『ピアニスト』 ミヒャエル・ハネケ監督 ☆☆☆★
ハネケ監督の『ハッピーエンド』がとても好きで繰り返し観ているので、iTunesで2001年公開の『ピアニスト』を観てみた。
私が最初にハネケ監督の名前を知ったのは、『ファニーゲーム』みたいな観客にとって不快な映画を撮る監督としてだった。その後『アムール』を観てこの人は本物の芸術家だと直感し、リスペクトするようになったわけだが、不快な映画はなるべく観ない主義の私はいまだに『ファニーゲーム』を観ていない。従ってこの『ピアニスト』にもそれなりの警戒感を抱きつつ、まあ好きなイザベル・ユペール主演だしなあ、ということで鑑賞した。
結果的には、これもある意味、かなり不快な映画ではあった。いつものことながらハネケ監督の描写には容赦というものがない。この映画は要するに厳格なピアノ教師エリカ(イザベル・ユペール)が実はメッチャ変態であり、自分を慕ってくる青年に対してまともな女性としての行動がとれず、潔癖症的に拒絶したかと思えば手淫したり、無理やりフェラチオしたかと思えば嘔吐したり、SMやレイプを要求したりして人間関係グチャグチャになる、という話である。エリカは母親の束縛によってそれまでの人生に男性との接触がなく、そのせいでこうなったということのようだが、映画の前半でエリカは一人で覗き部屋に行って、ゴミ箱から精液のついたティッシュを拾って匂いを嗅いでうっとりしたり、バスルームで剃刀を使って自傷行為をしたりする。
ハネケ監督の描写はきわめて冷静かつ抑制的で、こういう場面もこれ見よがしでもこけおどしでもなく、ドキュメンタリーのように淡々と見せられるのでグロとまでは思わないが、やはり観ていて生理的に不快だ。そういうのが苦手な人にとってはキツイ映画だろう。その他、エリカは夜の駐車場に行って恋人たちの性行為を覗いたり、自分を慕う青年が他の女生徒に優しくするとその生徒のコートにガラスの破片を入れてケガさせたりする。その一方で、青年に真正面から求愛されると突き放す。もうムチャクチャである。
それにしても、この映画は一体何をいいたいのだろうか? 異常な性愛嗜好を持つ女性が男性と愛し合おうと自分なりに努力し、無残に失敗する物語だろうか? しかし彼女の異常は性的嗜好にとどまらず、自分の教え子に平然とケガさせるなどサイコパス的振る舞いにまで及んでいる。そうすると、これはエリカという歪んだ現代女性の肖像を描き出す試み、特に性的側面にウェイトを置いた試みだろうか。
少なくとも「異常性」が大きく取り扱われるこの映画では、「正常」「異常」の境界線が問われている、とする解釈がある。つまり、何が正常で何が異常なのか。エリカを異常だと見なす私たちは本当に正常と言えるのか、という問いかけがテーマという意見だ。しかし、率直に言ってこれは現代においては陳腐な問いであり、私にはさほど興味が持てない。「正常」「異常」の明確な境界線などなく、「正常」とは異常の度合いが低い人のことであり、「異常」とは異常の度合いが高い人のことである。それだけのことだ。つまり「正常」とは単にマジョリティの傾向を意味し、そこから外れたものを便宜上「異常」と呼んでいるに過ぎない。そもそも絶対的な「異常性」なんてものはなく、単なる言葉の使い方でしかない。誰だって正常な部分と異常な部分があり、その割合は人によってまちまちである。今の世の中、こんなことはもう当たり前の常識だ。
仮にそれがハネケ監督の言いたいことだったとしたら、エリカをもっと正常と異常のギリギリ境界線に立つキャラに設定したのではないかと思う。「正常」とも「異常」ともつかないキャラ。が、本作のエリカは極端である。彼女の自傷行為やマゾ願望を見て、私にもこんな隠れた欲望があるかも、みたいに思う人はあまりいないだろう。私も含めたほとんどの観客はエリカの行動を見て、何を考えてるんだこの女は、と茫然とするのではないだろうか。そのことからも、私にはハネケ監督が「正常と異常の境界線」なんて陳腐で些末なことを問題にしているとは思えない。おそらく、彼は堂々と異常性の極北を見つめ、その驚異を描いているのだ。
