金城勉公明党県本部幹事長を斬る その1



「かみつく」を改名「沖縄 民主主義4」
定価1000円(税抜)
12月県内書店で発売予定
狼魔人日記で先行発売


新発売・「かみつく3」は県内書店で発売中


クリックすると本の紹介画面へ








狼魔人日記でネット全国販売しています。
申し込みはメールでできます。
ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp

「かみつく」を改名して「沖縄 民主主義」にした。

みなさんの意見・感想は
ヒジャイ掲示板へ

ヒジャイ掲示板



■ご協力のお願い■
島袋ヨシカズ氏は10月の出馬表明いらい首尾一貫「辺野古誘致なくして北部地域の発展も国の安全もありえない」を主張し、連日街頭に立ち「先人たちの17年間の血と汗の努力を私の代で結実させる」と市民に訴えています。
ここで皆様に改めてお願いいたします。
組織的支援団体がなく、草莽の市民だけの支援で戦ってきた島袋氏の後援会が深刻な資金不足に陥っています。
一部読者の皆様にはカンパご協力を賜りましたが、朝日などサヨク新聞の飛ばし記事や反対派支援者の悪質な嘘作戦により、あたかも島袋氏が出馬断念したかのようなデマがまことしやかに流布しています。
そのデマ作戦が効を奏したのか、ここにきてカンパ金が予想外に少なくなり選挙戦には必需のウグイス嬢のアルバイト代や印刷代にも事欠く状況に陥っています。
現在はボランティアの支援者が自家用車を持ち込みガソリン代などは手弁当で頑張っております。
今まさに勝利までの胸突き八丁の苦しい時期です。
島袋氏ご本人は例え刀折れ矢が尽きても街頭に立って最後の最後まで戦い抜く覚悟で闘志満々です。
私ども応援団も最後まで「辺野古誘致なくして北部地区の振興・発展はない」を合言葉に島袋氏の当選まで頑張る所存ですので、皆さんに是非ともカンパ協力をお願いいたします。
お振込先のご案内

銀行名;   琉球銀行 大宮支店

口座番号:  普通預金 566745

口座名義:  名護市を豊かにする市民の会
         会長 當山正範(トウヤマ セイハン)

島袋ヨシカズ立候補

「辺野古移設なくして北部の経済発展はなし」






<h>金城勉公明党県本部幹事長を斬る その1

翁長那覇市長に続いて今度は公明党県本部幹事長金城勉氏のインタビューが沖縄タイムスの一面と二面に大々的に掲載された。大見出しは「『県外』知事後押し」である。これは沖縄タイムスの仲井真県知事に対する最大の圧力である。

石破幹事長が、琉球処分官に見えた。沖縄の国会議員をテレビでさらしものにした。胸がかきむしられるような思いだった。
          沖縄タイムス・金城勉インタビュー

「琉球処分」とは琉球王国を沖縄県にする手続きのことである。いわゆる廃藩置県を琉球処分と沖縄の政治家や識者は呼んで居る。私が若いころには「琉球処分」と言葉は使われていなかった。
大城立裕氏が一九五九年から六〇年に琉球新報琉球に連載したがその頃は小説の題名であり、一般的な言葉としては使われなかった。一九六八年に小説琉球処分(講談社、)が出版された。私が学生の頃であり琉球処分という小説があることは知っていたが、題名から見て沖縄は被害者だという内容の泣き言の小説と思っていたから興味がなく読まなかった。ほとんどの人がこの小説が出る前は琉球処分を知らなかった。
私は琉球処分は大城立裕氏が書いた創作の世界と思っていた。だから、琉球処分が廃藩置県であるとは長い間知らなかった。
いつの間にか識者や政治家が沖縄県にひどい仕打ちをしているのを琉球処分と同じであると言うようになった。廃藩置県は日本の近代化の始まりであると学校で習ったし、廃藩置県のおかげで沖縄は四民平等の社会になったと教師に教えられたから、私の頭の中では琉球処分と廃藩置県は別のことだと思っていた。琉球処分が廃藩置県であると説明している文章を見たことがなかったから琉球処分とはなんなのか私は分からなかった。新聞に琉球処分の言葉が頻繁に載るので気になってきて、琉球処分を書いている評論を気を付けて読んでいるとある時、琉球処分=廃藩置県であると書いてある文章を見つけた。琉球処分=廃藩置県であると知った時、私は唖然とした。なぜ、廃藩置県が「琉球」の「処分」なのか私は理解できなかった。
廃藩置県は全国で実施されたことである。反対した武士たちが決起して血の惨劇も起きている。沖縄は琉球王朝の抵抗はなく無血で廃藩置県を実現した。沖縄の廃藩置県は穏やかなほうであったと私は考えていた。廃藩置県は沖縄の近代化の始まりである。近代化社会に生きている沖縄の識者に廃藩置県を琉球処分だといって非難している人が居るのは信じられなかった。しかし、信じられないどころか蔓延している。憂鬱な沖縄思想世界である。

