「在来工法」はなぜ生まれたか-2 の補足・・・・・「在来工法」の捉え方の実態

2007-02-07 19:09:07 | 《在来工法》その呼称の謂れ
昨日の記事を補足するために、と言うより、「在来工法」が一般にどのように理解されているかを示すために、ネットで検索した「在来工法」についての「解説」を一・二紹介する。いずれも「在来工法」=「木造軸組工法」として解説している。

[解説例-1]
木造軸組工法は、図のように(図は2月5日に掲載の「構造用教材」所収の図)柱とはりとすじかいが主要な部材で、地震の水平力にすじかいで耐える構造です。木造軸組工法は「在来工法」とも呼ばれます。しかし、木造軸組工法と一つの工法のように言っていますが、厳密には一つの工法とは言えません。木造軸組工法は在来工法と呼ばれていることからも分かるように、昔からある様々なつくり方をまとめてそう呼んでいるのです。そのためにこの工法の中では、現在も地方的な差や技術的な幅があります。逆に考えると、そのように様々なつくり方や技術のレベルが存在していたために、阪神・淡路大震災では、在来工法の中に大きな被害をうけたものがでてしまったといえます。
木造軸組工法の住宅が地震にあうと、柱、はり、すじかいで地震の力を受け持って、土台、アンカーボルト、基礎、地盤と力が伝わります。
  (http://www.aij.or.jp/jpn/seismj/lecture/lec6.htm より) 

[解説例-2]
木造軸組工法とは、柱、梁、桁、筋交いなど、木製の軸組で家の骨組みをつくる工法のこと。
コンクリートの基礎の上に土台を置き、それに柱と梁などを組み合わせて建物を建築する工法のこと。建物のそれぞれの長さが自由に決められるので、ほかの工法よりプランニングの自由度がもっとも高いといわれる。(中略)各部材をつなぐために仕口や継手などの工夫がされているが、現在では取り付け金物を併用し、より強い躯体がつくれるようになっている。日本家屋の伝統的工法として、古くから使用されているので、在来工法とも呼ばれ、現在でも、木造住宅の多くはこの方法で建てられている。
  (http://kw.allabout.co.jp/glossary/g_house/w002580.htm より)

これらの記載が誰の(どういう立場・専門の人の)手によるものかは詳らかではないが、共通しているのは、「筋かい」や「アンカーボルト」などは昔から使われていた必需部材という認識である。
とりわけ解説例-2の、「日本家屋の伝統的工法として、古くから使用されているので在来工法とも呼ばれる」には唖然とする。あまりにも日本の建築史について知らなすぎる。

解説例-1の阪神・淡路地震による木造軸組工法の被災原因は「さまざまなつくり方や技術のレベルが存在していたため・・」という言及も、あの狭い地域にさまざまなつくり方があるわけもなく、現地を見ずに机上で考えた理屈だな、と直ちに分かってしまう。

解説例-1で一番《難解》なのは、「木造軸組工法の住宅が地震にあうと、柱、はり、すじかいで地震の力を受け持って、土台、アンカーボルト、基礎、地盤と力が伝わります」という説明である。
これでは、地震の力というのは、宙をとんできて建物にかかることになる。
地震によって建物にかかる力は「慣性力」である、という事実が忘れられている。
実際は、基礎に緊結してあるため、「慣性力」のほかに、地盤・地面の動きも、そっくりそのまま、ここで書かれている逆をたどって軸組に伝わるのである。


なお、Wikipediaも、もっと簡単に、ほぼ同様の解説を載せているし、「伝統工法」で建物づくりをしているという人(工務店)のホームページさえも(!)、「筋かい」を当然とする大同小異の説明であった。

今回検索してみて、とんでもないことが「常識」になっていることが分かり驚いた、というのが正直な感想である。

しからば、このような解説が流布しないためにも、「事実」を正しく伝えるべく心しなければならない。

以上、次回の地均しのための「予備調査」の報告。

  追記
  あとで調べたら、解説例-1はAIJ、すなわち「日本建築学会」の
  ホームページ中の解説であることが判りました!
  つまり、書き手は専門家でした!
  

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「在来工法」はなぜ生まれたか-2・・・・「在来」の意味

2007-02-06 12:00:03 | 《在来工法》その呼称の謂れ
「在来工法」という呼び方は、今ではごく普通に使われている。

では、「在来」という語は、どういう意味なのだろうか。
辞書によれば、「在来」とは『これまで普通に行われてきた(ものである)こと』とある(「新明解国語辞典」)。
この解説は、この語に対して、人が通常理解する意味と変わらない。
したがって、人が、これまでの普通の日本の木造の建物は、すべて「在来」であると理解して決しておかしくない。
  
ところが、建築用語としての「在来工法」の「在来」は、辞書の、そして常識的な理解とはまったく異なる。
1960年代、北米から導入された「新来」の「枠組工法:2×4工法」に対して、「木造軸組工法」を区別するために、「在来」の語が使われるようになったのである。
けれども、「枠組工法」に対しては「軸組工法」で十分区別できるわけだから、ここであえて「在来」と呼ぶことにしたのには、別の理由があったと考えられる。