いや、私はエリカの気持ちが分かる、自分の中にエリカがいるのを感じる、という人はもちろん、そういう観方をすれば良い。但し、そういうごく少数の人だけに分かるように作られた映画には普遍性がないことになり、つまり、芸術作品としては二流ということになる。この映画が傑作かどうかは保留するとしても、そういう意味での二流作品ではないと思う。
さて、私見ではエリカのマーベラスな変態性をひとつの「驚異」として、言葉を変えればとてもアイロニカルな「ポエジー」として描き出したこの映画は、技術面においてきわめて巧緻かつ辛辣であることは間違いない。ハネケ監督の演出や映像はいつものように冷たく鋭利であり、またそれ以上に刺激的かつ独創的である。エリカは音楽の都ウィーンに住むピアノ教師で、教室での彼女の顔は厳格でアカデミックな美人ピアニストのそれである。ハネケ監督作品のならいとしてこの映画にも音楽の演奏シーンが多数出てくるが、バッハやシューベルトが奏でられるそれらのシークエンスはきわめて気品に満ちている。能面のように端正なエリカの顔は、それらすべてのアカデミックかつ優美なるものの象徴の如くで、そのエリカが端正な無表情のまま次々と変態行為を犯していく姿は、観客に異様な衝撃を与えずにはおかない。
加えて、ラストシーンではじめて、エリカの端正な顔が大きく歪む。この一瞬のショットが観客にもたらす効果は爆発的と言うにふさわしい。閃光爆弾の炸裂のようだ。ハネケ監督の狙いすました一撃は、過たずに観客すべての神経中枢に突き刺さる。そしてエリカがコンサートホールからスタスタと歩み去る遠景のショット、その直後に流れ始める無音のエンド・クレジット。まったく素晴らしいエンディングで、ハネケ監督の構成力と演出の冴え、そして編集における運動神経はこの映画でも見事な効果を上げている。
それにしても、この映画の演奏シーンではどれも出演者が本当に演奏しているように見えるが、あれはどうなってるのだろう。本当に演奏しているのだろうか、それとも何らかの方法で合成してあるのだろうか。いずれにしても、そういったディテールが、解剖学的に精緻というべき本作のリアリティを支えているのは間違いない。
さて、そのようにテクニック的にはいつも通り申し分のない本作であるが、映画としては当然ながら、かなり観る者を選ぶ映画である。不快なシーンが多いし、主人公エリカへの感情移入性も著しく低い。じゃあエリカじゃなく相手の青年ワルターに共感できるかというと、それも難しい。終盤のレイプ・シーンなど非常に不快で、あれでこの青年に対する感情移入はほとんど不可能になる。登場人物にどれだけ共感できるかが良い映画の条件だ、と考える観客にとって、本作はほとんど理解不能な映画だろうと思う。
私自身は、あえてこの言葉を使わせてもらうが、エリカという「異常」な女性の肖像は興味深かったし、その行動はセンス・オブ・ワンダーのかたまりのようで、ある意味ダークな詩情を生み出していると言えないこともないが、映像作品として見ると色々と戸惑いを感じるところも多かった。これは映画よりむしろ、小説向きの題材だったんじゃないかと思う。レアージュ『O嬢の物語』やジャン・ド・ベール『イマージュ』のような、あるいはサドやマンディアルグのような暗黒エロティック小説の系譜に連なる現代官能小説として書かれていれば、暗い美と戦慄に満ちた小説になっていたような気がする。
ハネケ監督の『ハッピーエンド』がとても好きで繰り返し観ているので、iTunesで2001年公開の『ピアニスト』を観てみた。
私が最初にハネケ監督の名前を知ったのは、『ファニーゲーム』みたいな観客にとって不快な映画を撮る監督としてだった。その後『アムール』を観てこの人は本物の芸術家だと直感し、リスペクトするようになったわけだが、不快な映画はなるべく観ない主義の私はいまだに『ファニーゲーム』を観ていない。従ってこの『ピアニスト』にもそれなりの警戒感を抱きつつ、まあ好きなイザベル・ユペール主演だしなあ、ということで鑑賞した。
