アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

自画像

2014-12-15 23:36:57 | 創作
          自画像


 彼は、シチリア島の寒村に生まれた。19xx年、それはヨーロッパがまだバラ色の未来を夢見ていた頃のことだ。画家の幼年時代はほとんど知られていない。両親をなくした後、ミラノに住む遠い親戚が、市から支給される支度金とともに少年を引き取った。一家は小さな文房具の店を構えて、つましいが実直な生活を送っていた。家にはまだ四十前の夫婦と、彼より年上の男の子が一人、年下の女の子が一人いた。夫婦は彼を学校に通わせたが、少年のおびえようは尋常ではなかった。それまで学校という場所に行ったことがなく、そこでどう振舞えば良いのか分からなかったからだ。やがて慣れ、おびえることもなくなったが、依然として家以外の場所ではほとんど口をきかなかった。夫婦は少年の知能が少し遅れているのかも知れないと考えた。この頃に撮られたモノクロ写真を見ると、写真の中の小柄な少年は弱々しく、よるべなさと不安を滲ませた表情でカメラを見上げている。唇に笑みはない。大きな、透明な光に満たされているように思える目が、見ようによっては美しくなくもない。

 成績は悪く、運動も苦手だった。誰にとっても地味で、目立たない子供だった。必然的に、孤独に慣れ親しむことになった。同じ家で暮らす二人の子供たちとさえろくに口をきかず、一緒に遊ぶことも滅多になかった。活気がなく、どこにいても不幸そうに見えた。この頃の彼はただ生きているだけで、実質何もしていなかったと言っていいだろう。高等学校に上がった頃、一家の父親が彼にスケッチブックと絵筆を与えた。少年はそれらを抱えて森や公園をうろつくようになったが、彼が描く水彩画を誰かが目にする機会はなかった。少年のスケッチを眺めて感想を口にするような人間は、後世の批評家がそれら「ごく初期の習作」を発見して、熱心な研究対象とするまで、誰一人いなかった。やがて彼は学校に行かなくなり、川沿いに小さな下宿を見つけて、家族の誰に断ることもなく、郵便局の助手として働き始めた。家族の方でも連れ戻そうとするでもなく、金を送るわけでもなかった。夫婦は後に、あの子が生活費に困るようなことがあったら援助するつもりだったが、特に問題なくやっているようだったから、と語った。

 まじめで口数の少ない彼の仕事ぶりは、小さな郵便局の中でそれなりに評価された。ただし、孤独癖ゆえに変わり者扱いされるのは、どこへ行っても同じだった。時間があればスケッチブックを抱えて町や森を歩き回り、水彩画を描いたが、やがてその興味は油彩へと移っていった。基本を教わるために、趣味で絵を描いていたラテン語教師の家にしばらく通った。ラテン語教師は、この無口な郵便局員が描く絵には何か不思議な魅力があると考え、絵を画商のメイヤーズのところに持っていくように勧めた。メイヤーズは彼の絵を店に置くことにした。こうして彼の絵は、ぽつりぽつりと売れ始めた。ごく初期の頃から、彼の絵はあの曖昧模糊とした薄曇りの色調と、どこかたどたどしい、しかし迷いのない筆致を特徴としていた。

 数年が経過する間に、郵便局の事務の女性と結婚し、子供が生まれた。あいかわらず絵ばかり描いていたが、彼は自分の人生が空虚だと感じるようになり、そのことに苦しんだ。思い通りの絵が描けないことに絶望し、理論を学んでも、色々な手法を試しても、底なし沼に石を投げるように手ごたえがないことに幻滅した。ある時、ふとした気まぐれで小さな静物画を描き、同僚の婚約者にプレゼントしたが、その時から、急に気持ちが楽になった。自分でも不思議だったが、それまで決して得意ではなかった静物画の連作を描き上げてメイヤーズに見せると、画商はしばらく押し黙ったあとで、こともなげに言った。悪くない、この調子でやってくれ。その一方で、夜ベッドに入って灯りを消す前に、妻に向かって呟いた。ひょっとすると、金鉱を掘り当てたかも知れん。うまくいけば一財産作れる。夫にしては珍しいことを言うものだと妻はいぶかしんだが、その言葉を本気にはしなかった。

