Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

頑張れ!路面電車801号

2005-10-15 01:05:00 | インポート
昨10/14は鉄道記念日でした。
1872=明治5年のこの日、当時「陸蒸気」と呼ばれた我国初の鉄道が東京新橋と横浜間を結び、公式に開通しています。
今回はこの鉄道に関する雑感を記して参ります。
今年、鉄道にまつわる事共も又多かったです。
最も遺憾だったのが、4月のJR福知山線の大列車事故。実に100名を超える犠牲を生じ、平成年間に入ってからは最悪の惨事となってしまいました。輸送密度の過密化による安全策への悪影響が一因でした。その他にも、同様の事由による不幸な踏切事故が頻発し、抜本的な改善策が求められています。
安全問題から離れた所では、やはり今春、岐阜市街とその周辺を走った路面電車の一挙廃止が挙げられ、誠に残念と申すより遺憾な事でありました。
路面電車は近年、自動車中心のモータリゼーションの行き詰まりや都市部の環境改善の見地より積極的に再評価されつつある中での消滅であり、万難を排してでも保全されるべきだったと今でも強く思います。
所で岐阜での使命を終えた車輌たちのその後に少し触れましょう。
遠く大正時代より活躍した旧世代の車輌はその多くが引退、一部は保存され余生を送る様です。
又比較的新しく余命のあるグループは福井県と我が故郷の隣街、豊橋へと引越し、既に一部が新天地にて稼動し始めています。
豊橋へ移ったグループの多くは広告入りの所謂ラッピング塗装へと改装されたのですが、その中に唯1車、岐阜の時分と変わらぬ外装で奮闘している車輌を見かけました。
この車輌は801号車と言い、岐阜の路面電車最後の新車でした。
生まれは何と、私と同郷の豊川市。ここに拠点を置く鉄道車両と重機の名門、日本車輌製造豊川蕨製作所にて2000=平成12年夏、計3車が落成しています。
実に我が甥より2年も年少、当初の活躍場所を僅か5年弱で失った事になります。
しかしそのままでは終わらない所に同車の執念を見る思いが致します。
丁度所謂豊橋市内線、正式には豊橋鉄道東田本線では、かつて名古屋を走った旧世代の電車が引退の時期を迎えていました。
或いは「災い転じて福」なのでしょうか。
801号車は岐阜市内線にいた同僚と共に、先代と入れ違いに豊橋入り。唯一岐阜当時のままの外装で走る姿に、ある意味での復讐と反撃に立ち上がる姿勢が感じられ、頼もしく清清しい風情を感じたのは私だけではないと思います。
「不当な攻撃には、ただ闘うのみ」この言葉の良き実践者として、末永く新天地を走り続けて欲しいと今は願っております。
郊外でも通用する高速性能は、残念ながら当分は封印となりますが、いつの日かそちらの方の出番も期待する事とします。
P.S この電車の影像は、当写真帖新作「附録~国靖しとは・・」の前半に載せております。又、当ブログにも若干の影像があると共に、昨年と今春の記録「附録~岐路に立つ」と「惜春~又いつか」も当分の間公開致します。*(新幹線)*

コメント
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