崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「戦禍が生む人間の狂気」

2012年08月16日 05時31分20秒 | エッセイ
 昨日の終戦記念日には日韓両国におけるメディアでは戦争一色のような話題が豊富であった。私は元読売新聞西本社福岡記者の南氏によるインタビューの第二回目で朝鮮戦争の話を詳しく語る中「毎日新聞」全国版夕刊が届いた。そこには下関支局の西嶋正法記者が「戦禍が生む人間の狂気」という見出しで4段記事『樺太・瑞穂村の悲劇』を大きく報道したのが目に留まり驚いた。私がサハリン調査が一段落して下関に住むようになって間もない内に在日朝鮮人の徐満洙氏がロシア語を専門とし、ロシア文学の知識豊富な人と知って読みたかったロシア語の本書の翻訳を頼んだ。彼が筆記したものを私がコンピューターに打ち込み始め、また友人のロシア地域研究の一人者の井上紘一氏の協力を得て、5年も掛かって日韓共同出版でようやく出たものである。嬉しい限りである。
 先日モスクワラジオで紹介され日本でもこのように評価されたが、朝鮮民族の虐殺問題から普遍的な人間性を問う作品であるのに今のところ韓国や在日からは反応がない。事実を事実として客観的に観ることは大事であるが、小さいものを大きく見ること、見えないものを見る価値観と知恵が必要である。西嶋氏の記事を読みながら小さいものに焦点を当てて深い意味を探してくれたことを強く感じた。

勝戦、敗戦、解放

2012年08月15日 05時03分17秒 | エッセイ
 今日は8月15日、連合軍の勝戦、日本の敗戦、韓国の解放の記念日である。日韓両国において戦争と終戦はまだ完全に克服していない。李明博大統領の竹島訪問とオリンピック選手の「独島は我が領土」のプラカードの輕挙妄動で、日本の対応も靖国と裁判提唱など友好関係が悪くなっている。終戦67年になってもその近い歴史から完全に解放されていない。終戦直後韓国では「解放の記念日」であったのを「解放」が消極的であるということで「光復節」に改名した。私は以前本欄で触れたように解放liberationの意味を重く考えている。それは日本も同様であろう。戦争と敗戦を記念するのは構わないが、被害国のイメージを創出したり日米、日韓の関係に政策的に持ちこむことをしないのが歴史からの解放である。
 過去日韓関係における友好な時期においても、この近い歴史で周知のように危うくなったことが多い。しかし今日韓のパイプはかなり太くなっている。日韓における家族関係や企業などで移住、混合している人口は多い。韓国にも日本にも日韓関係の破壊を恐れている人は多い。韓流、和流が日韓友好関係を支えている。この日に加害、被害の意識から完全に解放されることを願う。「解放」とは自然な人間になることを意味する。

親から種が落ちて

2012年08月14日 05時47分40秒 | エッセイ
雨が心配の中関門海峡花火大会が夏の夜空を光彩った。画伯堀研氏夫婦と娘家族の5人、人類学者鵜澤和宏氏家族4人、小児科医師の倉光誠氏夫婦と我が家族の計13人と犬一匹が歓声を上げながら観覧した。特に子供たちの先声で親たちが加勢する歓声で盛り上がった。閃光と爆音の花火に続いて深夜には稲妻と雷に起こされた。稲妻と雷の場面も映画などでも良く活用されるように美しいはずであるが、恐怖の対象にしかなっていない。被害者を考えると稲妻と花火は比べにくい。昨夜の花火の中には数回照明弾のようなものが発砲されて、我がマンションから発砲台や街の一部が見えた。朝鮮戦争の時数回観たもの、必ず爆撃が行われたことを思い出した。
 花火の後芸術論グループと愛犬ミミちゃんと遊ぶ子供グループに分かれて賑やかだった。鵜澤氏の骨の研究から、骨格から描く美術、彫刻へ、墓、医療、宗教へ、そして韓国巨文島出身の堀家の話し、植民地と戦後に関する数多くの話題が議論された。特に我が家所蔵の堀まどか氏の1986年小学校6年生の時巨文島への旅行記が張本人を前にして大きく話題になった。優秀な学者の道がその時すでに決まっていたような気がした。それを見る彼女の目から花火の閃光のような光が発散された。子供たちを見ながら親から種が落ちて芽生えていく人類史を通観するようであった。
 