結果的には、これもある意味、かなり不快な映画ではあった。いつものことながらハネケ監督の描写には容赦というものがない。この映画は要するに厳格なピアノ教師エリカ(イザベル・ユペール)が実はメッチャ変態であり、自分を慕ってくる青年に対してまともな女性としての行動がとれず、潔癖症的に拒絶したかと思えば手淫したり、無理やりフェラチオしたかと思えば嘔吐したり、SMやレイプを要求したりして人間関係グチャグチャになる、という話である。エリカは母親の束縛によってそれまでの人生に男性との接触がなく、そのせいでこうなったということのようだが、映画の前半でエリカは一人で覗き部屋に行って、ゴミ箱から精液のついたティッシュを拾って匂いを嗅いでうっとりしたり、バスルームで剃刀を使って自傷行為をしたりする。
ハネケ監督の描写はきわめて冷静かつ抑制的で、こういう場面もこれ見よがしでもこけおどしでもなく、ドキュメンタリーのように淡々と見せられるのでグロとまでは思わないが、やはり観ていて生理的に不快だ。そういうのが苦手な人にとってはキツイ映画だろう。その他、エリカは夜の駐車場に行って恋人たちの性行為を覗いたり、自分を慕う青年が他の女生徒に優しくするとその生徒のコートにガラスの破片を入れてケガさせたりする。その一方で、青年に真正面から求愛されると突き放す。もうムチャクチャである。
それにしても、この映画は一体何をいいたいのだろうか? 異常な性愛嗜好を持つ女性が男性と愛し合おうと自分なりに努力し、無残に失敗する物語だろうか? しかし彼女の異常は性的嗜好にとどまらず、自分の教え子に平然とケガさせるなどサイコパス的振る舞いにまで及んでいる。そうすると、これはエリカという歪んだ現代女性の肖像を描き出す試み、特に性的側面にウェイトを置いた試みだろうか。
少なくとも「異常性」が大きく取り扱われるこの映画では、「正常」「異常」の境界線が問われている、とする解釈がある。つまり、何が正常で何が異常なのか。エリカを異常だと見なす私たちは本当に正常と言えるのか、という問いかけがテーマという意見だ。しかし、率直に言ってこれは現代においては陳腐な問いであり、私にはさほど興味が持てない。「正常」「異常」の明確な境界線などなく、「正常」とは異常の度合いが低い人のことであり、「異常」とは異常の度合いが高い人のことである。それだけのことだ。つまり「正常」とは単にマジョリティの傾向を意味し、そこから外れたものを便宜上「異常」と呼んでいるに過ぎない。そもそも絶対的な「異常性」なんてものはなく、単なる言葉の使い方でしかない。誰だって正常な部分と異常な部分があり、その割合は人によってまちまちである。今の世の中、こんなことはもう当たり前の常識だ。
仮にそれがハネケ監督の言いたいことだったとしたら、エリカをもっと正常と異常のギリギリ境界線に立つキャラに設定したのではないかと思う。「正常」とも「異常」ともつかないキャラ。が、本作のエリカは極端である。彼女の自傷行為やマゾ願望を見て、私にもこんな隠れた欲望があるかも、みたいに思う人はあまりいないだろう。私も含めたほとんどの観客はエリカの行動を見て、何を考えてるんだこの女は、と茫然とするのではないだろうか。そのことからも、私にはハネケ監督が「正常と異常の境界線」なんて陳腐で些末なことを問題にしているとは思えない。おそらく、彼は堂々と異常性の極北を見つめ、その驚異を描いているのだ。
いや、私はエリカの気持ちが分かる、自分の中にエリカがいるのを感じる、という人はもちろん、そういう観方をすれば良い。但し、そういうごく少数の人だけに分かるように作られた映画には普遍性がないことになり、つまり、芸術作品としては二流ということになる。この映画が傑作かどうかは保留するとしても、そういう意味での二流作品ではないと思う。
さて、私見ではエリカのマーベラスな変態性をひとつの「驚異」として、言葉を変えればとてもアイロニカルな「ポエジー」として描き出したこの映画は、技術面においてきわめて巧緻かつ辛辣であることは間違いない。ハネケ監督の演出や映像はいつものように冷たく鋭利であり、またそれ以上に刺激的かつ独創的である。エリカは音楽の都ウィーンに住むピアノ教師で、教室での彼女の顔は厳格でアカデミックな美人ピアニストのそれである。ハネケ監督作品のならいとしてこの映画にも音楽の演奏シーンが多数出てくるが、バッハやシューベルトが奏でられるそれらのシークエンスはきわめて気品に満ちている。能面のように端正なエリカの顔は、それらすべてのアカデミックかつ優美なるものの象徴の如くで、そのエリカが端正な無表情のまま次々と変態行為を犯していく姿は、観客に異様な衝撃を与えずにはおかない。