小説琉球処分の紹介文

清国と薩摩藩に両属していた琉球―日本が明治の世となったため、薩摩藩の圧制から逃れられる希望を抱いていた。ところが、明治政府の大久保利通卿が断行した台湾出兵など数々の施策は、琉球を完全に清から切り離し日本に組み入れるための布石であった。琉球と日本との不可思議な交渉が始まったのである。

「小説琉球処分」は登場人物たちによって様々に展開していくが、政治的に見れば「琉球処分」は日本全国で行われた廃藩置県の沖縄版である。本土と沖縄が異なっていたのは本土は藩であったが、沖縄は王国だったことである。明治政府は法治主義であったから廃藩置県の法律で王国を一気に県にすることはできなかった。だから、琉球王国を琉球藩にし、それから廃藩置県を行って沖縄県になった。
琉球処分とは琉球王国の支配階級を処分したのである。だから、本当は「琉球王朝処分」である。武士階級の支配から四民平等の社会にしたのが「琉球処分」である。廃藩置県は明治政府の大改革であり日本全体で行われた。琉球だけが特別に処分されたのではない。
しかし、小説では「琉球処分」とは「琉球王朝処分」であり、沖縄を四民平等にした大変革であり近代社会の始まりであったことが書かれていない。琉球処分官と琉球王朝との虚々実々の交渉が描かれている。

琉球王国の身分制度

〇国王

〇大 名
王子(王の次男以下):正一品
按司(かつての地方領主):従一品
親方(士分から取り立てられ者の最高の身分):正従一品

○士 分(役職付き)
親雲上:正三品~従六品
里之子筋目
里之子親雲上:正七品
里之子:正八品
若里之子:従八品
筑登之筋目
筑登之親雲上:従七品
筑登之:正九品
筑登之座敷:従九品

〇士分(役職無し)
無役士・屋取

〇百 姓
田舎百姓・町百姓

琉球王国は国王・大名・士分・百姓の身分制度があり差別社会だった。琉球処分によって身分制度が崩壊し、四民平等の社会になったのである。このことは小説を読んでも分からないことである。民主主義思想を持っている人が分かることである。
管元首相が「小説琉球処分」を読んで沖縄を理解しようとしたのには苦笑するしかない。

薩摩藩の植民地であった琉球王国は農民に過重な税を強いた独裁国家であった。北朝鮮のように恐怖政治を行っていたのが琉球王朝である。その歴史的事実として伝えられているのが平敷屋朝敏の処刑だ。
平敷屋朝敏は稀代の天才作家であった。沖縄で最初に恋愛小説を書いた人であり、吉屋チルーの物語を書いた人である。彼は琉球王朝の圧政を薩摩藩に訴えようとして捕まり処刑された。

朝敏は、一七〇〇年首里に生まれた和文学者で、組踊りの「手水の縁」などの作者として知られるが、尚敬王の時、三司官、察温(具志頭親方文若)一派を批判した文書を琉球政務の監督者であった薩摩藩吏、川西平左衛門の館に投書したため、一七三四年(亨保十九年)六月二十六日、一味十五名とともに安謝港で処刑された。

