一昨日は台風で大変な思いをしました。朝、8時に家を出るときはそれほどでもなかったので、傘をさして教会まで歩いていきました。帰りはお昼の12時過ぎでした。たいしたことないと思ったのですが、20分間で傘は5か所骨折。髪の毛も服も持っていたバッグもびしょ濡れでした。せめてバッグにはビニールをかぶせておけばよかったと反省しています。ひどい風雨が往きでなくてよかった。無事帰り着いてよかった! 守ってくださった神様に感謝です。
予定外の事故や病気で、なすべきことができなくなったことがありますか?
日曜日の礼拝メッセージでは、ピリピ人への手紙2:25~30からメッセージがありました。
聖書ではパウロの弟子エパフロデトがエルサレムに義援金を届ける使命を受けていたのに旅の途中で死ぬほどの病気にかかってしまったことが書かれています。のちに病気は癒されて、ピリピに無事戻ることができましたが、病気になったときのエパフロデトの心情はどうだったのだろう……と想像すると胸が張り裂けそうになります。
わたしにもそのような経験があるからです。(今日の記事はメッセージから脱線しています)
わたしは小児喘息でした。高校生のころいったんは治ったのですが、出産後10年ぶりぐらいに喘息の発作が起きてしまいました。そのときは大きな発作にならなかったのですが、それから毎年秋になると発作が起きるようになり、年々重くなっていきました。
第2子が生まれた時は、ひどい発作に襲われて、生後10日の赤ん坊は実家に預け、入院生活を余儀なくされました。3歳4か月の長男は夫の実家に預けていましたが、「こんなはずじゃなかった」と、点滴を受けながら泣いてばかりいました。
娘が9月20日に生まれたので、10月はじめには息子を連れてきてもらって、10月中には自宅に帰ろうと計画を立てていました。でも、それができなくなったのです。
一番つらかったのは、息子に会えないことでした。わたしも息子も会える日を指折り数えて待っており、あと一週間で会えるというときに入院してしまったのです。
息子はやさしいおばあちゃんに面倒を見てもらっていましたが、夕方になると寂しくなって泣きべそをかいている。おばあちゃんがおんぶして、通りまで出て、車が走るのを見て気を紛らわしていると聞いて胸が張り裂けそうでした。
治療を受けているのに発作は治まらず、苦しくてなりませんでした。聖書も読めず、祈ろうとしても言葉が出ず、出口のないトンネルの中にいるようでした。
入院して10日たったときにステロイドを投与してもらい、ようやく発作が治まってきて退院となりました。自宅にもどったのは予定より1か月も後でした。
喘息は完治したわけではなかったので、子育て中も発作が起きました。2人に留守番させて救急外来に這うようにして行ったり、娘を病院のベッドの傍らに置いて、点滴を受けたりしました。よく死ななかった。(大げさに書いているのではありません。病院の玄関前で倒れて死んでいる喘息患者が朝になってみつかることがあると病院関係者が言っていました)よく2人の子を育てられたと、今振り返ると不思議な気がします。
あのような苦しみは何のためだったのでしょう?
その後喘息は、予防薬を使うようになって治ってきましたが、それから数年後に乳がんが見つかったのです。
がんの治療は不思議に辛いとは思いませんでした。布団に仰向けに横になれる、じゅうぶん息が吸えて吐ける。喘息よりずっと楽ではありませんか。
30年も苦しんだ喘息でしたが、もしかして忍耐が養われるためだったのかもしれません。
自分の努力ではどうすることもできない病。病を憎むのではなく、感謝できたらいいですね。
聖書の言葉
「それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。
(ローマ人への手紙5:3-5)」
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予定外の事故や病気で、なすべきことができなくなったことがありますか?
日曜日の礼拝メッセージでは、ピリピ人への手紙2:25~30からメッセージがありました。
聖書ではパウロの弟子エパフロデトがエルサレムに義援金を届ける使命を受けていたのに旅の途中で死ぬほどの病気にかかってしまったことが書かれています。のちに病気は癒されて、ピリピに無事戻ることができましたが、病気になったときのエパフロデトの心情はどうだったのだろう……と想像すると胸が張り裂けそうになります。
わたしにもそのような経験があるからです。(今日の記事はメッセージから脱線しています)
わたしは小児喘息でした。高校生のころいったんは治ったのですが、出産後10年ぶりぐらいに喘息の発作が起きてしまいました。そのときは大きな発作にならなかったのですが、それから毎年秋になると発作が起きるようになり、年々重くなっていきました。
第2子が生まれた時は、ひどい発作に襲われて、生後10日の赤ん坊は実家に預け、入院生活を余儀なくされました。3歳4か月の長男は夫の実家に預けていましたが、「こんなはずじゃなかった」と、点滴を受けながら泣いてばかりいました。
娘が9月20日に生まれたので、10月はじめには息子を連れてきてもらって、10月中には自宅に帰ろうと計画を立てていました。でも、それができなくなったのです。
一番つらかったのは、息子に会えないことでした。わたしも息子も会える日を指折り数えて待っており、あと一週間で会えるというときに入院してしまったのです。
息子はやさしいおばあちゃんに面倒を見てもらっていましたが、夕方になると寂しくなって泣きべそをかいている。おばあちゃんがおんぶして、通りまで出て、車が走るのを見て気を紛らわしていると聞いて胸が張り裂けそうでした。
治療を受けているのに発作は治まらず、苦しくてなりませんでした。聖書も読めず、祈ろうとしても言葉が出ず、出口のないトンネルの中にいるようでした。
入院して10日たったときにステロイドを投与してもらい、ようやく発作が治まってきて退院となりました。自宅にもどったのは予定より1か月も後でした。
喘息は完治したわけではなかったので、子育て中も発作が起きました。2人に留守番させて救急外来に這うようにして行ったり、娘を病院のベッドの傍らに置いて、点滴を受けたりしました。よく死ななかった。(大げさに書いているのではありません。病院の玄関前で倒れて死んでいる喘息患者が朝になってみつかることがあると病院関係者が言っていました)よく2人の子を育てられたと、今振り返ると不思議な気がします。
あのような苦しみは何のためだったのでしょう?
その後喘息は、予防薬を使うようになって治ってきましたが、それから数年後に乳がんが見つかったのです。
がんの治療は不思議に辛いとは思いませんでした。布団に仰向けに横になれる、じゅうぶん息が吸えて吐ける。喘息よりずっと楽ではありませんか。
30年も苦しんだ喘息でしたが、もしかして忍耐が養われるためだったのかもしれません。
自分の努力ではどうすることもできない病。病を憎むのではなく、感謝できたらいいですね。
聖書の言葉
「それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。
(ローマ人への手紙5:3-5)」

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