ロンドンからの通信「不思議な縁」

2012年08月13日 05時21分57秒 | エッセイ
 私が広島大学で教鞭を執っていた頃に、受講した学生で今は経歴豊富なキャリアウーマンであろう、女性からメールが届いた。彼女はその後、イギリス留学、国際結婚をしてロンドンに在住の方である。インターネットで色んな情報を検索しているときに、私のブログに目が留まって懐かしく思ってメールをくださったとのことである。彼女は日本侵略・植民地と戦争和解などに関心があるという。
 このロンドンからの通信に私は嬉しく即答して来週会うことにした。彼女が留学したリーズ大学に私は数年前訪ねて行って、アフリカ植民地研究者のJim House教授と談話し、案内していただいたことを思い出す。接点が多く不思議な縁とも言える。House教授から予備知識を得て、ブリストルの植民地博物館見学、アイルランド調査を行い、論文を書いたが共同研究は実現できていない。彼女とは全くそれとは関わりはないが偶然の一致のように植民地研究に続いている。彼女の今後の研究を期待している。私は多くの国へ行ったが、観光よりは人に会うことを目的とした。それらの旅行は決して時間の浪費ではなかった。(写真は私の生け花小品)
 


国民と民族

2012年08月12日 05時07分32秒 | エッセイ
 オリンピックでは国民、民族、人種などがクローズアップされている。人種的には西洋やアフリカなど長身者が有利なスポーツが多く、日本人や韓国人は不利であったのは事実である。しかし今度のオリンピックではそのハードルを超えている。昨夜日韓女子バレーボール「日韓戦」は日本が勝った。金メダリスト順位でも終半の現在中国が2位、韓国が5位、日本が11位になっている。スポーツにおいて人種より国民国家力の対決であることを痛感する。しかし国籍要件では出戦できなかった人が他の国籍を取って出るような傾向が出ている。数日前会った中国人は中国の国家選手ではなくとも世界には中国系、つまり中華民族が多くオリンピックに参加しているというのを聞いて中華思想を感じた。それらは国民を超えて「民族」意識が強くなったという意味でろうと思った。
 スポーツなどではある個人とは関係がないのに民族、国家を強く意識するのはなぜであろうか。民族愛か、愛国心であろうか。昨日も触れたように竹島が日韓関係の摩擦になっている。韓国のオリンピック選手が「独島は我が領土」とネット上書いたことがオリンピック精神を犯すことになるのではないかと検討中であるという。領土問題の専門家でもない人が領土を主張する根拠は何だろう。ただその国の国民であるからであろう。政治も国民感情で動かされている部分が多くある。政治は哲学者がすべきだというプラトン時代からあまりにも遠過ぎている。

軽卒な大統領

2012年08月11日 04時36分42秒 | エッセイ
オリンピックの日韓サッカーゲームを見ながら韓国側のシュートの上手さと李明博大統領のシュート(竹島訪問)が対照的に思える。日韓領有権の敏感さをサプライズとしたのは軽卒であろう。ここ10年余、日韓関係が安定的に友好的であるのを壊すような行動である。日本はそのシュートに事後対策のディフェンスの非難の空論を続けるだろう。人気のない大統領の業績作りとか、「政治利用」、反日的な内政とか、評論家たちの話題のトピックになるだろう。外交の太いパイプをもって事前協議をすることが重要である。
 しかし以前とは違って一般民衆は政治戦略にそれほど揺れないように友好の堅い基盤を築いている。韓流ブームのように韓国でも日本文化が好きな層が厚い。ただ韓国は反日思想が深く、善し悪し含めて政治にも影響しているから場合によっては危険な要因になりうる。金大中大統領の偉大さと李大統領の軽卒さがもっと問題である。