平敷屋朝敏について詩人比嘉加津夫氏がブログに書いてある。
小説「萬歳」から
琉球歌劇『泊阿嘉』の原型

平敷屋朝敏は、一七〇〇年代に生きた琉球近世の文学者です。何故か王府から仲間十数人とともに処刑されるのですが、日本の文学史のなかでもかなり特殊だとおもいます。組踊で、玉城朝薫は有名ですが、朝敏も「手水の縁」を書き残し、沖縄では有名です。
彼にはそのほかに「若草物語」「苔のした」「萬歳」「貧家記」という擬古文の小説、エッセイがあります。そのなかから、「万歳」についてふれていきたくおもいます。
繰り返して強調しますが、平敷屋朝敏は沖縄で、男女の恋や愛について、もっとも力をいれて書いていった、最初のすぐれた文学者だといっていいです。恋や愛について歌を詠んだ人はかなりいますけど、それを散文で表現した人で彼の右に出る人はいません。
この世界へのはいりかたも特異ですし、情熱的です。しかも物語のつくりかた、展開のさせかた、表現そのものもかなりの水準をいっています。
「萬歳」を取り上げるのは、この作品が特別にいいという意味からではありません。ほとんど偶然からです。
この偶然のひとつに、たまたまテレビで放映されている沖縄の三大歌劇のひとつである「泊阿嘉」を見たということもあります。見ながら感じたのは「泊阿嘉」の原型は平敷屋朝敏の「萬歳」だなとおもったのです。場面の展開部分で似ているところが随所にある。
まずなによりも恋に悩み、果たされぬ恋ゆえに死んでいくというトーンが似ています。女の家を訪ねる場面で道行く人に、たとえば「泊阿嘉」では漁師に、「萬歳」では草刈りをしている子供に女の家をたずねる場面とことばのやりとりが似ています。
そして何よりも、男の思いの深さを女が、こころならずもことごとくはねつけていき、その橋渡しを乳母らがやっているというのが似ています。
琉球歌劇「泊阿嘉」がつくられ、舞台で演じられ、多くの感動と涙を誘ったのは事実です。しかも、時代を超えてみる人の心を強く引き寄せている。今見ても心うたれるものがあります。私自身、思わず涙を出してしまいました。
その原型といってもいい「萬歳」が、その書かれた当初、一部ではあっても、人々の心を打たなかったはずはないでしょう。おそらく「このようなものをわたしたちは待っていたのだ」という言い知れぬ共感と感動をうえつけたのではないだろうか。
わたしは物語の作り手として平敷屋朝敏は当時、たいへんなカリスマ性を持って迎えられたのではなかろうかとおもいます。
Myaku 脈   比嘉加津夫
二〇〇九・〇一・二六 平敷屋朝敏の文学(上)

 平敷屋朝敏の作品は組踊りの「手水の縁」、小説の若草物語」「苔のした」「萬歳」「貧家記」があるが、「苔のした」は吉屋チルーの物語である。琉球王朝時代の貧しい平民は土葬であった。苔のしたとは苔の生えた土の下に眠っている吉屋チルーのことである。吉屋チルーの死を儚んで多くの男性が吉屋チルーの墓の前で琉歌を詠んだという。
吉屋チルーは平敷屋朝敏が生まれる三〇年前に亡くなっている。貧しい農家から八歳のとき、那覇の仲島遊郭へ売られていったチルーは十八歳の時に食を断って自殺する。遊女であった吉屋チルーの記録というものはなかったが、天才歌人チルーの噂を伝え聞いて平敷屋朝敏は恋愛物語を書いたのだろう。
 琉球王朝時代に身分の低い吉屋チルーの物語を書いた平敷屋朝敏には沖縄の貧しさをどうにかしたいという気持ちがあったに違いない。
 平敷屋朝敏はやむにやまれず琉球王朝の圧政を薩摩藩に訴えようとしたが、捕まって処刑された。
 琉球王朝は平敷屋朝敏のように琉球王朝を批判する者はすべて処分したのであろう。琉球王国は張成沢(チャン・ソンテク)氏を処刑した現在の北朝鮮と同じだ。

 【ソウル=豊浦潤一】北朝鮮で政権ナンバー2だった張成沢(チャンソンテク)朝鮮労働党行政部長が処刑されたのは、張氏の部下2人が、党行政部の利権を軍に回すようにとの金正恩(キムジョンウン)第1書記の指示を即座に実行しなかったことが契機になったと20日、消息筋が本紙に語った。

