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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

苦難の意味(その1)

2017-10-09 17:43:23 | 教会
一昨日は土浦市の花火競技大会でした。土浦では全国の花火師さんが集まって、毎年10月に競技大会が行われます。今年は前日から朝にかけて雨が降ったものの、夕方からいい天気になって、70万人もの人が集まってきたそうです。わたしの住むマンションからよく見えるので、わたしは孫たちとベランダに出て観ました。

色の名前を全部覚えて得意になっている3歳のナルクンが大声でカラフルな花火を見て「青」「赤」「黄色」と大声で叫んでいました。途中で飽きておもちゃで遊んでいましたが……。


日曜日は、教会でA先生からメッセージを聞きました。メッセージの一部の紹介と考えたことを書かせていただきます。

障がいのある人を見ると、なぜ障がいがあるのだろう、本人の心がけが悪かったのか、両親が悪いことをしたのか……と思う人がいます。

2000年前にもそのように思った人がいました。それはイエス様の弟子たちでした。(弟子たちばかりではなく、大勢の人がそのように思っていたことでしょう)

生まれつき盲目の人を見て、弟子たちはイエス様に質問しました。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか(ヨハネ9:2)」
イエス様は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。(ヨハネ9:3)」と答えました。


弟子たちの発言は、因果応報の思想に根ざしています。 つまり、苦難がその人にとっては罰だと考えるのです。 罰だと思うと、苦しみは二重の苦しみとなります。
ところがイエス様ははっきり否定されました。

この記事が聖書に書かれていることによって、どれだけの人が慰めを受けたことでしょう。

わたしは2歳のときから喘息とう持病を持ち、苦しんできました。大きくなるにつれ、どうしてわたしだけがそんな病気持ちになったのか、神様からの罰なのか……と精神的にも苦しみました。
この聖書の言葉を読んだとき、どれだけ救われたことでしょう。


                つづく


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