私の人生に劇的変化

2012年08月10日 05時47分31秒 | エッセイ
 昨日は午前中日本キリスト教団牧師の鈴木先生の訪問を受け、キリスト教へ入信した時の話をした後に、出版関係の二人と長時間鼎談をした。元読売新聞下関支局長は私が下関に来てすぐの頃、会って以来の旧友のような南さんと出版社の別府社長と私の生い立ちから話が始まり、色々な波瀾萬丈な話をした。彼らは私の話から劇的なところを浮き彫りにしてくれた。農村生まれの母の民間信仰であったシャーマニズムを迷信と思いながら脱皮しようとしている、文学少年、青春時代の肺結核病からキリスト教へ、結核が治っても残影によって徴兵を延期、しかし陸軍士官学校の教官へ、文化公報部へ、日本留学と文化人類学、韓国へ帰国して日本研究へ、植民地研究へなど大きい筋道を語った。聞いてくれるだけ感謝である。これから読んでくれる読者がいるということで頑張りたくなった。
 あまり意識していなかったことを思い出し、自分の人生に劇的な変化が繰り返し起こったことを改めて感じた。おそらく誰しもその劇的な要素を持っているはずである。話をしてみると小説の主人公にでもなったような気持である。このインタビューは数回続くだろう。語り部的ではなく、自然に人生を語りたい。そして語ったことがもう一つのエッセー集と同時に発行されることを心から願っている。
 


港口に見送り

2012年08月09日 05時28分09秒 | エッセイ
 下関の韓国教育院長を歴任して現在韓国で小中高校の総合校長をしている李永松先生が学生を引率して旅程を終え帰国する港口に家内と見送りに行った。下関において先生夫婦とは頻繁に会い、多くの文化活動をともにした。その後も我が夫婦が韓国へ訪問し、日本での娘さんの結婚式に参加するなど家族ぐるみで付き合っている。私だけではなく、山口などに多くの人が彼とさまざまな人間関係を結んでいる。昨日港でも小野田から見送りに来られた4人の女性と会って、我が夫婦も加わって懐かしく談話した。先生のハングルクラスの学生であったと、いわば韓流グループである。夏休みの修学旅行のような韓国人学生たちが待合室で騒いでいて、コーナーで我らも騒音に負けないように大きな声で話をした。
 今は昔、港では離別する恋人たちの目の周りを赤くしている場面を多く目撃したが、いまは時代が変わったのか、感情が枯れたのか、…。下関は100年以上関釜連絡船で大陸への玄関口であったが、戦後福岡に飛行場ができ、人を吸収してしまって下関は閑散な港町になっている。しかも福岡市などはアジア向けの玄関口へ、アジア文化賞、観光客引きへなど積極的な政策を取り、繁栄している。下関は保守的な山口県として東京への政治への関心を持ち廃れていく道を辿っている。下関では別離の愛情を保ってほしい。

広島大学で集中講義を終えて

2012年08月08日 06時16分10秒 | エッセイ
今度の集中講義ではほぼ広大の校内で宿食をした。昨日平日火曜日にはオプーンキャンパスで駐車場毎に大型バス、市内バスなどが満員、交通整理など混雑していた。私が在職中には見学などはあっても学生募集にこれほどのお祭り風の行事はなかった。国立大学も宣伝募集するようになった。学生は減っているという。学生が減ることによって戦前の小人数エリート教育とは逆に質が低い小人数になるのではないかと心配である。極端に言うと将来この調子で学生が減っていくと特殊教育に過ぎなくなるかもしれない。大型大学はビジョンを以て小人数教育の先取りをすべきであろう。人口減少と戦っていくより先に募集人数を減らして質を保つことである。
 私は講義の質を下げないように「植民地文化論~植民地映像の分析~」の日程を終え、夜帰宅した。初めに映像人類学の<映像分析方法>ではテキスト( J.Monaco)紹介、映像や画像を見て考える講義をした。 1919年オランダ植民地のインドネシアで撮った映像「Toraja」、1925年日本植民地朝鮮でドイツ人が撮った映像「静かな朝の国」そして「愛と誓い」「海の生命線」「北進日本」「朝鮮地方」「志願兵」「朝鮮海峡」「兵隊さん」「虱は怖い」を以て製作の目的は何か。宣伝、宣教、研究、ドキュメンタリー、プロパガンダを検討した。中国人、チベット人、日本人の学生との議論だった。これで私の大学の前期日程は終わった。そして夏の本番、花火大会を迎える。