 金正恩氏はこれに激怒し、2人の処刑を命じ、国防委員会副委員長も務めた張氏らに対する一連の粛清が開始されたという。

 部下2人は、同部の李竜河(リリョンハ)第1副部長と張秀吉(チャンスギル)副部長。消息筋によると、2人は金正恩氏の指示に対し、「張成沢部長に報告する」と即答を避けた。激怒した正恩氏は「泥酔状態」で処刑を命じたという。

 部下2人は11月下旬に銃殺され、驚いた2人の周辺人物が海外の関係者に電話で処刑を知らせた。韓国政府はこの通話内容を傍受し、関連人物の聞き取りなどから張氏の粛清が避けられないことを察知した。最終的に処刑された張氏勢力は少なくとも8人いたという。
(2013年12月21日10時41分 読売新聞)


琉球王朝は独裁国家であり、国家への批判を一切許さない恐怖政治の国家だったのだ。利権争いも多く、権力争いで首里城は数回炎上している。記録には残っていない理不尽な処刑も多かっただろう。
そんな琉球王国を公明党金城勉県本幹事長は素晴らしい国であったように美化する。

 琉球王国を美化する金城幹事長は沖縄を四民平等社会にした「琉球処分」を単なる明治政府の押し付けとして非難する。それだけではない。金城幹事長は日本の政治の基本である政党政治の精神で沖縄の国会議員に警告した石破自民党幹事長を非難している。

 石破幹事長は沖縄の国会議員に、「辺野古移設を認めなければ除名する」と警告した。政党政治では政党の公約は統一しなければならない。多少の公約のずれは妥協するとしても沖縄の国会議員は「県外移設」を掲げかつ「辺野古移設」を否定していた。「辺野古移設」を公約にしている自民党本部が妥協できないことを沖縄の国会議員は公約にしていたのだ。相容れない公約を同じ政党で掲げるのは政党政治にあってはならない。
自民党内で「県外移設」と「辺野古移設」に割れて統一できない場合は「県外移設」を主張するのはあり得るが、自民党全体は「辺野古移設」の公約で統一しているのであり、沖縄だけが「辺野古移設」拒否「県外移設」賛成であった。自民党本部と沖縄県連の公約は真っ向から対立していた。そのような公約を認めれば政党政治の破綻である。
金城勉幹事長が政党政治に徹していれば石破幹事長の行為を認めていたはずである。石破幹事長を非難している金城幹事長は政党政治を理解していない。

公明党は与党である。自民党と「辺野古移設」については合意している。金城幹事長は石破幹事長が沖縄の国会議員に「辺野古移設」に転換しなければ除名すると警告したことを非難しているが、石破幹事長非難は公明党本部非難でもある。公明党本部を裏切っているのに金城幹事長は意に介さない。金城幹事長は政党政治を破綻させている。
そんな金城幹事長は県民の意識も平気で捻じ曲げる。

県民の思いを考えた時に、八割前後の県民に「これ以上の基地負担は耐えられない」「ぜひ県外移設を実行してほしい」という民意が明らかにある。そういう県民の思いも織り込みながら今回の提言書にまとめた。
        沖縄タイムス・金城勉インタビュー

金城幹事長は県民の八割は「県外移設」を求めていると話している。過去の世論調査で「県外移設」が八割になったことは一度もない。今年の沖縄タイムスの世論調査を掲載する。

国外移設・・・三七・二%
県外移設・・・三三・四%
閉鎖・・・一五・四%
県内移設・・・一二・六%

過去の県民意識もだいたいこの割合であり、大きく変動したことはない。「県外移設」を望む県民はずっと三〇%台であった。八割前後の県民が「県外移設」を要求しているというのは金城幹事長のでっち上げである。県民の要求を自分の都合のいいように捻じ曲げるから県民の八割は「県外移設」を求めているなどと言えるのだ。

