『やまいだれの歌』 西村賢太 ☆☆☆☆☆
またしても西村賢太の寛多もの。『蠕動で渉れ、汚泥の川を』がとても良かったのでこれはどうかと思ったが、個人的には更に上回る面白さだった。いやー西村賢太は侮れない。
今回は19歳の寛多、横浜の造園会社に勤めるの巻である。江戸っ子としての矜持に強いこだわりを持つ寛多だが、『苦役列車』の事件で自分の生活につくづく嫌気がさしたらしく、新天地を求めて横浜へと引っ越す。そして造園会社で働き始めるが、面接した社長の最初の印象がちょっと難ありだったにもかかわらず、なかなかの居心地の良さに嬉しい驚きを味わう。社長一家の子供がうろちょろしていることや、社員間の連帯感などがアットホームな空気を醸し出して寛多を魅了するのである。
おまけに新居が繁華街から離れているというようなことも幸いし、珍しく堅実な生活を送る寛多。遊興費を節約して、金銭にも余裕が出てきた。新天地でのまき直し作戦大成功である。という具合に、最初は調子よく運ぶんだがだんだん地金が出てドツボにはまる、というのがいつものパターンで、今回もまあその基本路線は変わらない。大きな流れは『蠕動で渉れ、汚泥の川を』と同じである。が、西村賢太において神はディテールに宿る。今回も当然ながらディテールが異なり、何が違うかというとこれはもう、女神登場、これに尽きる。
『蠕動で渉れ、汚泥の川を』でもバイトの女子大生が登場した時に恋の期待で盛り上がったが、すぐに幻滅しクソブス呼ばわりすることになった。が、今回は最初見た時「大したことないな」と思った寛多だったが、その後職場で顔を合わせるたびにテンションが上がり、しまいにはこれ以上の女はいないという「女神」にまで(寛多の中では)昇格してしまう。もはや恋の奴隷である。なんせあの寛多が、彼女の顔を見ることができないという理由で土日がつらく月曜が待ち遠しい、という状態にまでなってしまうのである。これはイタい。
そして今回の爆笑度もここから絶好調となる。寛多は中卒で父親が性犯罪者というハンディキャップから複雑なコンプレックスを抱えてはいるものの、根はプライドが高く、貴族意識が高くできていて、それゆえに寛多は「女神」に接するにあたり、まだ19歳のくせに世の中を知り尽くし陰りを帯びた「ローンウルフ」的ポーズをアピールするのである。その計算はもう、ちょっとした挨拶の「ぶっきらぼうさ」加減から、笑顔を見せる頻度(当然ながらあまり頻度が高くなく、しかし時折意外な爽やかさを感じさせる笑顔を見せてハッとさせることが望ましい)、彼女が耳を傾けているに違いない同僚や先輩との会話のトーンまで、細心の注意を払って隅々まで演技することになる。
そして寛多はちゃんと手ごたえも感じている。つまり、同年代であるという理由で最初から特別な親近感を抱いているに違いない寛多に対し、時折「女神」が見せるはにかみがちな笑顔が、特別な好意の表象でなくてなんだろう。どう控えめに考えても、そこには確かな手ごたえがある。「女神」は必ずや寛多の「中卒」ならではのワイルドな魅力(!?)に惹かれているはずだし、男っぽいぶっきらぼうさとそれに似合わぬ優しい笑顔に心揺らいでいるはずなのだ。こうして、根が「眠れるジゴロ」の寛多のテクによって、「女神」陥落はもはや時間の問題である。
というのはもちろん寛多視点のストーリーであって、読者は寛多の「根が陰りを帯びたローンウルフ」「根が眠れるジゴロ」などの独特の勘違いフレーズの頻出とともに、心ゆくまで爆笑できるエピソードが続出する。しかし、この夢が長く続くはずがない。寛多が一生懸命に「ローンウルフ」を演じているうちに、読者はだんだんと彼を取り巻く空気感が変わりつつあることに気づく。寛多の勘違い言動が顰蹙を買い始めるのである。そして、大瓦解のきっかけとなるのは例によって酒である。「根が臆病者」の寛多は、短気なDV体質でありながら普段は言いたいことを言う度胸もないが、酒が入れば怖いものなしになる。まあここから先は書かないでおくが、とてもじゃないが耐えがたい、小説で読むのすら辛い展開となる。これはたまらんです。今回は恋愛がらみなので、ちょっと寅さんみたいな感じでもある。
まあとりあえず、『蠕動で渉れ、汚泥の川を』よりも更に痛い展開となる。もしこれが本当に起きたことだとしたら、齢四十五十になっても思い出すたびに頭を掻きむしり七転八倒しなければならないほどの恥ずかしさである。この痛みと疚しさと悲しみと自己嫌悪を伴う「恥」の感覚。あたかも人生そのもののメタファーであるかのようなこの恥辱の感覚こそが、西村賢太文学の核心であり醍醐味である。
そして、本書にはもう一つの重要なエピソードがある。寛多と田中英光との出会いである。それまで横溝正史や大藪春彦などのエンタメ小説を好み、純文学を退屈なものとしか思わなかった寛多が、私小説作家・田中英光を「発見」する。この「発見」の衝撃があますところなく、見事な文章で描かれ尽くしているのだ。そのくだりは異様に感動的である。恥辱の底をのたうち回る寛多の苦しみを、田中英光の私小説が救う。砂漠で泉を見つけた旅人のように寛多は貪り読む。こんな文学が存在すると夢にも思わなかった寛多の驚愕。何かに急き立てられるようにしてアパートを出て、熱に浮かされるように田中英光田中英光と呟きながら歩き、ふと立ち止まり、おれは一体何をしていうのか、帰ってまた田中英光を読まねば、と考えてまたアパートへ取って返す。この一連の場面は驚くべき迫力に満ちている。文学が人を救うということを、これほどの実感をもって描いた小説は稀ではないか。
という具合に、この小説は「女神」相手の恥芝居の顛末という悲喜劇と、寛多=西村賢太の私小説開眼という二つの強力なテーマが組み合わさって成立している。後者については、「田中英光」そのものは終盤にならないと登場しないが、序盤から寛多の小説好きはきちんと描かれていて、横溝正史や江戸川乱歩などへの偏愛についても語られれている。小説を読む面白さが活写されているのである。それが終盤になって田中英光の衝撃につながっていくという構成も、なかなかにうまい。
西村賢太渾身の一撃と言っていいだろう。傑作だ。
またしても西村賢太の寛多もの。『蠕動で渉れ、汚泥の川を』がとても良かったのでこれはどうかと思ったが、個人的には更に上回る面白さだった。いやー西村賢太は侮れない。
今回は19歳の寛多、横浜の造園会社に勤めるの巻である。江戸っ子としての矜持に強いこだわりを持つ寛多だが、『苦役列車』の事件で自分の生活につくづく嫌気がさしたらしく、新天地を求めて横浜へと引っ越す。そして造園会社で働き始めるが、面接した社長の最初の印象がちょっと難ありだったにもかかわらず、なかなかの居心地の良さに嬉しい驚きを味わう。社長一家の子供がうろちょろしていることや、社員間の連帯感などがアットホームな空気を醸し出して寛多を魅了するのである。
おまけに新居が繁華街から離れているというようなことも幸いし、珍しく堅実な生活を送る寛多。遊興費を節約して、金銭にも余裕が出てきた。新天地でのまき直し作戦大成功である。という具合に、最初は調子よく運ぶんだがだんだん地金が出てドツボにはまる、というのがいつものパターンで、今回もまあその基本路線は変わらない。大きな流れは『蠕動で渉れ、汚泥の川を』と同じである。が、西村賢太において神はディテールに宿る。今回も当然ながらディテールが異なり、何が違うかというとこれはもう、女神登場、これに尽きる。
『蠕動で渉れ、汚泥の川を』でもバイトの女子大生が登場した時に恋の期待で盛り上がったが、すぐに幻滅しクソブス呼ばわりすることになった。が、今回は最初見た時「大したことないな」と思った寛多だったが、その後職場で顔を合わせるたびにテンションが上がり、しまいにはこれ以上の女はいないという「女神」にまで(寛多の中では)昇格してしまう。もはや恋の奴隷である。なんせあの寛多が、彼女の顔を見ることができないという理由で土日がつらく月曜が待ち遠しい、という状態にまでなってしまうのである。これはイタい。
そして今回の爆笑度もここから絶好調となる。寛多は中卒で父親が性犯罪者というハンディキャップから複雑なコンプレックスを抱えてはいるものの、根はプライドが高く、貴族意識が高くできていて、それゆえに寛多は「女神」に接するにあたり、まだ19歳のくせに世の中を知り尽くし陰りを帯びた「ローンウルフ」的ポーズをアピールするのである。その計算はもう、ちょっとした挨拶の「ぶっきらぼうさ」加減から、笑顔を見せる頻度(当然ながらあまり頻度が高くなく、しかし時折意外な爽やかさを感じさせる笑顔を見せてハッとさせることが望ましい)、彼女が耳を傾けているに違いない同僚や先輩との会話のトーンまで、細心の注意を払って隅々まで演技することになる。
そして寛多はちゃんと手ごたえも感じている。つまり、同年代であるという理由で最初から特別な親近感を抱いているに違いない寛多に対し、時折「女神」が見せるはにかみがちな笑顔が、特別な好意の表象でなくてなんだろう。どう控えめに考えても、そこには確かな手ごたえがある。「女神」は必ずや寛多の「中卒」ならではのワイルドな魅力(!?)に惹かれているはずだし、男っぽいぶっきらぼうさとそれに似合わぬ優しい笑顔に心揺らいでいるはずなのだ。こうして、根が「眠れるジゴロ」の寛多のテクによって、「女神」陥落はもはや時間の問題である。
というのはもちろん寛多視点のストーリーであって、読者は寛多の「根が陰りを帯びたローンウルフ」「根が眠れるジゴロ」などの独特の勘違いフレーズの頻出とともに、心ゆくまで爆笑できるエピソードが続出する。しかし、この夢が長く続くはずがない。寛多が一生懸命に「ローンウルフ」を演じているうちに、読者はだんだんと彼を取り巻く空気感が変わりつつあることに気づく。寛多の勘違い言動が顰蹙を買い始めるのである。そして、大瓦解のきっかけとなるのは例によって酒である。「根が臆病者」の寛多は、短気なDV体質でありながら普段は言いたいことを言う度胸もないが、酒が入れば怖いものなしになる。まあここから先は書かないでおくが、とてもじゃないが耐えがたい、小説で読むのすら辛い展開となる。これはたまらんです。今回は恋愛がらみなので、ちょっと寅さんみたいな感じでもある。
まあとりあえず、『蠕動で渉れ、汚泥の川を』よりも更に痛い展開となる。もしこれが本当に起きたことだとしたら、齢四十五十になっても思い出すたびに頭を掻きむしり七転八倒しなければならないほどの恥ずかしさである。この痛みと疚しさと悲しみと自己嫌悪を伴う「恥」の感覚。あたかも人生そのもののメタファーであるかのようなこの恥辱の感覚こそが、西村賢太文学の核心であり醍醐味である。
そして、本書にはもう一つの重要なエピソードがある。寛多と田中英光との出会いである。それまで横溝正史や大藪春彦などのエンタメ小説を好み、純文学を退屈なものとしか思わなかった寛多が、私小説作家・田中英光を「発見」する。この「発見」の衝撃があますところなく、見事な文章で描かれ尽くしているのだ。そのくだりは異様に感動的である。恥辱の底をのたうち回る寛多の苦しみを、田中英光の私小説が救う。砂漠で泉を見つけた旅人のように寛多は貪り読む。こんな文学が存在すると夢にも思わなかった寛多の驚愕。何かに急き立てられるようにしてアパートを出て、熱に浮かされるように田中英光田中英光と呟きながら歩き、ふと立ち止まり、おれは一体何をしていうのか、帰ってまた田中英光を読まねば、と考えてまたアパートへ取って返す。この一連の場面は驚くべき迫力に満ちている。文学が人を救うということを、これほどの実感をもって描いた小説は稀ではないか。
という具合に、この小説は「女神」相手の恥芝居の顛末という悲喜劇と、寛多=西村賢太の私小説開眼という二つの強力なテーマが組み合わさって成立している。後者については、「田中英光」そのものは終盤にならないと登場しないが、序盤から寛多の小説好きはきちんと描かれていて、横溝正史や江戸川乱歩などへの偏愛についても語られれている。小説を読む面白さが活写されているのである。それが終盤になって田中英光の衝撃につながっていくという構成も、なかなかにうまい。
西村賢太渾身の一撃と言っていいだろう。傑作だ。
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