崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

古希記念メッセージ「私の人生」

2010年06月19日 03時52分22秒 | エッセイ
 本日、私の古希記念祝賀会に参加する弟子、先輩、友人、教友、同学、親族などに感謝します。またこられない方々からの暖かいお気持ちをいただいており感謝です。ここに立って「私の人生」を振り返ってみると「人生論」「生き方」があったように思うこともありますが、実は挫折と克服、失望と希望、失敗と成功などを繰り返しながら必死に生きてきたように思います。今はまさに「今死んでも悔いのない人生」だったと思います。私の人生には明暗があります。
 菅原幸子と結婚して半世紀、伴侶との幸せな家庭に成功させました。家内は常に私の「検閲者」です。気の短い私の、特に日本での生活には日本語の先生であり、話を聞いてくれる良い聞き手です。議論が多く、夫婦喧嘩は一度もなかったのです(幸子紹介)。
 まったく教育を受けていない母は人を愛する方法を教えてくれました。私を女性っぽく作りました。料理や趣味などがそうです。また美味しいものを手に入れると神様と人を考えるようにさせてくれました。私は母の信仰であるシャーマニズムを身に着け、研究しました。人の「恩」を大事にすることも探求しました。今日の6月19日の日付で民俗苑から出版された著作集1号は「恩」「孝」「愛」を分析したものです。(民俗苑の社長、会長)
 10歳ごろの朝鮮戦争は物質と人間関係や人の心を壊しました。伝統的な静かな農村のわが村が米軍キャンプによって売春婦があふれる状況でした。家族を失った人が復讐のために人を殺す場面を何度も目撃しました。しかし少年の私は戦争は怖く、また面白いものでもありました。私の人生の闇の暗い歴史、戦争と虐殺、性暴行などは研究にも生かしました。『樺太朝鮮人の悲劇』も書きました(第一書房社長)。
 母の向学心によって学者(両班)を作ろうとしてソウルへ転校、中高(戦前の第二校)、ソウル大学への入学、そして結核末期で5年間の闘病生活は私を絶望させました。母の信仰からキリスト教へ変身しました。絶望から希望を持ってクリスチャンとして生きることになりました。(村岡芳子)
 軍事クーデターによって韓国社会が混乱しているとき陸軍士官学校の教官になり、さらに文化広報部専門委員として、また、大学の非常勤などをして、全国民俗調査などで意気揚々となり、失敗と成功が頻繁に繰り返しながらもう一回チャレンジしたく、日本に留学しました。日本語を一つも知らず、経済力もなく、無力な存在になりました。しかし韓国社会の近代化に関心が高くなり、マックスヴェーバーの本に熱中しました。
 韓国に帰国して日本の近代化をモデルにして、文化人類学の客観的な方法論で日本のことを教え、論説などを書いて親日派といわれました。数年前には韓国のテレビで「新親日派」とも言われました。しかし民俗苑から出た植民地関係の2冊の本が大韓民国学術院の「優秀図書」に選定されました。
 今ジュゴトハニオプッタ(죽어도 한이 없다)つまり死んでも悔いがないハッピエンディングだと良いと思います。
 有難うございました。
 

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