金城幹事長の「これ以上の基地負担は耐えられない」という発言は米軍基地が増え続けてきた印象を与える。しかし、それは事実と違う。一九五〇から六〇年代は増加していったが、一九八〇年代から現在までは減り続けている
ベトナム戦争時の一九七〇年代は沖縄に十二万人の米兵が駐留していた。ベトナム戦争が終わり、東南アジアの紛争が縮小していくにつれて沖縄の米兵は減り、今では二万人余になっている。米兵は十万人も減少している。実に八〇%以上のげんしょうである。米兵だけでなく米軍基地も次々と返還されてきた。
読谷飛行場、ハンビータウン、美浜、泡瀬ゴルフ場、嘉手納弾薬庫の一部、トリイステーションの一部、恩納通信所、那覇新都心などが返還されてきた。
 沖縄の米軍基地は返還され続けているのであり、新たに軍用地が接収されたことはない。そして、嘉手納飛行場以南の米軍基地を返還すると日米政府は宣言した。今後も米軍基地は返還されていくことは確実である。
沖縄の米軍基地負担はずっと減り続けている。基地負担が増えたということはない。基地負担は減り続けているのに「これ以上の基地負担は耐えられない」はおかしい。これは実際の県民の声ではない。金城幹事長の現実を無視した声である。

県外移設希望はずっと三〇%台である。「ぜひ県外移設を実行してほしい」というのは三〇数%の民意であって県民全体どころか過半数の民意でもない。新聞の県民世論の統計でそれがはっきり示されている。世論さえ無視する金城幹事長である。

もし、本当に危険性の除去を考え、固定化はいかんと考えるのであれば、まず飛行場での訓練をやめ、危険性を除去した上で、どこに移したほうがいいのかという議論すべきだ。それをしないで、固定化論や危険の除去を訴えるのは、まったくつじつまが合わない。
沖縄タイムス・金城勉インタビュー   

アジア情勢を無視し、軍隊の役目を無視した発言である。
国の防衛は政府に責任がある。沖縄県にはない。日本は米国と日米同盟を結んで自衛隊と米軍が日本の防衛をしている。テロ・侵略は国民の命が危険になるし、経済に深刻な影響を及ぼす。だから自衛隊・米軍はテロや侵略を防ぐために四六時中警戒しなければならない。
普天間飛行場はテロや侵略や自然災害にいつでも対応できる状態でなければならない。そのためにはパイロットの訓練は毎日繰り返さなければならない。生死をかけるのだからどんなに訓練してもそれでいいとは言えない。それなのに金城幹事長は、「本当に危険性の除去を考え、固定化はいかんと考えるのであれば、まず飛行場での訓練をやめ」たほうがいいというのだ。訓練をしないでどうしてテロや侵略や自然災害に対応することができるだろうか。

戦後六十八年間沖縄はテロも紛争もなかった。それは米軍が沖縄を防衛していたからである。平和を維持するためには毎日の厳しい訓練が必要である。「本当に危険性の除去を考え、固定化はいかんと考えるのであれば」と金城幹事長はいうが米軍基地以上の危険はテロや紛争であり、長期間訓練を止めればばテロや紛争の危険性が起こる可能性が高くなる。そのことを金城幹事長は考えないようだ。沖縄は戦後ずつと平和だった。金城幹事長は平和ボケしているから訓練を止めろというのだ。

米軍が沖縄に駐留していなければ沖縄は中国に侵略されていただろうといっても金城幹事長は信じないだろうな。それどころか米軍が居なかったら、沖縄は独立国家になって、昔の琉球王国のように中国とは親しい関係になり貿易をしていただろうと思うかも知れない。しかし、今の中国は清王朝ではない。共産党独裁国家である。弱い国には侵略して植民地にする国家である。
昨日、中国新疆ウイグル自治区で警官隊と武装グループの衝突があり警官二人を含む十六人が死亡した。最近天安門広場での自爆テロもあった。チベット自治区では若い僧侶の焼身自殺が後を絶たない。その原因は共産党独裁国家中国が植民地支配をしてウイグル族やチベット族を差別しているからだ。
ベトナム、フィリピンの領土への侵略も中国はやった。尖閣諸島は中国の領土だと主張し中国船が領海侵入を繰り返している。
戦後から現在までの中国を見れば、沖縄が軍事力の弱い琉球王国であったら中国の植民地になっていたであろうことは容易に予想できる。


