アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

バートルビーと仲間たち

2016-12-29 21:11:43 | 
『バートルビーの仲間たち』 エンリーケ・ビラ=マタス   ☆☆☆☆☆

 これも10月に日本に帰った時に仕入れてきた本だが、素晴らしく面白かった。訳者あとがきに、アントニオ・タブッキが「この本は面白いよ」と薦めたとあったので買ったのだが、やはりタブッキの推薦は間違いない。バートルビーとはメルヴィルの短篇小説の主人公の名前で、法律事務所で働いているにもかかわらず何を頼んでも「せずにすめばありがたいのですが」といって拒むという不条理な人物である。スペインの作家エンリーケ・ビラ=マタスは書くことを止めた作家たちを本書で扱いながら、書くことを拒否する行為や心理状態を「バートルビー症候群」と呼び、こうした作家たちをバートルビー的人間と呼んでいる。

 そういうわけで、この本は一応フィクションの体裁をとっているものの、いわゆるストーリーを物語るものではない。主人公の「わたし」はやはり若い頃小説を発表したが「その時のトラウマが原因で、作家になる夢を捨てて筆を折り、バートルビーのひとりになった」人間である。必然的に「わたし」はバートルビー的人間に興味を持ち、バートルビー的とみなされる数々の作家について考察やエピソードを書き綴っていく。それが本書である。

 本書に登場するバートルビー症候群の作家たちは、実際に筆を折ったランボー、サリンジャー、ルルフォ等をはじめ、後年まとまった作品を書かなくなったヴァルザー、最初から全然文章を書かなかったソクラテス、ごく限られた著作しか残さなかったヴィトゲンシュタイン、書き続けたが書くことに対し否定的な感情を抱いていたカフカ、後年作家になったが三十六歳までアヘンのせいで何も書けなかったド・クィンシーなど、さまざまな症状を持つ作家群から構成されている。そして作家ではないけれどもやはり絵画を捨てたマルセル・デュシャン、バルトの「どこからはじめるのか?」という一文が気になって書き始められず作家になれなかった無名の友人、想像力がないので作家にならなかったと告白したある文芸評論家、なども取り上げられる。沈黙の作家になるために自ら命を絶った作家も一部出てくるが、「自殺したバートルビーにはあまり興味がない」として、限られたページのみで扱われる。

 さて、バートルビー的作家たちの名前をこうして並べてみると、著者が彼らを否定的にというよりむしろ、作家たちの中でもとりわけ高貴な種族と考えているらしいことは感じ取ってもらえるだろう。実際「わたし」は「バートルビー星座に連なる栄誉」のような書き方で、はっきりと彼らを賛美している場合さえある。つまり創作することに真摯に向き合えば向き合うほど、作品を書かない、あるいは書けない、というバートルビー的態度に最後には辿り着いてしまうという含みがあるのだ。もちろんそこには多義性があり、複雑に入り組んだ問いかけがあるのだが、著者はこのようにして、「書かない」というバートルビー的態度が実は「書く」という創作の根本にかかわる何かであるという問題提起を、さまざまな奇妙なエピソードを連ねながら推し進めていく。

 非常に変わった本である。バートルビー症候群の作家たちはもっと端的に「ノー(否定)の作家」と書かれる場合も多いのだが、際限なく繰り出されるノーの作家のエピソードの中には、そのままボルヘスやチェスタトンの短篇になりそうなものもある。たとえば自分を家具になったと思い込んだ作家志望者、カドゥの場合。彼は熱心な作家志望者だったがある日ゴンブロヴィッチに会い、感激のあまり一言も口をきけなかったことから自分を家具であると感じ、家具はものを書かないからという理由で作家になる夢を諦め、その代わりに絵を描いた。彼の絵はすべて家具が主人公で、どれも「肖像画」という謎めいたタイトルがつけられた。病死したカドゥはまるで邪魔な家具を処分するように埋葬されたが、彼が自ら書いた墓碑銘には次の一文がある。「もっと多くの家具になろうとしたのだが、それは許されずうまくいかなかった。結局一生を通じてひとつの家具でしかなかったのだが、それ以外が沈黙であることを考えると、そのこと自体は決して些細なことではない」

 その他、ブローティガンの出版されなかった手稿のみを集めたブローティガン図書館など、本当なのか嘘なのか分からないような話が次々と繰り出される。アントニオ・タブッキはもちろん筆を折った作家ではないが、タブッキの「今はない或る物語の物語」がバートルビー的作品のひとつとして言及されている。なぜならばこれは「不在の小説」に関する小説であり、いったん書かれたけれども結局海に撒かれた物語について語るものだからである。このパラグラフは次のように締めくくられる。「語り手は携えてきた潜水艦小説を持って断崖の上に立つと、一ページ、また一ページと風に託す、と語り手は語る――――これは幻の本に関するバートルビー芸術の見事な一行である」

 他にバートルビー的作品としてシュオッブ『架空の伝記』中の「ペトロニウス」やホーソンの『ウェイクフォールド』なども挙げられている。それからニューヨークで「わたし」がサリンジャーを見かけた話や、フェルナンド・ペソアの異名について、ヴァルザーの晩年について、筆を折った作家がその理由を聞かれた時に答えるバラエティ豊かなエクスキューズの数々など、色んな話が出てくる。

 個人的にうれしかったのはウルグアイの作家フェリスベルト・エルナンデスの名前が出てきたことで、ラテンアメリカ文学のアンソロジー『美しい溺死人』収録の「水に浮かんだ家」は大好きな短篇である。エルナンデスは筆を折った作家じゃないが、「彼の書いたすべての短編には結びがない、つまり結末のある作品を書くことを拒否した」のだそうで、「終わることのない短編を書き、扼殺された声を作り出し、不在を生み出した」として、バートルビー的作家の一変種として扱われている。

 摩訶不思議な視点から創作の内奥に迫り、書くことの業をアクロバティックにあぶり出しながら、同時にオブジェのような奇想をずらずらと並べて読むものの度肝を抜く。まったくしたたかな書物である。



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