崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

初の人工衛星搭載ロケット「羅老号」爆発

2010年06月15日 05時57分18秒 | エッセイ
 韓国は初の人工衛星搭載ロケット「ナロ号」を発射してから約2分後に爆発したという。昨年に続く再発射だったが、今回も失敗だった。日本はその直後2003年に発射した「はやぶさ」が戻ってきた。宇宙開発の競争のようになった。昨夜ワールドカップで日本はカメルーンに勝った。
 肉体運動のスポーツと知識の競争が一体となっているようである。昔はマラソンなどは肉体的身体条件のよい第3世界の人が独占的に優勝するものとも思われていたが、今では日本人や韓国人が身体的な条件ではやや劣っているがスポーツで世界の舞台で活躍するようになった。これからは知識産業も世界的な競争になるだろうと思う。
 その発展には経済力のバックアップが必要である。しかし日本では宇宙開発も予算的に仕分けされたばかりでである。政治家の知識の競争になるかもしれない。よい政治家がほしい。
 

「朝鮮部落」

2010年06月14日 05時49分55秒 | エッセイ
 北九州在住の朴仙容氏(写真左端)のノンフィクション『帰魂』(未刊)を読みながら私の人生や研究の時代とダブって面白い。彼の文章を読むと私がこなせない表現が多い。私は日本語の極一部分を使っていると思われる。それより大きい違いは在日の経験と気持ちの理解が足りないことである。この作品を通して惨めな生活自体より、差別をどのように受けて昇華していったかを読んでいきたい。

 「当時、朝鮮は全国至る所にあった。その場所は河川敷の公共用地だったり、大企業の所有地だったりした。東雲の住むは旧国鉄の土地で、線路の敷地内である。百世帯を超える朝鮮人が、焼け爛れたトタン葺きのバラック小屋を建てて、そこに住み着いていた。住居と線路の境界はない。年間、幾人もの朝鮮人が列車事故で死亡する危険な場所だった。汽車が通ると地響きが起り、家が大揺れする。最悪な住環境だが、無断借用だから誰にも文句は言えない。内には豚の飼育をする者もいれば、ドブロクや焼酎の密造者もいて、喧騒で異様な臭いの籠もる朝鮮人独特の集落だった。警察官が一人や二人で入ることのできない無法地帯でもあり、治安当局から要警戒地域と指定されていた。」

 ナチスのゲートのような雰囲気、しかし在日のものは自然に近い。今ソウルの南には中国朝鮮族のができている。去年南アフリカのケープタウンのキャンプ・カリチャーをたずねたことを思い出す。戦争と難民などのキャンプが世界的には散在している。考えさせられる。


真鍋祐子著『光州事件』

2010年06月13日 05時39分21秒 | エッセイ
 東京大学の真鍋祐子教授から『光州事件』(平凡社)が送られてきた。光州事件とは1980年韓国光州で起きた民主化デモを全斗煥・盧泰愚が武力弾圧して大きな犠牲を出した事件である。後には民主抗争運動などと呼ばれるようになった。政治的には「金大中の復権と光州と全羅道の勝利」(本文14ページ)とも言われるが慶尚道の全羅道への地域差別による政治的、軍事的な弾圧として受け止められた。その暗史を足で歩きながら調査研究したものが本書である。
 私は当時慶尚道の啓明大学に在職していた。その事件の後、全羅南道海南でクッが行われると連絡を受けて故福留範昭氏と李鎮栄君(現在名桜大学教授)と一緒に行った。その時、慶尚道から行ったということで一箇所の注油所からは断わられ、クッの現場から深夜に追い出されたことがある。私の差別への関心はいっそう強くなった。その被差別の地域に、さらに被差別のムーダン(巫)の存在の研究が一層深められた。真鍋教授の本を深く読むべきである。

道路辺のブーゲンビリア

2010年06月12日 05時18分03秒 | エッセイ
 バスを降りて歩いて帰宅する時にいろいろな花を見るのが楽しい。 ある家の壁のほぼ半分に赤と紫のブーゲンビリアの花がいっぱいである。家の前の道路沿いには鉢物が多く咲いている。昨日、手入れをする人がいて話掛けたら喜んで応対してくれた。彼は小さい鉢物のブーゲンビリアを植えたのがこのように見事になるとは思わなかったという。冬にも強く生きるだけではなく、冬にも花が咲くという。
 私は中国の南部や東南アジアを旅行した時、ブーゲンビリアは情熱的な花という印象があり、鉢物のブーゲンビリアを買って花を咲かせるが伸びないように剪定しているので盆栽のようになっている。人と環境によって花の咲く状況がこのように異なるのかと思った。壁に沿って満開の花を観賞しながらわが家のベランダのブーゲンビリアを対照的に考え、人生の花も美しく咲かせたいなど思いはどんどん膨らんでいく。

続・お知らせ

2010年06月11日 05時23分24秒 | エッセイ
 昨日(2010年6月10日)韓国・民俗苑から私の著作集1巻『韓国人の祖先崇拝と孝』が出版され出版社のホームページに新刊案内に出た。早速出版社の洪鐘和社長と校正などで苦労した崔錫栄君に電話して感謝を述べた。今度の著書は800ページのハードカバーであるので定価も高く、大変な苦作であった。
 分厚いこの拙著は「孝」についての分析が主なものである。「孝」に対する前提は「恩」である。孝と恩の関係は「愛」であることを究明した。金で物を買うときは当然であるが、実はそのものには恩も含まれている。親から生まれたことは生物的当然な現象かもしれない。しかしそこには恩が含まれている。恩を感ずるのは古臭いことではない。人間的なことであるからである。私は儒教的な孝道を批判しながら純粋な人間関係の愛から祖先崇拝を検討したのでむしろ現代の人に読んでほしい。古くて新しい「孝=愛」を理解して欲しい。

