『ひこうき雲』 荒井由実 ☆☆☆☆
私はユーミンはあんまりちゃんと聴いたことがない。日本にいた時はどこへ行っても(特にリゾート地)耳にしたし、そうやって聴いた限りではそれ以上聴き込みたいという気が起きなかったからである。しかし昔ラジオから『あの日に帰りたい』が流れてきた時のインパクトは覚えている。そして、その時の印象と私があちこちで聴くユーミンの曲の印象とは長い間一致しなかった。
ちょっと前に、ふと思いついてユーミンのデビュー作である『ひこうき雲』を買って聴いてみた。まだ荒井由実の名前の頃である。今のユーミンとは違うと聞いたので、おそらくこのアルバムで『あの日に帰りたい』の独特のセンスに再会できると期待したからだ。期待は裏切られなかった。
『ひこうき雲』には、少なくとも私が知っている現在の松任谷由実にはない独特のフィーリングがある。それは寂寥感というか、思春期の少女が持つある種の暗さのようなものだ。内田春菊のマンガに描かれる少女の怖さにも通じる。
当時はまだフォークの全盛期で、ユーミンの登場は非常に衝撃的だったらしい。それは本作を聴けばよく分かる。明らかに異質なのである。新感覚派などと呼ばれたらしいが、かぐや姫やさだまさしを聴いていたリスナーが『ひこうき雲』を聴いた時の衝撃は想像にかたくない。
ユーミンの音楽が持つ都会性や洗練がそれらのフォークと一線を画していたのは言うまでもないが、私が思うにもっと重要なのはこの独特のセンシビリティである。その切実さ、陰影の深さはそれまでのフォークがよりどころとしていた感傷性の比ではなかった。失恋の悲しみを歌うのは当時のフォークも今のJ-POPも常套だが、その悲しみは甘美であり、美しい思い出となっていくノスタルジーをあらかじめ内包している。そこで流される涙は甘い。これが感傷性である。
ところが『ひこうき雲』全篇を覆う荒井由実のセンシビリティは違う。少女らしい感傷性がまったくないとは言わない。けれどここに感じるのは悲しみというより痛み、あるいは苦しみと言う方が正しい気がする。失恋がどうこうでなく、生きることというか、若い少女であることの痛みのようなものを感じる。甘い悲しみではなく、ヒリヒリした痛み。それをユーミンはあの淡々とした声で歌う。痛みや苦しみをことさらにひけらかさない。それはまるで、何を考えているか分からない無表情な少女の内面をふと覗きこむことに似ている。そこで少女は人知れず血を流している。私達はそれを見て衝撃を受けるのだ。
さらに言うと、それは荒井由実のパーソナルな痛みではなく、思春期の少女が持つ普遍的な深淵なのである。少なくとも私にはそう感じられる。この普遍性こそ荒井由実が一流のアーティストである証明である。この時荒井由実18歳。才能とは恐ろしい。
このような私の印象が、タイトル・チューンである『ひこうき雲』に大きく影響されていることは自覚している。これは自殺した少女の歌である。
白い坂道が空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり
あの子は昇っていく
何もおそれない、そして舞い上がる
空に憧れて
空をかけてゆく
あの子の命はひこうき雲
(「ひこうき雲」荒井由実作詞)
彼女はなぜ自殺したのか、歌の中では説明されない。「あまりにも若すぎたと ただ思うだけ」なのである。
アルバム中には『恋のスーパー・パラシューター』のような、今のユーミンにつながる洒脱なポップソングも含まれているが、基調は『ひこうき雲』的な翳ったセンシビリティである。『空と海の輝きにむけて』『くもり空』『ベルベット・イースター』『雨の街を』のような曲でそれが顕著だが、『きっと言える』のような恋する少女の気持ちを歌ったハッピーな曲ですら、一転して闇にのまれてしまう少女の危うさを漂わせているような、そんな気がしてくるのである。
演奏はティン・パン・アレーで、手堅く渋い演奏を聴かせてくれる。ピアノ、ギター、ベース、すべて乾いた音だ。これが薄曇りの『ひこうき雲』の世界の輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。
ユーミンの歌唱はおなじみのノンビブラートが基本で、独特の声質で淡々と歌うのは今と変わらないが、『曇り空』の、囁くような繊細な歌唱はこの頃でなければ聴けないのではないだろうか。
私はこれを聴いて感動し、やはり評判がいい『COBALT HOUR』を買ったが、このデビューアルバムほどの凄みは感じなかった。彼女のポップセンスがどんどん開花していったのに伴い、このアルバムの、うっすらと血を滲ませているような独特の感触は失われていったらしい。残念なことだ。