仲井真知事、翁長市長、自民党沖縄県連、そして公明党は、三〇%台しかない「県外移設」を県民総意だと断言している。三〇%を一〇〇%にするのは県民の要求を無視し平気で事実を歪曲する独裁者のようなものである。
そもそも、民主主義思想には「総意」はない。反対する者は必ずいるから一〇〇%賛成はないという考えが民主主義の基本的な考えだ。だから、議論をし、議論を尽くした後に多数決で決めるというのが民主主義である。
 三〇%台の過半数にも満たない「県外移設」を「県民総意」にねつ造する沖縄の政治家たちに民主主義社会はつくれない。彼らは琉球王国のよう独裁国家をつくるだろう。私は独裁国家に住みたくない。民主主義国家に住みたい。沖縄が独立国ではなく民主主義国家日本の地方自治体であってよかったと私は思う。

 五〇年代は特にそうだが、多くの米軍基地が本土にあったのが、その地域で反対運動が起きて移動することがあり、そういう意味では政府も米軍も地域住民に配慮して米軍基地の整理、縮小、撤退という形で大幅に削減されてきた。しかし、沖縄だけは逆に強化されてきた歴史がある。
沖縄タイムス・金城勉インタビュー

 左翼学者の理屈をそのまま鵜呑みにしている金城幹事長である。情けない・・・。
日本と米国は戦争したのだ。日本は米国に戦争を仕掛けた軍国主義国家だった。戦勝国の米国が日本の軍隊を解体し、日本の政治を軍国主義から民主主義に変革するために多くの軍隊を駐留させたのは当然のことだ。
 日本が軍隊を解体し、民主主義国家の道を歩き始めれば米軍が日本に駐留する必要はない。日本本土は自衛隊が増えるにしたがっての米軍を縮小するのは当然である。反対運動があったから基地を縮小したのではない。日本が民主主義国家になり自衛隊が増強されて米軍の駐留が必要なくなったから縮小したのだ。
本土の米軍を縮小したのは駐留する必要がなかったからであって反対運動のせいではない。
 
なぜ、沖縄に米軍が集中したか。それは中国が共産党独裁国家になったからである。
共産党独裁国家中国はウイグルやチベットに侵略して植民地にした。北朝鮮は南朝鮮に侵略したし、北ベトナムは南ベトナムに侵略した。武力で他国に侵略するのが社会主義国家であった。
 資本主義国家米国にとって共産主義勢力は仇敵であり、共産主義が拡大するのを米国は抑止しようとした。沖縄の米軍基地を強化したのは共産主義勢力の拡大を抑止する戦略拠点にするためであった。米軍はベトナム戦争で負け、カンボジアでも負けた。六〇年から七〇年代は共産主義勢力が拡大していった時代だった。韓国、日本、フィリピン、台湾などの国々が共産主義勢力に侵略されるのを抑止するために米軍は韓国、沖縄、フィリピンに米軍を駐留させた。米軍は陸だけでなく海上には原子力空母艦隊、海底には原子力潜水艦を配置した。

 ベトナム戦争、カンボジア内戦が終結し、東南アジアでの戦争・紛争が減っていくに従って沖縄の米兵は減り、米軍基地も縮小していった。金城幹事長は「沖縄だけは逆に強化されてきた歴史がある」と述べているが、本土の米軍の縮小は日本軍の解体、日本の独立と民主化が原因であり、沖縄が強化されたのはアジアの共産主義勢力の台頭が原因である。ベトナム戦争をピークにアジアの紛争や戦争は下火になっていったので沖縄の米軍基地は縮小していった。それが歴史的事実である。
「常に沖縄はハンディを押し付けられてきた」
「海兵隊はもともと本土に駐留していたものが一九五〇年代に沖縄に移駐してきた。米施政権下の沖縄は、押し付けるのに都合がよい場所だったのでは」
という金城幹事長の考えは適切ではない。

