アブソリュート・エゴ・レビュー

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ル・アーヴルの靴みがき

2013-03-26 15:16:15 | 映画
『ル・アーヴルの靴みがき』 アキ・カウリスマキ監督   ☆☆☆☆★

 カウリスマキの最新作を日本版ブルーレイで観賞。やはりブルーレイで観るカウリスマキは美麗だ。映像がホント美しい。

 本作はどうやらカウリスマキ最大のヒットとなったらしく、最高傑作という声も上がっている。ストーリーが一般受けしやすいということもあるだろう。ブラックでアイロニカルな映画も撮るカウリスマキだが、本作のストーリーはこれまでになく暖かい、善意に溢れたものであり、これ以上ないほどのハッピーエンドを迎える。『街のあかり』とはえらい違いだ。映像の美しさはいつも通りだが、港町ル・アーブルの光景はいつもより陽光に溢れていて明るく、カラフルで、印象派の絵みたいである。そういう意味で本作がウケるの分かるし、私も大好きだけれども、あえて比較するならば、物語の豊穣さにおいて『過去のない男』の方に軍配を上げたい。あくまで個人的な評価である。

 さて、そのありえないほどの善意と幸運を描いた『ル・アーヴルの靴みがき』、あらすじはこんな感じ。港町ル・アーブルで靴磨きをするマルセルは妻アルレッティと二人で、つつましく暮らしている。ある日体の具合を悪くして病院に運び込まれたアルレッティは、医者から死病の宣告を受ける。彼女は医者に、その事実を夫に言わないように頼む。一方、この港町に密航者を運ぶ船が辿り着き、一人の少年が警察の目をかいくぐって逃げ出す。この少年イドリッサと偶然出会ったマルセルは、少年を自分の家に匿う。そしてロンドンに行きたいというイドリッサの願いをかなえるため、近所の人々と一緒になって奔走する。しかしイドリッサの行方を追うモネ警視がマルセルの身辺に出没するようになる。果たしてマルセルとご近所の仲間達は、イドリッサをロンドンに送り届けることができるのか? そしてアルレッティの運命は?

 いつものカウリスマキ・タッチは本作でも存分に発揮されており、マルセルと近所の人々のやり取り、マルセルとアルレッティのやりとり、みんなでイドリッサのために開く慈善コンサート(じいさんロッカーの熱演がダサかっこいい)、などカウリスマキらしい描写と空気感に溢れている。しかしこの映画最大のポイントは、やはり結末に訪れる二つの「ほんまでっか!?」な救いだろう。ネタバレしないよう詳しくは書かないが、あまりにもあっけない、カウリスマキらしいすっとぼけた救いが訪れる。

 それにしても、なぜカウリスマキがこれをやっても「ご都合主義」と非難されないのか、をちょっと考えてみたい。私は新聞の映画評や個人のブログなど色々読んでみたが、これを「ご都合主義」「安直」と非難するレビューは一つも見つけることができず、それどころかみんな「奇跡のハッピーエンド」と賞賛している。なぜか。たとえば『ダークナイト・ライジズ』では、ブルース・ウェインの脚があんなに簡単に治るなんてご都合主義だ、みたいな批判があって、しまいには脚本がいい加減だと非難轟々だったのに、である。そんなこと言ったら、本作のラストはどうなるか。これは不公平なのではないか。

 こっちは緻密な伏線が引かれているから説得力がある、ということはない。伏線などないし、説明すらないんである。他がしっかりしているからこんな大技を使って許される、なんて嘘はやめよう。この映画だってアラを探せば、マルセルが役所の係員に「自分はアルビノの兄弟で弁護士だ」なんて言っても通じるわけない、アルレッティが重病人のくせに病室でタバコを吸えるわけない、コンサートのポスターは誰が金払って作ったのか、などいくらでもケチをつけられる。ダークナイトの脚本をご都合主義で駄目だと言った人は、この映画は同じくご都合主義ではないのか、そうでないとしたらなぜなのか、をちゃんと説明する義務があると思う(一応、ノーラン監督に対して)。

 私は、細部のリアリズムが正確でないから駄目だ、という映画の批判のしかたにはいささか懐疑的で、別にダークナイトがそれゆえに駄目だったとも、特には思わない(逆に優れていたとも思わない)。本作はその注釈として挙げるにはいい例だと思う。これを傑作というならば認めなくていけないのは、問題はいわゆる「リアリズム」ではないということだ。映画は夢の機械であり、そこは夢魔のリアリズムが支配する領域であり、いわゆる「リアリズム」、即ち糞リアリズムは必須ではない(あってはいけない、ということでもない)。では、いかにして夢魔のリアリズムは達成されるのか? これは各作品各様で一概には言えないが、重要なのは夢魔のリアリズムとて一貫したトーンは欠かせない、ということだ。

 小説の「本当らしさ」についてクンデラがどこかで書いていたと思うが、小説の作者と読者は冒頭のパラグラフで契約を結ぶ、そして以後作者はその契約に基づいてストーリーを語らねばならない。もし後になって契約を破ったら、読者はただちに夢から覚めて作者を非難するだろう。まあ大体こんな感じのことだったが、ここで言う「契約」がリアリズムに関わるルールである。そのルールは決して堅苦しいものである必要はなく、驚くほど柔軟であり得る(まあ読者にもよるが)。遠い未来が舞台でもいいし、火星が舞台でもいい。竜が飛び一角獣が出てきてもいいし、人間が朝目覚めたら虫に変身してもいい、死人が出てきて生者と会話してもいい。唯一禁じられているのは、一度合意したルールを破ることである。トーンの一貫性とはそういうことであり、これは小説も映画も同じだと思う。

 要するに冒頭「ここでは私たちの世界と同じ物理法則(または人間心理の法則)が適用されます」と宣言したら、それに反することはもうできなくなる。ところがカウリスマキの映画では冒頭からアイロニー、アンチ・リアリズム、デフォルメ等が堂々と、支配的な手法として呈示される。最初のシーン、あのノワール風殺人の見事なオフビート性を見よ。そしてこのトーンの見事な一貫性において、誰もカウリスマキ映画に文句をつけることはできないだろう。あのあっけないような、オフビートな「奇跡的なハッピーエンド」はこうして正当化される。ここに魔法がある。

 こせこせした伏線などなくていい、むしろいらない。ずるい、だったらそっちの方が全然楽だからみんなそうすればいいじゃないか、と思うかも知れないが、これが常人には難しい。ピカソやマチスの一筆描きみたいなスケッチと同じことで、無造作に簡単に描いているように見えるかも知れないが、並の人間がそれを真似してもとても観賞に耐えるものにはならない。だからこそ大半の作家はリアリズムの力を借りて、虚構に説得力を持たせようとするのである。

 というのが私がこの結末を観てぼんやり考えたことだけれども、つまり逆説的に、もはやカウリスマキのスタイルは何をやっても許される次元に達しているんだなあ、ということを感心させられた『ル・アーヴルの靴みがき』でありました。


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2 コメント

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Unknown (折戸洋)
2013-04-03 12:33:43
最近潰れたレンタル・ビデオ屋から偶然カウリスマキの作品をいろいろ仕入れてきたので、このレビューを読んで期待が高まりました。わくわくするな~♪
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カウリスマキ (ego_dance)
2013-04-04 11:28:48
すでにご存知かも知れませんが、カウリスマキはハマるとツボにきますよ。いつの間にか至福の世界に連れ去られます。
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