私はユーミンはあんまりちゃんと聴いたことがない。日本にいた時はどこへ行っても(特にリゾート地)耳にしたし、そうやって聴いた限りではそれ以上聴き込みたいという気が起きなかったからである。しかし昔ラジオから『あの日に帰りたい』が流れてきた時のインパクトは覚えている。そして、その時の印象と私があちこちで聴くユーミンの曲の印象とは長い間一致しなかった。
ちょっと前に、ふと思いついてユーミンのデビュー作である『ひこうき雲』を買って聴いてみた。まだ荒井由実の名前の頃である。今のユーミンとは違うと聞いたので、おそらくこのアルバムで『あの日に帰りたい』の独特のセンスに再会できると期待したからだ。期待は裏切られなかった。
『ひこうき雲』には、少なくとも私が知っている現在の松任谷由実にはない独特のフィーリングがある。それは寂寥感というか、思春期の少女が持つある種の暗さのようなものだ。内田春菊のマンガに描かれる少女の怖さにも通じる。
当時はまだフォークの全盛期で、ユーミンの登場は非常に衝撃的だったらしい。それは本作を聴けばよく分かる。明らかに異質なのである。新感覚派などと呼ばれたらしいが、かぐや姫やさだまさしを聴いていたリスナーが『ひこうき雲』を聴いた時の衝撃は想像にかたくない。
ユーミンの音楽が持つ都会性や洗練がそれらのフォークと一線を画していたのは言うまでもないが、私が思うにもっと重要なのはこの独特のセンシビリティである。その切実さ、陰影の深さはそれまでのフォークがよりどころとしていた感傷性の比ではなかった。失恋の悲しみを歌うのは当時のフォークも今のJ-POPも常套だが、その悲しみは甘美であり、美しい思い出となっていくノスタルジーをあらかじめ内包している。そこで流される涙は甘い。これが感傷性である。
ところが『ひこうき雲』全篇を覆う荒井由実のセンシビリティは違う。少女らしい感傷性がまったくないとは言わない。けれどここに感じるのは悲しみというより痛み、あるいは苦しみと言う方が正しい気がする。失恋がどうこうでなく、生きることというか、若い少女であることの痛みのようなものを感じる。甘い悲しみではなく、ヒリヒリした痛み。それをユーミンはあの淡々とした声で歌う。痛みや苦しみをことさらにひけらかさない。それはまるで、何を考えているか分からない無表情な少女の内面をふと覗きこむことに似ている。そこで少女は人知れず血を流している。私達はそれを見て衝撃を受けるのだ。
さらに言うと、それは荒井由実のパーソナルな痛みではなく、思春期の少女が持つ普遍的な深淵なのである。少なくとも私にはそう感じられる。この普遍性こそ荒井由実が一流のアーティストである証明である。この時荒井由実18歳。才能とは恐ろしい。
このような私の印象が、タイトル・チューンである『ひこうき雲』に大きく影響されていることは自覚している。これは自殺した少女の歌である。
白い坂道が空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり
あの子は昇っていく
何もおそれない、そして舞い上がる
空に憧れて
空をかけてゆく
あの子の命はひこうき雲
(「ひこうき雲」荒井由実作詞)
彼女はなぜ自殺したのか、歌の中では説明されない。「あまりにも若すぎたと ただ思うだけ」なのである。
アルバム中には『恋のスーパー・パラシューター』のような、今のユーミンにつながる洒脱なポップソングも含まれているが、基調は『ひこうき雲』的な翳ったセンシビリティである。『空と海の輝きにむけて』『くもり空』『ベルベット・イースター』『雨の街を』のような曲でそれが顕著だが、『きっと言える』のような恋する少女の気持ちを歌ったハッピーな曲ですら、一転して闇にのまれてしまう少女の危うさを漂わせているような、そんな気がしてくるのである。
演奏はティン・パン・アレーで、手堅く渋い演奏を聴かせてくれる。ピアノ、ギター、ベース、すべて乾いた音だ。これが薄曇りの『ひこうき雲』の世界の輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。
ユーミンの歌唱はおなじみのノンビブラートが基本で、独特の声質で淡々と歌うのは今と変わらないが、『曇り空』の、囁くような繊細な歌唱はこの頃でなければ聴けないのではないだろうか。
私はこれを聴いて感動し、やはり評判がいい『COBALT HOUR』を買ったが、このデビューアルバムほどの凄みは感じなかった。彼女のポップセンスがどんどん開花していったのに伴い、このアルバムの、うっすらと血を滲ませているような独特の感触は失われていったらしい。残念なことだ。
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