『百鼠』 吉田篤弘 ☆☆★
クラフト・エヴィング商會の物語作家、吉田篤弘の短編集。「一角獣」「百鼠」「到来」の三つが収められている。
短編集といっても、ただ三つ短編を集めたというのではなく、どこか共通するキーワードを持っている。たとえば無数の色調のグレーを意味する言葉「百鼠」、雷、小説における人称、などである。とはいえ、はっきりしたつながりがあるわけでもない。うっすら共通するものがあるという程度だ。共通する登場人物もいない。
「一角獣」は自転車を拾ったモルト氏の話。モルト氏の恋人、その兄、モルト氏の妹、たちが織り成す淡々とした日常描写に、「水面下」という言葉、手相、あるいは名刺の世界(モルト氏はかつて名刺屋だった)などが織り込まれている。「百鼠」は一番ファンタジー的で、天上世界にいる朗読鼠たちの話。朗読鼠の仕事は、地上の作家たちが三人称の小説を書く時に、これから書かれるべき物語を朗読する仕事。しかし主人公である朗読鼠イリヤは禁断の一人称小説に興味を抱き、そのせいでトラブルに巻き込まれてしまい、ついには地上に派遣されることになる。「到来」は、小説家の母を持ち、中村屋君とつきあっている「わたし」が12月12日の誕生日に一人でホテルに泊まり、ささやかな冒険を実行する話。ほとんど「わたし」と一人称で書かれているが、最後のパラグラフだけ「彼女」と三人称になる。
この人らしい無国籍な、おとぎ話のような、しゃれた雰囲気はどの短編にもある。しかし、それだけといえばそれだけである。どれも物語性というほどの求心力はなく、淡々とつづられる心象風景と、思いつきめいた言葉の連想(水面下とか名刺とか鼠色とか)だけで成り立っている、と言っても過言ではないだろう。読み終えても、非常に印象が薄い。一番作り込まれた設定の「百鼠」も、物語の序章だけで終わってしまったようなもどかしさが残る。
どれも、何かの「始まり」を描いたもの、という捉え方もできる。いわくいいがたい、ほのかな影のような空気感を出そうという試みなのだろうか。いずれにしろ、私には物足りなかった。これまで読んだ吉田篤弘の小説の中で、一番印象が薄い作品集である。
クラフト・エヴィング商會の物語作家、吉田篤弘の短編集。「一角獣」「百鼠」「到来」の三つが収められている。
短編集といっても、ただ三つ短編を集めたというのではなく、どこか共通するキーワードを持っている。たとえば無数の色調のグレーを意味する言葉「百鼠」、雷、小説における人称、などである。とはいえ、はっきりしたつながりがあるわけでもない。うっすら共通するものがあるという程度だ。共通する登場人物もいない。
「一角獣」は自転車を拾ったモルト氏の話。モルト氏の恋人、その兄、モルト氏の妹、たちが織り成す淡々とした日常描写に、「水面下」という言葉、手相、あるいは名刺の世界(モルト氏はかつて名刺屋だった)などが織り込まれている。「百鼠」は一番ファンタジー的で、天上世界にいる朗読鼠たちの話。朗読鼠の仕事は、地上の作家たちが三人称の小説を書く時に、これから書かれるべき物語を朗読する仕事。しかし主人公である朗読鼠イリヤは禁断の一人称小説に興味を抱き、そのせいでトラブルに巻き込まれてしまい、ついには地上に派遣されることになる。「到来」は、小説家の母を持ち、中村屋君とつきあっている「わたし」が12月12日の誕生日に一人でホテルに泊まり、ささやかな冒険を実行する話。ほとんど「わたし」と一人称で書かれているが、最後のパラグラフだけ「彼女」と三人称になる。
この人らしい無国籍な、おとぎ話のような、しゃれた雰囲気はどの短編にもある。しかし、それだけといえばそれだけである。どれも物語性というほどの求心力はなく、淡々とつづられる心象風景と、思いつきめいた言葉の連想(水面下とか名刺とか鼠色とか)だけで成り立っている、と言っても過言ではないだろう。読み終えても、非常に印象が薄い。一番作り込まれた設定の「百鼠」も、物語の序章だけで終わってしまったようなもどかしさが残る。
どれも、何かの「始まり」を描いたもの、という捉え方もできる。いわくいいがたい、ほのかな影のような空気感を出そうという試みなのだろうか。いずれにしろ、私には物足りなかった。これまで読んだ吉田篤弘の小説の中で、一番印象が薄い作品集である。
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