加えて、ラストシーンではじめて、エリカの端正な顔が大きく歪む。この一瞬のショットが観客にもたらす効果は爆発的と言うにふさわしい。閃光爆弾の炸裂のようだ。ハネケ監督の狙いすました一撃は、過たずに観客すべての神経中枢に突き刺さる。そしてエリカがコンサートホールからスタスタと歩み去る遠景のショット、その直後に流れ始める無音のエンド・クレジット。まったく素晴らしいエンディングで、ハネケ監督の構成力と演出の冴え、そして編集における運動神経はこの映画でも見事な効果を上げている。
それにしても、この映画の演奏シーンではどれも出演者が本当に演奏しているように見えるが、あれはどうなってるのだろう。本当に演奏しているのだろうか、それとも何らかの方法で合成してあるのだろうか。いずれにしても、そういったディテールが、解剖学的に精緻というべき本作のリアリティを支えているのは間違いない。
さて、そのようにテクニック的にはいつも通り申し分のない本作であるが、映画としては当然ながら、かなり観る者を選ぶ映画である。不快なシーンが多いし、主人公エリカへの感情移入性も著しく低い。じゃあエリカじゃなく相手の青年ワルターに共感できるかというと、それも難しい。終盤のレイプ・シーンなど非常に不快で、あれでこの青年に対する感情移入はほとんど不可能になる。登場人物にどれだけ共感できるかが良い映画の条件だ、と考える観客にとって、本作はほとんど理解不能な映画だろうと思う。
私自身は、あえてこの言葉を使わせてもらうが、エリカという「異常」な女性の肖像は興味深かったし、その行動はセンス・オブ・ワンダーのかたまりのようで、ある意味ダークな詩情を生み出していると言えないこともないが、映像作品として見ると色々と戸惑いを感じるところも多かった。これは映画よりむしろ、小説向きの題材だったんじゃないかと思う。レアージュ『O嬢の物語』やジャン・ド・ベール『イマージュ』のような、あるいはサドやマンディアルグのような暗黒エロティック小説の系譜に連なる現代官能小説として書かれていれば、暗い美と戦慄に満ちた小説になっていたような気がする。
素晴らしい考察でした。ありがとうございます。
あと『ファニーゲーム』もお勧めですよ。ハネケ好きなら見て損は無いかと思います。
『ファニーゲーム』は、現代の映画が余りにも「暴力」というものを「娯楽」化してしまったことへのアンチテーゼとして作ったらしいです。
観客を胸糞悪くさせるために作られたのではなく、暴力というものは本来不快なものであるということを気付かせるために撮ったとインタビューで監督が言っていました。
非常に批評的であり、メタ的な映画です。
ホラー映画のパロディをやりながら、ホラー映画や暴力映画への強烈な皮肉をしているんですね。
が結局、ホラー映画や暴力映画ファンの心を鷲づかみにしてカルト扱いされているという変な映画でもあります。
それから楽器演奏の件、やはりそうですか。まさか楽器演奏が出来る役者をキャスティングしたのかな、などと思ったりしましたが、練習させたとは。でもやっぱりあの演奏場面があるのとないのとでは、映画の印象がまるで違って来ると思います。
ところでダデブさんの方が映画も小説も私よりずっとお詳しい気がしますが、そんな私のブログがご参考になっているのであれば大変光栄です。今後ともよろしくお願いします。
『ピアニスト』はオーストリアのノーベル文学賞作家エルフリーデ・イェリネクの自伝的小説を元にした映画で、私も小説ありきの映画だと感じました。
イェリネクがノーベル賞を受賞したとき、選考委員が「不愉快なポルノグラフィ」と会員を脱退したくらい過激な作家です。
あと演奏は役者に何ヶ月も練習させて実際にしているそうです。
いつもブログを陰ながら楽しみにしております。読みたい本や観たい映画をここで探すのが喜びです。