なあ雲よ・・・アート俳句 六百五十七~六百五十九句

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天皇を「尊敬すれど崇拝せず」





 戦後の教育は軍国主義や天皇崇拝の否定を教えた。そして、沖縄の知識人も、「天皇の名のもとで沖縄の惨禍を受ける」というように、天皇崇拝を推し進め、戦争拡大し、沖縄戦の悲惨を招いたのは天皇も同罪であると説いてきた。

 軍部が最後の一兵まで戦うという方針のもとで、本土決戦を国民に覚悟させていた時に、軍部の妨害をかいくぐって、玉音放送を流し、太平洋戦争を終結させたのは天皇であることは有名な話である。しかし、沖縄の知識人は天皇の戦争責任を追及するが、天皇の玉音放送で戦争を終わらしたことは評価しない。

 昭和天皇は若いときに長期間イギリスに留学をした。イギリスは民主主義国家であり、皇室は「君臨すれど支配せず」の国家であり皇室は政治には関わっていない。そのイギリスに留学した昭和天皇が、沖縄の知識人が主張しているような天皇が天皇崇拝、軍国主義を推進したのか疑問である。

 戦前に、戦後の象徴天皇と似た考えで、天皇は国家が決めたことを追認して、天皇が政治に直接関わることがない天皇機関説という考えがあり、昭和天皇はその考えに賛成した。しかし、天皇制国家を主張する政治家や軍部に反対され、その法案は潰された。

天皇機関説 - Wikipediaより引用

天皇機関説事件

 憲法学の通説となった天皇機関説は、議会の役割を重視し、政党政治と憲政の常道を支えた。しかし、政党政治の不全が顕著になり、議会の統制を受けない軍部が台頭すると、軍国主義が主張され、天皇を絶対視する思想が広まった。1932年(昭和7年)に起きた五・一五事件で犬養毅首相が暗殺され、憲政の常道が崩壊すると、この傾向も強まっていった。

 1935年(昭和10年)には、政党間の政争を絡めて、貴族院において天皇機関説が公然と排撃され、主唱者であり貴族院の勅選議員となっていた美濃部が弁明に立った。結局、美濃部は不敬罪の疑いにより取り調べを受け(起訴猶予)、貴族院議員を辞職した。美濃部の著書である『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊は、出版法違反として発禁処分となった。当時の岡田内閣は、同年8月3日には「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり。」とし、同年10月15日にはより進んで「所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除(さんじょ)せざるべからず。」とする国体明徴声明を発表して、天皇機関説を公式に排除、その教授も禁じられた。

昭和天皇の見解

 昭和天皇自身は機関説には賛成で、美濃部の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていた。国体明徴声明に対しては軍部に不信感を持ち「安心が出來ぬと云ふ事になる」と言っていた(『本庄繁日記』)。また鈴木貫太郎侍従長には次のように話している。
 主權が君主にあるか國家にあるかといふことを論ずるならばまだ事が判ってゐるけれども、ただ機關説がよいとか惡いとかいふ論議をすることは頗る無茶な話である。君主主權説は、自分からいへば寧ろそれよりも國家主權の方がよいと思ふが、一體日本のやうな君國同一の國ならばどうでもよいぢやないか。……美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠なのでないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一體何人日本にをるか。ああいふ學者を葬ることは頗る惜しいもんだ。


「尊敬すれど崇拝はせず」の理由

1、 昭和天皇は戦後の民主主義国家をのぞんでいた。
2、 平成天皇をはじめ皇太子も天皇家は一般人と結婚をしている。
3、 A級戦犯の合祀が合祀された後は靖国神社を参拝していない。
4、 平成天皇がサイパンに行った時、朝鮮人慰霊碑も参拝した。


 天皇崇拝・軍国主義を推し進めたのは天皇ではなかった。軍部は国民に選ばれた首相を暗殺し、政治家と軍部が天皇を絶絶対視する思想を広めたのだ。
 天皇と天皇崇拝、軍国主義は切り離して認識するべきであり、天皇と天皇崇拝、軍国主義を同一化すると本当の天皇崇拝、軍国主義のことを理解できない。そして、軍部の圧力をかいくぐって昭和天皇が戦争を終わらした理由を理解できない。