 静物画が売れ始めて、彼はとうとう十六の時から勤めていた郵便局の仕事を辞めた。辞めた時の肩書きは、二十年前と同じ助手のままだった。一人息子は十になっていた。ある日、息子を連れて森の中を徘徊していた折、子供が毒蛇に咬まれた。子供は高熱を発し、時折幻覚にうなされながら途切れ途切れに母親の名を呼び、三日後に死んだ。その時から彼の絵は変わった、と批評家たちは言う。色調が暗くなり、不安感とやりきれなさが画面に滲んだ。絵を描くペースも落ちた。メイヤーズは心配して、彼を二ヶ月に一度、欠かさずに開いている自宅の晩餐会に招待した。部屋の隅に呼んで、噛んで含めるように言い聞かせた。いいか、お前の人生はまだこれからなんだ。もっと酒が入ると、これまで誰にも言わずに心の奥に秘めていたことまで打ち明けた。いいか、よく聞け、お前の絵は、いつか美術館に飾られるようになると、おれは思っている。だが、ここで終わったらどうにもならん。いいか、なんとしてでも描き続けるんだ。描き続けるんだ。その言葉通り、彼は描き続けた。ただ、彼の絵がそのまとわりつく宿命的な陰鬱さから抜け出すことは、二度となかった。

 四十四になった時、再び不幸な事故が彼を襲う。石切場を歩いていた彼の背中を、落ちてきた石が直撃したのだ。彼は意識を失い、病院に運ばれた。しばらくするとまた歩けるようになったが、その代償として男性としての機能を失った。翌年、彼の妻は家を出た。薄情な妻だと非難する者もいるが、実際は彼女ほど優しく、寛大で、愛情深い伴侶はいなかった。彼女を追い出したのは彼の体の変化ではなく、心の変化だった。気鬱が激しくなり、自分の殻に閉じこもって誰とも言葉を交わさなくなった。彼は友人に宛てた手紙にこう書いている。ぼくは彼女に手を上げたことは一度もないが、感情的になって手をあげるような男と暮らした方が、まだ彼女は幸せだっただろう。離婚して三年目に、彼は結婚以来住み慣れた家を売り払い、リヴィーニョにある小さなアトリエに移り住んだ。事実上の隠遁生活に入ったと、世間の人々は見なした。

 田舎町では彼の名前は知られていなかったので、無職の、素性の知れない人間として住民から警戒された。彼は静物画も、風景画も、一切描かなくなった。描くのはただ、自画像だけである。それから死ぬまで、彼は自画像以外の絵を一つも描いていない。批評家の言葉を信用するならば、彼の才能が真に花開いたのは、晩年に描かれたこれら一連の自画像シリーズにおいてである。もしこれらの作品が描かれなかったら、彼が世界的な画家として認知されることもなかっただろう。構図はどれも似通っている。独特の曖昧模糊とした筆致が全体を覆い、光と影が一体化して綾をなすような、薄曇りの、灰色がかった色調で統一されている。ところどころにほのめくような光があったとしても、それがどこから射してくるのか定かではない。画家の顔は正面を向いているか、あるいは斜めにかしいでいる。確固たるフォルムが並外れた存在感を主張する一方で、奇妙なことに、画家の視線がどこを向いているかは判然としない。彼がどこを、あるいは何を見ているのかまるで分からず、それが見る者を戸惑わせる。

 五十四歳で病死するまで、彼は十二点の自画像を描いた。そのすべてが、現在はフィレンツェのサン・ロマーノ美術館に収蔵されている。彼の謎めいた晩年について、これまでありとあらゆることが語られてきた。多くは美術評論家や大学教授たちによって、一部はより軽薄な自称文化人たちによって。つまるところ、彼らはただ一つの謎に答えを出そうと努めている。すなわち、彼が晩年、自画像しか描かなくなったのはなぜか。

 その疑問を、私たちはこう言い換えてもいい。自画像しか描かない人間とは、果たしてどのような人間なのか。幸福な人間だろうか、あるいは不幸な人間だろうか。ある人々は言う、彼は晩年、不幸のあまりに引きこもりとなり、その絶対的な孤独の中で狂気に蝕まれていたのだと。彼の人生が耐え難い不幸の連鎖であったことは、誰でも知っている。つまりあれらの自画像は、狂気と絶望のもの狂いの中から生まれてきたものである。また別の人々は言う、孤独と静謐の中で、あの小さくて質素なアトリエの中で、彼はついに安らぎと平穏を見出したのだと。不幸の連鎖を乗り越えて、彼は明鏡止水の境地に達した。そうでなければ、あれほど澄み切った芸術作品を生み出せるはずがない。この人々の主張を信じるならば、数々の自画像は無限の平穏と充足の中から、おそらくは幸福の中から、生まれてきたことになる。

 真実は誰にも分からない。自画像を描くために、彼はいつも等身大の鏡を使っていたが、このビクトリア朝時代の姿見は、彼の所有物としては珍しく高価なものだった。彼の死後、近所の人々がこの偏屈な画家の住居に初めて足を踏み入れた時、ろくに家具らしい家具も置いていない空ろな部屋の中に、この姿見だけがぽつんと残されていたという。彼がその死の前の数年間、この鏡の中に見ていたものが何であったか、そこに何が映っていたのか、それを知るのは物言わぬこの鏡だけだ。

 姿見はその後サン・ロマーノ美術館に買い取られ、十二点の自画像と一緒に、奥まった部屋の中、今もひっそりと展示されている。



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