被曝証言

2012年08月07日 03時31分08秒 | エッセイ
昨日8時15分広島被曝慰霊祭の中継をみた。例年通りに広島市長の「平和宣言」、総理の挨拶などが行われた。続いて多くの被曝証言が流れた。中には私が広島に住んでいた時からなじみのある証言者の顔もあった。広島は被曝をもって「平和都市」と特徴づけていて、メディアは常に関心を持って報道している。私も講義やシンポジウムで触れたことがある。20世紀最大の悲惨な原爆都市が平和都市と宣言されている平和な都市で悲惨な戦争が語られるのは「戦争と平和」が対照的である。生き証人たちの証言を聞きながら自分の人生を振り返ってみる。
 私は10歳頃朝鮮戦争の最中の交戦場で、戦争は怖くて面白く感じた。その体験を語ることが多い。また数回書いたこともある。戦争の面白さを感じたのは私だけではあろうか。極端に言うとオリンピックと戦争は戦うという点ではどう違うか、ということになる。トッフラーは武器と武器の戦いの戦争を想定している。未来戦争は玩具の戦いになるかもしれない。広島被曝は超大型テロ、ジェノサイドであり、悲惨そのものであったが当時世界的にはキノコ雲、黒雲を面白く不思議なものと観た人も多かっただろう。
 戦争の本質を十分議論すべきである。私は当時防空壕に隠れ、死体と残骸の中で暮らしたことを思い出す。少年の私にとっての戦争は飛行機同士の戦い、それから降りる落下傘などは美しくて面白くてたまらなかった。恐怖の中に生き残ったことは奇跡であり、嬉しいことであるが当時私は辛い生活の連続であった。時々嬉しく、面白いこともあった。戦争体験を繰り返し談話しながら自分自身が語り部のようになっていく感がしてしょうがない。立ちかえって当時の事実に戻して考える時がある。いまそれを戒めにして戦争体験を調査し、整理している。被曝証言を聞きながら複雑な思い出が浮かぶ。

原爆記念日と結婚記念日

2012年08月06日 04時15分32秒 | エッセイ
 40年前に日本留学、幸子と会って40年、今日が結婚35周年になる。昨日集中講義のために広島大学にきている。約10年間広島大学にて多くの教職員と学生に親しまれて暮らしたキャンパスを、俄か雨の中、懐かしく往来した。結婚相手として不安な表情をした当時幸子の家族に「幸子を幸せにする」と小さい声でいったが、振り返ってみると私が幸子によって幸せにされてきたと思う。キリスト教会で知り会って教会で結婚式を挙げた、私にとって記念すべきその日が8月6日原爆記念日でもある。そしてその原爆都市の広島、広島大学で長く務めさせていただく幸運に恵まれたのは何の予兆であろう。その大学で定年してから8年間東亜大学に現職を持ちながら毎年集中講義で来れることは感謝である。毎年この時期に集中講義で、家内と記念日らしく祝ったことはほぼない。
 今度の集中講義では「植民地映像をどう観て考えるか」がテーマである。昨日は1919年のオランダ人が撮ったインドネシア「トラジャの死者儀礼」、1924年ドイツウェーバーが撮った「静かな朝の国」、1930年代満州映画協会製作の「迎春花」と最近作の「さよなら李香蘭」などを映像を観賞しながら製作の目的は何であろうかを議論した。また中国四川省からの留学生楊小平さんの博士論文と関連した調査旅行の写真を見せてもらった。私は彼の鹿児島市内や桜島などの戦争記念物や遺跡の写真を見ながら日本はナショナリズムが地域に定着していること、特攻隊さえを記念し、観光化している現状を把握した。私は彼に「戦争と平和の商品化」という本を出すようにと提言した。引き続き今日は映像から観た「戦争と平和」を論じる。