 新川明氏は過激派が火炎ビンを投げつけた「ひめゆりの塔事件」と知花昌一氏の「日の丸焼き捨て事件」を比較し、「ひめゆりの塔事件」の親族の責任が社会に問われることはなかったが、「日の丸焼き捨て事件」の知花昌一氏の場合は親族や地域全体への迫害行為があったといい、ふたつの違いを述べているが、火炎ビンを投げつけた過激派学生の場合は普通親族は過激派学生の行為に反対していたり絶縁状態である。過激派学生の親族が迫害行為に会うというのはあり得ないことだ。

 一方、知花昌一氏の場合は、彼の家はソフトボール会場の近くにあり、居場所がはっきりしていた。新川氏のいう迫害行為とは右翼団体の嫌がらせであった。居場所がはっきりしていたから迫害行為ができたのである。

 新川氏は、「天皇制イデオロギーと無縁の歴史を生きていた沖縄人」と述べているが、天皇制イデオロギーと無縁の歴史を生きていたのは本土の人たちも同じだ、鎌倉時代に武士階級の時代になり戦国時代、江戸時代と武士階級が支配する時代が何百年も続いた。江戸時代では、大名、将軍が支配する時代であり、日本のほとんどの人たちは天皇ことを知らなかった。沖縄だけが天皇制イデオロギーと無縁の歴史を生きてきたというのは真っ赤な嘘だ。
 天皇制イデオロギーは明治時代に王政復古し天皇制国家になってから始まるった。しかも、大正デモクラシーと呼ばれた時代があったように、大正から昭和にかけては民主主義が広まった。しかし、未熟な民主主義は混迷し、軍部の首相暗殺によって崩壊するのである。
 「天皇制イデオロギー」が広まったのは軍部が台頭するきっかけをつくった、1932年(昭和7年)に起きた五・一五事件で国民に選ばれた犬養毅首相が暗殺され、憲政の常道が崩壊する頃からである。
 沖縄も全国と同じ時期に「天皇制イデオロギー」が広まったのである。決して沖縄が本土より遅く「天皇制イデオロギー」が広まったのではない。「天皇制イデオロギー」が最高潮な時期は玉音放送が流れる直前であった。
 新川氏は「天皇制イデオロギー」と述ぶように、天皇制と結びついた軍国主義の歴史・実態を理解していないし、昭和・平成天皇への認識も浅い。

  「天皇制イデオロギーと無縁の歴史を生きていた沖縄人が、国家による上からの皇民化=日本国民化の強制に対応して、自ら国家へすり寄っていく構図は、沖縄近代史の『負』の側面だが」と新川氏は述べているが、新川氏が述べているのは戦前のことなのか戦後のことなのかうやむやである。
 戦前は天皇制国家だがら、国家による上からの皇民化は事実であるが、戦後は日本民主主義国家になったのであり、国家による上からの皇民化は事実ではない。戦後は皇民化=日本国民化ではない。

 新川氏は、「日の丸焼き捨て事件」に見る社会の異常反応と述べているが、右翼団体が抗議行動をしたのであり、それを社会の異常反応というのはおかしい。「日の丸焼き捨て事件」は裁判が長く、新聞に何度も取り上げられたが、知花氏は右翼団体以外の社会の異常反応に見舞われることもなく商売もやり、村会議員にもなっている。読谷村社会内では異常反応は起きていない。

 今の時代に「非国民」視うんぬんとは呆れる。

 戦前に生まれ、強力な「天皇制イデオロギー」教育を受けた軍国少年新川氏は、「天皇制イデオロギー」を克服することができていない。天皇を否定するだけでは「天皇制イデオロギー」を克服したことにはならない。天皇と天皇制を切り離し、軍国主義国家(体制)と民主主義国家(体制)の違いを認識し、戦前と戦後の政治が違うことを認識してはじめて「天皇制イデオロギー」克服の第一歩が始まる。

「昭和・平成天皇を尊敬すれど崇拝せず」は、「天皇制イデオロギー」を克服していない新垣明氏には理解できないだろうな。
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