野古に移設するのだから県全体から見れば大した変化ではない。普天間問題に興味のない県民も多い。一四〇万県民はいい正月を迎えられないなどというのは「言葉遊び」ではないかな平良さん。
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