 
日本の木造建築は、古来、柱と横材で空間の骨格を構成し、屋根を架け、柱の隙間に壁や開口装置を充填する方法、すなわち「軸組工法」が主流である。世界的に見ても、木造の建築には「軸組工法」が圧倒的に多い。多分、所要の空間をつくるにあたり、必要木材量が少なくて済むからだろう。

   註 日本には、正倉院のようなログハウス方式「校倉造」、
      軸組の間に板を落し込む「板倉」(基本的に軸組工法)
      もあるが、絶対数は少ない。

そして、日本の「軸組工法」は、古代以来、代々人びとに受け継がれ、工夫が積み重ねられ、近世には、ほぼ完成した技術体系:工法を形成するまでになっていた(この過程については後日触れる)。だから、語の本来の意味から言えば、これも明らかに「在来」の工法である。

ところが、この技術体系:工法は、1950年制定の建築基準法が規定する「軸組工法」とその内容が全く異なる。一例を挙げれば、軸組を基礎に緊結はせず、「筋かい」も必需部材ではない(詳細は次回以降)。
そこで、近世までにほぼ完成していた技術体系は、法令の規定する「軸組工法」には該当しない工法、非近代的、非科学的ないわば時代遅れの過去の工法として扱われるようになり、法令の規定する軸組工法:「在来工法」と区別するために「伝統工法」と呼ばれるようになったのである。
では、「伝統」とはどういう意味か。


先の辞書は、「伝統」とは『前代までの当事者がして来た事を後継者が自覚と誇りとをもって受け継ぐ所のもの』と解説している。
この解釈に従うならば、近世までにほぼ完成していた技術体系を、「過去の工法」=「伝統工法」と呼ぶのは、語の誤用ということになる。「伝統」と名付けた以上、「自覚と誇りをもって受け継ぐ」必要が生じるからである。しかし、実際はそうではない。
なぜ、「伝統」を「過去」と見なす誤解が生じたのか。


それは、得てして理科系の人びとに多い思考法、すなわち、①自然科学的方法への依拠を第一と考え(依拠しないものは認めない)、②「歴史」を顧みることは無用と考える(今日は昨日があっての今日である、とは考えない)思考法がとられたからだと考えてよいだろう。
つまり、「過去」のものは今にとって無意味で捨て去るべきもの、辞書の意のような「伝統」は無用、という理解になる。その結果、「伝統」=「過去のもの」との《独自の解釈》が生まれるのである。


法令の規定する軸組工法と、かつて普通に行われてきた軸組工法の内容は明らかに異なることは事実である。
そのとき、普通は、その違いを、「在来」「伝統」などの語で区別するのではなく、その内容の特徴、違いによって示すのがあたりまえである(名前を付けるなら、特徴を表す名称とする)。けれども、違いの説明、特徴の説明は、今もって、具体的に語られたことはない(あるとすれば、「伝統工法」は「現代科学技術によって生まれたものではない」との《解説》だけだろう:1月26日記事に引用の一文参照:下註にて再掲)。

   註 ある木造建築の「専門家」は、「伝統工法」に対して、次の
      ような一文を書いている。
      「・・・・(伝統構法の木造建築は)いずれも、ある程度の
      耐震性はもっているが、きわめて強い地震に対しては不安な
      ものが少なくない。
      伝統構法は、現代的な科学技術とは無縁に発展してきたもの
      であるだけに、その耐震性の評価と補強方法はいまだ試行錯
      誤の状態であり、今後の大きな課題である。・・」
            坂本功「木造建築の耐震設計の現状と課題」
                   (「建築士」1999年11月号)
       
 
では、なぜ、「在来」「伝統」の《命名》で済ませたのだろうか。

これは私の推測だが、《命名者》は、「伝統」の語の語義に対する《独自の解釈》で「在来」「伝統」と名付けることにより、法令規定の工法の優位性を示すことができる、つまり、かつての主流の工法を「伝統工法」と呼ぶことで、それを「過去のもの」に位置づけ、その存在を消し去ることができる、との「意思」が、多分無意識のうちに、働いたのである。明治以降の(建築学界での)木造建築の扱われ方を調べると、この「意思」の存在が明らかになる(後日触れる)。

そこで、次回は、かつての工法と、法令規定の工法の違いを具体的に調べてみることにする。
 

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「在来工法」はなぜ生まれたか-1(改・補)・・・・よく見かける納まり

2007-02-05 08:21:52 | 《在来工法》その呼称の謂れ
 
[4日夜に載せた記事の一部を補いました]

上の写真は、最近の木造軸組工法の住宅の工事現場で見かけた納まりである。
工事中の建物だから、当然「確認申請」をして「確認を得た」建物の現場だ。つまり、現行法令の規定を遵守していると認められた工事。