米国は日本を含めアジア全体を見ながら対アジア戦略を実行してきた。アジア戦略の一環として沖縄を直接統治し本土の海兵隊を沖縄に移動した。それは「押し付ける」という感情的なものではなく冷徹な軍事戦略のもとに海兵隊の移動があった。冷徹な軍事戦略によって沖縄の米軍駐留はあったのだから、私たちは冷静な目で沖縄の米軍を見るべきである。「ハンディを押し付けられてきた」「米施政権下の沖縄は、押し付けるのに都合がよい場所だったのでは」などと感情的に見たら本質を見誤る。米軍が見つめていたのは中国、北朝鮮、ベトナム、カンボジアなどの共産主義勢力であった。アジアの共産主義勢力の情勢に応じて沖縄の米軍は増えたり減ったりしていった。
 アジアの共産主義勢力との戦争の可能性が低くなるに従って、沖縄の米軍駐留を減らしていったというのが事実であり本当だ。


 金城幹事長は米軍基地の沖縄集中があたかも県民を差別し苦しめてきたと述べているがそれは違う。
金城幹事長は米軍増加=苦渋の押しつけだと主張している。沖縄の人たちは米軍によって苦渋の生活を送っているというのだが、私は嘉手納飛行場の近くに住んでいるが米軍による苦渋の生活を強いられた体験はない。そんな人を見たこともない。
嘉手納飛行場の東側にある嘉手納道の駅一帯は、戦闘機の騒音が激しく「苦渋の生活」を強いられているといえる。しかし、そのような場所は限られている。それにその場所に新しい家が増えている。本当に苦渋だったら家が増えるはずがない。苦渋ではないから新しい家が増えているはずである。金城幹事長の言う苦渋とはどういうものだろうか。

有名な普天間飛行場の写真である。


飛行場の周囲に住宅が密集していて、写真を見た瞬間にぞっとする。「世界一危険な飛行場」と言われているゆえんだ。私が普天間飛行場の上空写真を見たのは十年ほど前だが、写真を見て恐怖が走った。まさかこんなに住宅が密集しているとは思わなかった。
普天間飛行場の周囲に住宅が密集していることで革新系の政治家や沖縄新聞などは米軍を非難したが、私は住宅をつくったのは沖縄県民なのだから米軍非難は間違っているとブログで反論した。しかし、そのうちに普天間飛行場の周辺に住んでいた知人や商売をしていた知人がいて、何度も普天間飛行場の周辺に行ったことを思い出した。知人のなかには普天間飛行場の側に建売住宅を買ったのもいた。
政治問題から離れて、知人たちのことを思い出すと、人間は幸せを求めて生きていることに気づいた。幸せの形は人それぞれ違うが、基本は仕事であり家庭であり、住宅である。一戸建て住宅を買うのは幸せを求めているからである。
普天間飛行場の周辺は人々が幸せになれる場所がたくさんあるから密集地になったのだと言える。普天間飛行場の周辺は苦渋や不幸の場所ではない。幸せの場所なのだ。嘉手納飛行場に比べて普天間飛行場は静かなほうであり、騒音被害は少ない。
戦後人口増加率が高いのは那覇市ではなく宜野湾市である。宜野湾市には幸せになれる場所が多かったということになる。
普天間飛行場の写真を見ただけで、周囲に住む人たちが苦渋の生活をしていると考えるの間違いである。

 金城幹事長が言うように米軍基地が県民に苦渋を押し付けるのなら、沖縄は苦渋の島である。人は苦渋ではなく幸せを求めて生きている。沖縄が苦渋の島なら人々は沖縄から離れていくだろう。
 事実戦前の沖縄は苦渋の島だった。多くの人々が苦渋の島沖縄から出て本土や海外に移住していった。一九九〇年から五年ごとに世界のウチナーンチュ大会を開いて多くの海外のウチナーンチュがやってくるが、多くの海外移住者が居るということは皮肉ではあるが沖縄が貧しく苦渋の島だったからである。
 戦後直後は海外移住者が居たが次第に少なくなり、一九七〇年代後半からは逆に海外に住んでいるウチナーンチュが沖縄に移住するようになった。学習塾をやっている時、ブラジルから移住してきた子供に日本語教育を頼まれた経験がある。

