[16時すぎに、註を追記しました]
上の図は、スイスとドイツの木造軸組工法で使われている継手・仕口の、ほんの一例である。
日本と同様の方法が彼の地にもあることが分かる。
考えてみればあたりまえ。たとえ日本では地震が多いからと言って、どのように木材を組めば壊れない立体になるか、と考える事においては、彼我の違いがあるはずがない。そして、一体の立体物に組み上がれば、そう簡単には壊れないのだ。
ドイツでは金物による継手や仕口の考案が多数なされているが、よく見ると、金物以前にあたりまえに使われていた継手・仕口が十分に研究されているようだ。ただし、ここで「研究」というのは、力の伝わり方、あるいは継手・仕口部の耐力を数値化することではない。
「今の」日本の専門家は、すぐに数値化に走ってしまうが、部分を仮に数値化できたからといって、その足し算で立体物の強さが決まるわけではないのは、言うまでもあるまい(註)。
彼の地の書物を見ると、こういう立体物の、こういう場所では、かくかくしかじかの理由で、こういう継手・仕口が使われる、といういわば「定性的」な押さえがしっかりとできている(定量化にこだわらない)。
言うなれば、彼の地では「森を見て木を見る」のだが、「今の」日本では「木を見て森を見ない」というのが一番分かりやすい言い方かもしれない(註)。
何度も言うけれども、「今の」日本の建築に関わる人たちは、多くはいわゆる《理科系》なのだが、「今日は突然今日になる」とでも思っているらしい。つまり、「歴史」を疎んじる、「歴史」を学びたがらない性癖があるようだ。そしてさらに、最近は、「現場」(現場と現場に関わる人)をも疎んじる。「現場」からは、絶対にホールダウン金物のごとき金物は生まれてはこないはずだ(註)。
註 「今の」人たちとは、「近代的教育」、すなわち
「一科一学」の教育の下で育った人たちの意である。
近世以前の人は、「森を見て、そして木も見る」のが
あたりまえ、当然「歴史」も、そして、「現場」も
ないがしろにはしなかった。