しかし、私には、きわめて危なっかしく見える。これでは、どんなに「筋かい」などの耐力壁が設けられていようが、いくら金物を添えようが、少しの揺れで(筋かいがあっても建物は揺れる)容易にはずれてしまう、簡単に壊れるように思えるからである。

このような納まりは、私の知るかぎり、かつての建物づくりでは決してあり得ない、やらない納まりだった(どうしてもしなければならない場合でも、もう一工夫ある納まりを考える)。

どうしてこういう納まりが行われるのか、かねがね不思議に思っていたのだが、あるとき、建築教育用の教科書、『構造用教材』(日本建築学会編)を見て合点がいった。
そこにこの写真と同じ納まりの図が、在来工法の架構図として紹介されていたのである(上掲右図のDと表示した箇所)。
教科書なのだから、いい加減なものは載せるわけがない。言ってみれば「推奨できる納まり」ということなのだろう。

図のA、B、C、D、Eも、最近の現場でよく見かける継手や仕口である。

たとえばA。この継手のある半間には角材の「筋かい」が入れてある。もしこの架構に左方向の力が加わるとどうなるか。階下の「筋かい」に押されて横材は持ち上がる。階上の「筋かい」がその動きを押えきれるか?ぶりかえしの動きが加わるとどうなるか?これを繰り返せば、この簡単な継手(「腰掛け蟻継ぎ」のようだ)は、たとえ金物を添えてあっても、容易にはずれてしまうだろう。Bも同様、こっちの方がもっと怖い。

そしてC。この角材二丁合せは、上下をボルト締めにするように教材は示している(この図の左下の詳細図参照)。しかし、いかに強くボルトを締めようが、ボルト孔には逃げがあるから、この二丁合せの材は、先ほどの力が加われば容易に互いがずれてしまう。

第一、なぜ、横材の寸面をこのように頻繁に、しかも極端に(1のものを突然0.5にするなど)変えなければならないのか、それが力学的に合理的だからか、それとも材積の点で経済的だからか?鉄骨造やRCでは絶対にこのようなことはしないだろう。

そしてD。これが写真の納まりを広めた元の図。
Eも一見納まっているように見えるが、それはその柱が「通し柱」のとき(ただし、仕口次第)。この架構図では、階下、階上別の柱、「管柱」としている。つまりDの上に柱を立てているのである(左側の写真は、実はこのような箇所)。

このような架構・工法:通称「在来工法」が、当然のように流通するようになったのは、そんなに古いことではなく、まだ50余年。
 
「在来工法」が隆盛を極める前は、別の工法があたりまえだった。世に「伝統工法」と呼ばれる工法である。
いったい、なぜ、この「伝統工法」が「在来工法」に取り替えられてしまったのか。そこには必然的な理由があったのか、合理的な理由があったのか。

この点について、ここしばらく、いくつかの事例を示しながら触れてみたい。

コメント (5)
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懸造(かけづくり)・続・・・・東大寺・二月堂

2007-02-01 01:31:22 | 建物づくり一般

 新年になって、もう二月。
 そして、来月、つまり三月になると東大寺・二月堂で「お水取り」(修二会:しゅにえ)。「松明(たいまつ)」が主役の一つでもあるので「お松明」とも呼ばれる。
 関西では、「お水取り」が終ると春が来る、と言う。

 学生の頃、「お水取り」を観に行ったことがある。
 今から半世紀前、当時の国鉄には「学割」があって、運賃が大人の半額だったから、頻繁に(年に最低2回は)奈良、京都を訪ねたものだった。
 博物館前の「日吉館」など、安くて学生に親切な宿屋も多数あった。
 三月とは言えしんしんと冷え込んだ深夜、「修二会」の行の光と音の迫力に圧倒され、いつのまにか寒さを忘れていたのを覚えている。

 上掲の写真は二月堂の西面。この建物も「懸造」である。
 堂の外周の「懸造」の本体から迫り出した縁から、松明の火の粉が舞い、建物は火の粉でくるまれる。
 普段の日、縁に登って西を観ると、大仏殿の屋根が眼の下に望める。

 「懸造」になっているのは、若草山の西斜面に立地しているからである。写真では緩く見えるがかなりの急勾配。
 写真左端に、修行僧が松明とともに駆け上がる急な階段(屋根がかかっている)が写っている。
 下段の図は周辺の等高線入りの地図に伽藍の配置を載せたもの。
 全体の地形と「南大門」「大仏殿」「鐘楼」「法華堂」などの位置との関係を確認できる。 

 東大寺から春日大社、春日山の山裾の森の中を歩き、新薬師寺、石上(いそのかみ)神宮、・・を訪ね、いくつもの古墳を観て、途中の和める集落に立ち寄り、そして三輪神社へと、のんびり一日がかりの散策をよくしたものだった。最近訪ねていないが、宅地化の波が押し寄せてはいまいか。 
 

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