金銀争奪戦

2012年08月05日 05時08分55秒 | エッセイ
 オリンピック映像を楽しく見ている。その楽しさには勝敗、競争、争奪の場面がある。メダルの数も気になる。金、銀、銅のメダル数を比較してみると現在金メダルが韓国の9に対して日本は2、銀メダルは日本が10に対して韓国が3、ある人は銀が金+良という漢字解きまでして日本が優位だと言う。映画賞などでは優位の順位に大賞などがあり、ミスユニバースでは真善美ともなっている。昔学校では優等賞、皆勤賞などがあった。運動会では一等賞などがあった。オリンピックの優勝順位がなぜ金銀銅なのでだろう。金銀銅が鉄器文化を象徴するのだろうか。金銀は貴金属であるが、銅は電線などに使われるものであり、たまには銅像の材料になっている。北朝鮮は金だけ5個である。純金主義のようである。
 金銀銅は第一、第二、第三つまりfirst second thirdの順位より面白い。「なぜ一番か、二番ではだめか」という言葉が有名になったが、順位を構わず真面目さを強調する意味深いことである。日本は「第二の経済大国」の地位を中国に譲らなければならなかった。今は鎖国の時代ではなく、世界がつながっているシステムのなかで国際的な協力と競争と争奪は避けられない。金銀の争奪戦のようなオリンピックは善し悪しはあるが、健全な国際化にも貢献している。映像から目が離れない。 
国名 金 銀 銅 計
1 米国 26 11 15 52
2 中国 25 16 12 53
3 英国 13 7 8 28
4 韓国 9 3 5 17
9北朝鮮 4 0 1 5
14 日本 2 10 12 24

インタビューを受けた

2012年08月04日 05時36分56秒 | エッセイ
昨日ある有名全国誌の新聞記者が3時間ほど取材に来られた。彼女は私に関する予備知識を持っていたのでなんら負担なく旧友のように談話をするように進行した。写真や録音も気が付かないほど自然に行われた。楽しい研究を話した時間であった。私は古くからメディアの方とは接触する機会が多い。それは20代後半に韓国文化公報部専門委員の時に遡る。当時国家文化政策の一環として文化財関係の情報を収集、全国のメディアに提供するなどの仕事が多かった。各紙などに情報を提供して出た記事から見出しや写真などの編集方法などを検討したことがある。社会にとって貴重な資料であることを前提にして報道されるようにした。そのメディアへの態度は今でも変わっていない。
 民俗調査では村人が大きく宣伝されたいと思っている人が多いが、社会調査では報道されたくないような人が多い。個人も情報を出したい人と出したくない人がいる。その研究者や記者もその判断は難しい。その基準はあると思う。たとえば個人の癖のようなものでも広く通じる普遍性がある場合は「公」になる。ある個人、私的なものでも公的になりうる。つまり広く「公有」(共有)する必要性によって広報の意味があるはずである。個人を越えて公にするにメディアの重要な役割があるだろう。

「老益壮」

2012年08月02日 06時01分49秒 | エッセイ
韓国釜山聖公会教区の元主教のWilliam Choiと二十数年ぶりに通話した。家内が洗礼を受けたのは日本の聖公会教会であり、馬山では大韓聖公会に所属して信仰生活をした。彼は私にイギリスで研修をして聖職者になってくれないかと誘ってくれた。学者の道かと聖職者の道かを選ばなければならなず、戸惑ったことを思い出す。私の生き方をもう一つ大きく変えるチャンスであったと今思うが、やはり私は学者の道を守ってきたことに後悔はない。その後、彼は日本人女性と結婚し、アメリカ・シアトルに移住し、執筆活動をしている。最近東アジアの宗教に関する数百ページの英文の原稿を送って下さった。彼は聖職者から学問へ関心を寄せている。共同執筆も提案してくださったのでこの秋、シアトルの自宅を訪問して協議する予定である。古い人間関係であり懐かしく嬉しい。今また新しい作業が始まりそうである。まさに「老益壮」(歳をとっても元気そう)そのものである。

オリンピックから感動

2012年08月01日 05時48分01秒 | エッセイ
 オリンピックのさまざまなゲームをみて感動するが、特に個人競技種目のメダリストたちの母親の話には感動する。韓国の映画「マラソン」のように赤ちゃんの時や幼い時から母親がスポーツをやらせ、コーチを付けて成長させ、長い間数多く練習と試合を経てオリンピックでメダリストとなる栄光がある。今度のオリンピックの映像を見たり記事を読んだりすると「母」とは何か、女性は偉大だと今、新たに感嘆する。選手の背景には国家や社会のサポートがあるのはもちろんである。大国の中国を含め韓国と北朝鮮が現在日本よりメダル順位が高いのがその結果であろう。その国家を「祖国」という。戦前の日本は祖国という言葉をよく使った。その「祖」は祖父など男系の祖先を意味し、母国と対照的なものである。オリンピック選手は、個人、母、祖父、祖国などの合作であろう。そしてオリンピックはスポーツのゲームであり、文化であり、人類史であるという思うに至る。