崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

被曝証言

2012年08月07日 03時31分08秒 | エッセイ
昨日8時15分広島被曝慰霊祭の中継をみた。例年通りに広島市長の「平和宣言」、総理の挨拶などが行われた。続いて多くの被曝証言が流れた。中には私が広島に住んでいた時からなじみのある証言者の顔もあった。広島は被曝をもって「平和都市」と特徴づけていて、メディアは常に関心を持って報道している。私も講義やシンポジウムで触れたことがある。20世紀最大の悲惨な原爆都市が平和都市と宣言されている平和な都市で悲惨な戦争が語られるのは「戦争と平和」が対照的である。生き証人たちの証言を聞きながら自分の人生を振り返ってみる。
 私は10歳頃朝鮮戦争の最中の交戦場で、戦争は怖くて面白く感じた。その体験を語ることが多い。また数回書いたこともある。戦争の面白さを感じたのは私だけではあろうか。極端に言うとオリンピックと戦争は戦うという点ではどう違うか、ということになる。トッフラーは武器と武器の戦いの戦争を想定している。未来戦争は玩具の戦いになるかもしれない。広島被曝は超大型テロ、ジェノサイドであり、悲惨そのものであったが当時世界的にはキノコ雲、黒雲を面白く不思議なものと観た人も多かっただろう。
 戦争の本質を十分議論すべきである。私は当時防空壕に隠れ、死体と残骸の中で暮らしたことを思い出す。少年の私にとっての戦争は飛行機同士の戦い、それから降りる落下傘などは美しくて面白くてたまらなかった。恐怖の中に生き残ったことは奇跡であり、嬉しいことであるが当時私は辛い生活の連続であった。時々嬉しく、面白いこともあった。戦争体験を繰り返し談話しながら自分自身が語り部のようになっていく感がしてしょうがない。立ちかえって当時の事実に戻して考える時がある。いまそれを戒めにして戦争体験を調査し、整理している。被曝証言を聞きながら複雑な思い出が浮かぶ。