金城幹事長は米軍が駐留していることが沖縄の人々に苦渋を押し付けているというが、苦渋の島であるはずの沖縄の人口は終戦直後は六十万人にも足りなかったが米軍統治時代の二十七年間で一〇〇万人近くなった。四十万人近く人口が増えたのである。
人口が飛躍的に増加したのは戦後の沖縄は戦前の沖縄より苦渋は少なくなり幸せになれる場所が増えたということである。なぜ幸せになれる場所が増えたか。
戦前と戦後の大きな違いは米軍が駐留しているかしていないかである。戦後に人口が増えた原因は米軍の駐留以外には考えられない。
もし、米軍が駐留しないで戦前と同じ沖縄であったら人口は戦前の半分の三十万人くらいであっただろう。奄美大島は戦前の沖縄と同じようにさとうきび栽培などの農業中心であるが、人口は戦前に比べて半減している。農業中心の沖縄であったら奄美大島と同じ歴史を沖縄もたどっていただろう。
米軍が駐留したから沖縄の人口は増え続けたのだ。米軍が苦渋を強いたという金城幹事長の考えは間違っている。米軍が沖縄に「苦渋」を押し付けたというのは金城幹事長が沖縄の現実を無視しているからだ。
祖国復帰をしていない米軍が駐留している「苦渋の島沖縄」に祖国復帰をした奄美大島の多くの人たちが移住した。なぜ、「苦渋の島沖縄」に移住したのだ。金城幹事長はその歴史的事実を説明できるだろうか。

米軍は沖縄の人たちに苦渋を強いたのではない。自由で平等な社会を与えた。琉球大学を設立して優秀な人材を生み出し、琉球が自立できる社会になるように指導した。琉球政府を創立し、沖縄を三権分立の社会にした。
社会主義国家との冷戦が続く中、米国は沖縄を統治し、軍事を優先していたが、それが沖縄社会を弾圧し苦しめることにはならなかった。むしろ、米軍は沖縄を民主主義社会にする努力をした。民事・刑事法を米国の法律を参考に作成し、社会の仕組みをつくった。琉球銀行をつくり、戦前は尚氏のような大地主しか企業を起こすことができなかったが、一般の人でも企業を起こせるようにした。キャラウェイ高等弁務官は賄賂が当たり前の沖縄の「常識」を禁止し、琉球銀行の幹部を首にしたことがある。
加害者が米兵であれば米軍の法廷で裁く。加害者が沖縄人であれば沖縄の法廷で裁く法律もつくった。
一九七一年に起こった有名なコザ騒動では、捜査はすべて琉球警察がやり琉球の法廷で裁いた。米軍側は一切口出ししなかったという。
車を焼かれた米兵が沖縄人に復讐をしないために米民政府が車を弁償した。そのことを沖縄の新聞はほとんど報道しない。

琉球政府の主席を米民政府が任命したのは沖縄の政治家がまだ民主主義的な政治運営には未熟だったからだ。もし、米民政府が関わらないで、沖縄の政治家だけで政治をやっていたらどうなっていただろうか。今でも琉球処分に反感を持ち独裁国家の琉球王国を美化する政治家が多いのだから、沖縄は独裁国家になり北朝鮮に似た社会になっていただろう。

 米民政府が統治していたから沖縄は特権階級のいない平等な社会になった。それに米軍の仕事があった。仕事が多かったから奄美大島から多くの人たちが移住して沖縄の人口は飛躍的に増えたのだ。もし、米軍基地があるために沖縄中が危険であり、米兵の婦女暴行・事件・事故が頻繁に起こり、米軍のやりたい放題の島であったなら人口は激減していたはずである。そうではなかったから沖縄の人口は増えたのである。
米軍基地のある沖縄は人口が増え続け戦前の六十万人から百四十万人以上になった。米軍基地のない奄美大島の人口は半減し過疎化が進んでいる。有名な奄美民謡の若い後継者も少なくなり、奄美民謡消滅の危機だという。もし、沖縄に米軍基地がなかったら沖縄も奄美大島と同じ過疎化の道を辿っていただろう。事実、沖縄でも奄美大島と同じように農業中心の北部や離島は過疎化がすすんでいる。
政治も経済も米軍統治時代から現在まで沖縄の近代化は発展してきた。近代化されなかったのは沖縄の政治家、学者、識者たちの思想である。

ユーチューブ映像

島袋吉和辺野古区演説



兼次エリカ応援演説1


兼次エリカ応援演説2


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )