アブソリュート・エゴ・レビュー

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サンドラの週末

2015-09-10 22:06:23 | 映画
『サンドラの週末』 ジャン・ピエール・ダルデンヌ/リュック・ダルデンヌ監督   ☆☆☆

 iTunesのレンタルで鑑賞。ドキュメンタリー・タッチの映画で、劇伴は一切なし。回想シーンや説明的なフラッシュバックもなし。ひたすらリアリズムに徹したカメラが、一人の女性の土曜、日曜、月曜の三日間を追っていく。スターのオーラをすっかり消したマリオン・コティヤールが、ごく普通の女性労働者サンドラを演じている。

 題材もまたリアルで、ソーラーパネルの工場に勤めるサンドラは病気で長期休暇を取っていたため、復帰したばかりでクビになりそうになる。親しい同僚が上司にかけあってくれて、もし他のスタッフの過半数がボーナスを諦めるならサンドラをクビにしない、という約束を取り付ける。ボーナスをとるかサンドラをとるか。投票は月曜の朝。サンドラは夫に強く言われて、土日の間に同僚たちを訪問して回り、「どうか私に投票してもらえないでしょうか」と頼んで回ることになる。

 いやー、気が滅入る話である。同僚と言っても親しい人ばかりではない。反応は人それぞれだが、全般に迷惑そうである。みんな裕福なわけではなく、家のこと生活のことでボーナスをあてにしているのだ。サンドラと話をする時のきまずそうな雰囲気が実に生々しい。何度も心が折れそうになりながら、時には夫と口論しながら、サンドラは皆を訪問して回る。サンドラの夫はコックをしている。共稼ぎで子供もいる家庭だ。サンドラがクビになったら、アパートの家賃が払えなくなるらしい。

 人によってまるで違う同僚たちの反応が面白い。大抵は「家ではあれもこれも費用がかかるし、うちではどうしてもボーナスが必要なんだ。すまない」というネガティヴな反応だ。「君のクビに投票するんじゃなくて、自分のボーナスをもらうことに投票するんだ」という言い方をする人もいる。「それは私をクビにするということなの」とサンドラが言うと、「それはぼくが決めたことじゃない」

 が、中には「もちろん君に投票するよ。実はオフィスで君をかばわなかったことで、ずっと気がとがめていた。本当にごめん」と泣き出す奴もいる。と思えば、断るのがいやで居留守を使う奴もいる。びっくりしたのは「あらこんにちは。元気~?」と明るく挨拶してハグをして、「月曜は私に投票してほしいの」と頼まれると、「じゃボーナス諦めろっていうの? 無理でしょ」と笑顔で断ってくる女。すご過ぎる。サンドラがっかりして帰ろうとすると、「ねえ、悪く思わないでね~」とまた笑顔で声をかけてくる。ある意味尊敬してしまう。人の感情などこれっぽっちも気にする様子がない。もしかしたら大人物かも知れない。

 その他、「君が休んでいても仕事が回ったということは、会社の効率化からいって人を減らすのはしかたないとは思わないか?」と妙にロジカルに問いかけてくる奴とか、「自分はテンポラリーなので、あなたに投票するとぼくの契約を切られるかも知れない」と心配する奴とか、色んなのがいる。

 さて、投票の結果はいかに? それは映画を観ていただくとして、ちょっとひねった結末にしてある。単純なハッピーエンドでも単純なバッドエンドでもない。

 ところで、こういうドキュメンタリー・タッチでリアルな問題を扱う映画は他にもあるが、主人公の立場に自分を置き換えてみやすいのでつい引き込まれてじっと観てしまう反面、ほとんど再見する気にはなれない。物語としての力が弱い気がする。なぜだろう。もしかすると、ガルシア・マルケスの本の解説で誰かが書いていた「事件の神話化」と関係があるのかも知れない。つまり、ある人がある土地に伝わる伝説の成り立ちを調べたところ、元ネタはほんの数十年前に起きた事件で、関係者はまだ生きていたという。しかし「事件」そのものはなぜかすみやかに忘却され、「事件」が変形した「伝説」が人々の記憶に残り、広まった。どうやら「事件」は「事件」のままでは人々の記憶に憑依する力は持ち得ないらしい。人々の心に残るには、細部がデフォルメされ、抽象化され、「神話化」される必要がある。「事件」のままでは単なるニュースであり、時の試練を経て残っていくことはできない。

 まあそんなような主旨だったが、この映画を見ていて思ったのは、とても巧く作られているけれども、この感覚はテレビのルポ番組を見ている時に近いということだった。つい気になって先を見てしまうが、結果を知ると満足してしまう。新聞記事やニュースに似ている。一過性の情報として消費されてしまう。それはドキュメンタリー・タッチだからというような手法の問題ではなく、リアリズムの捉え方なのだ。ルポルタージュ風のリアリズムは手っ取り早く観客の関心を惹くかも知れないが、おそらく、それだけでは物語の力は生まれない。
 
 それはもしかすると、昼間の現実が無意識のフィルターを通過し、夜見る夢に変形するメカニズムと同じものなのかも知れない。物語のリアリズムとはつまるところ、夢魔のリアリズムなのだろう。夢魔のリアリズムを獲得しなければ、虚構は結局「物語」になることはできないのである。



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