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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

ひとりの人を

2017-09-12 15:26:37 | 教会
先日の日曜日は、横浜からK先生が来られてメッセージしてくださいました。
K先生とはお目にかったことはなかったのですが、K先生の教会の執事のIさんを知っていたので、K先生が来られると聞いて驚きました。もしかしたら先生と共にIさんも来られるかもしれないと思って、お会い出来たら本を差し上げようと、クリスチャン・ペンクラブで出版した「山川草木」を持って出かけました。朝3回礼拝があり、わたしはTEENS奉仕をしているので、いつものように第1礼拝に出ました。
第1礼拝で紹介された新来者の中にIさんの名はありませんでした。

K先生のメッセージが心に響いてきました。
イエス様が最後の晩餐の日、弟子たちの足を洗ったことは知っていました。
でも、イエス様がどのような気持ちで洗われたのか深く考えていませんでした。



その時は、イエス様がもうすぐ十字架につけられるという時でした。愛する弟子たちと食事をしながら(最後の晩餐)、イエス様は弟子たちに愛を残ることなく示されました。
悪魔はすでにイスカリオテのユダの心に働いていました。イエス様はそのことを知っておられました。
夕食のあと、イエス様は弟子たちがびっくりするようなことをなさいました。立ち上がって、たらいと手ぬぐいを用意し、弟子たちの足を洗い始めたのです。当時、足を洗うことは奴隷の仕事でした。それなのに黙々と弟子たちの足を洗うイエス様の姿を見て、ペテロは「決して私の足をお洗いにならないでください。」と言います。

イエス様はなぜ弟子たちの足を洗ったのでしょう……。人に仕えることが大切だと、行動を持って弟子たちに教えたのです。
イエス様はしもべとしての生涯、謙遜の生涯を歩まれました。

Ⅰヨハネ3:18には次のように書かれています。
「子どもたちよ、わたしたちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」
口先で『愛する』と言うだけで、実践が伴わなければならないことを教えられました。

能力、才能のある人が用いられることがありますが、私たちは仕える者として召されています。わたしたちは、弱い者ですが、弱さの中にこそ、主が力を与えてくださいます。

わたしたちは、地上にいる間は、完全に聖(きよ)いわけではありません。足は汚れているのです。イエス様に洗ってもらわなくてはなりません。でも、イエス様がペテロに言ったように、足以外は汚れていないのです。それは、わたしたちは赦された罪人だからです。

わたしたちは、弱さを持っていますが、弱さを知って、互いに足を洗いあうとき、キリストの愛により、互いにに結び合わされるのです。
イエス様は、弟子たちの足を洗うことで、模範を示されたのです。

認知症らしき高齢者の方が迷子になっていたとき、教会に連れてきてもらい、最後までめんどうをみたという話を聞いて、イエス様は、ひとりの人をどこまでも大切になさって、愛を示されておられたことを思い起こしました。へりくだってキリストの愛を示すこと、これが神様がわたしに求めておられることなのだと示されました。

午後に教会全体の修養会がありました。修養会の場であかしをしてくださった方がおられました。その方がIさんでした。お目にかかるのは10年ぶりぐらいです。
休憩時間にご挨拶すると、「土筆文香さん」と呼んでくださり、わたしのこと覚えていてくださいました。感激の再会でした。



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