「やきもちの文化」

2010年06月10日 05時06分25秒 | エッセイ
 宇部出身の菅直人氏が山口から8番目の総理になった。鳩山の高支持率の下落から一気に支持率が上がった。人気というか、世論というものはこんなものかと疑わしくなった。古くから「民の心は天の心」といわれたが「天の心」とは程遠い、真理がないようにも思われる。人気が上がると欠点を探る人が出てきて、マスコミが煩くなって足を引っ張る作業が始まる。「上げて下ろす」が日本の政治であり、それは日本の政治文化そのものかもしれない。否、「褒め殺し」(別の意味ではあるが)の力学ともいえる。競争原理の民主主義ではなく、人を妬む「やきもちの文化」かもしれない。
 民主主義は多数決が一つ大きい原則であれば国会で選ばれた人は野党でも認めなければならない。そうなのに野党の人の話は否定的なものが多い。新しい希望をもって政策の実現を見守ってから批判しても遅くない。人財豊富な山口県が「奇兵隊」を送り、日本の政治を変えることを期待する。「山口出身」ではなく、「山口産」の総理を出したい。(写真は下関唐戸で筆者撮影)

宮中舞踊

2010年06月09日 05時12分28秒 | エッセイ
 私の古希記念で踊ってくれる春鶯舞は朝鮮王朝の宮中舞踊である。王権の権威をあらわす舞であり、テンポと動作も遅く大きい。しかし喜ばせるために美しくする。雅楽は中国や日本にもあるものである。今の若者が好きなテンポが速いものとは極端に対照的なものである。鑑賞する人はそのポイントを見る必要がある。
 天皇の言葉は遅い。行動も鈍く感ずる。権威あると思われる。しかし私は若い時から足が速いといわれ、いまだに早い方である。権威のない貧弱な姿かもしれない。その私もテンポが落ちる歳になった。昨日「高齢受給証」を貰い本当に歳を認識することになった。これからテンポも遅く、行動もゆっくりするようになるかもしれない。行動が天皇のようになるより、天に昇るように心の準備が必要であろう。

イナゴの話

2010年06月08日 06時32分00秒 | エッセイ
下関の東北町では蛍祭がある。私の生まれ故郷でも夏にはホタルが飛んで喜んだ思い出がある。その光は神秘的で「蛍雪の功」としてもしたしい。「蛍の光」(반딧불)は卒業式の歌としても一般的である。昆虫への親しさは文化によって異なる。稲作文化圏について講義中イネの話からイナゴの話に及んだ。日本と韓国では虫の扱いが違う。韓国や中国ではイナゴは食べるほど、ある意味では親しみのあるものである。パール・バックの小説「大地」(中国)に出てくる光景を思い出す。
 私が子供の時、嫌いだったカマキリが日本の子供に好かれることやフンコロガシ(쇠똥벌레)やテントウムシ(무당벌레)、カブトムシ(풍뎅이)などが好まれるのは異様な感があった。伊藤裕君もレポートにフンコロガシと遊ぶという事はなかったがカブトムシは子供の頃飼って遊んだという。韓国人の私の子供の時には日常生活の中で、フンコロガシ、カマキリを面白く観察したことはあっても遊んだことはない。オジュンサケ(오줌싸게おしっこ漏らし)というカマキリの尿が目に入ると盲目になると言われ、殺して葬式をしてあげた遊びを思い出す。テントウムシ、カブトムシも決して親しいものではなかった。セミ(매미)、コオロギ(귀뚜라미)、キリギリス(여치)などには親しさを感ずる。日本の子供は多くの昆虫に親しみを持っているようである。
 蟻地獄(개미귀신)は神秘的であった。子供の頃、印象の悪い店のおばあさんが隠れて座っていて客が来ると素早く出てお金をとる姿をみて蟻地獄に似ていると考えたことがある。

祝賀公演

2010年06月07日 05時56分18秒 | エッセイ
 私の古希記念の祝賀公演が二人に決まった。一人は東京から来られるるヴァイオリニスト野村栄氏、もう一人は韓国・総合芸術大学教授の許栄一氏である。野村氏の演曲名はアメージンググレース(Amaging Grace)とチャルダッシュであり、伴奏は秋山ひとみ氏である。野村氏はウィーン国立音楽大学器楽学科演奏家コースを卒業及び同大学院の修了者であり、ヨーロッパにてリサイタルでデビューしてからアメリカでも演奏活動をして、プラハ弦楽四重奏団の第一ヴァイオリン奏者である。東京から夫妻が参加してくださるという。彼女に関しては以前演奏会を見て本欄にも紹介し、拙著『下関を生きる』にも写真と共に載せたことがある。
 また韓国からの許氏は宮中舞踊の研究者でもあり、韓国の李朝の宮中儀礼で行った舞踊の「春鶯舞」を披露してくださる。彼女はこの春に東亜大学で韓国の宮中舞踊の研究で博士号を取得した方である。彼女は数多く韓国の宮中舞踊を復元した。その中でもこれが代表的なものの「宮中呈才」である。私の祝賀会が参加者にも暖かく伝わるように期待している。
 目下二つの出版社はその日に間に合わせるために急いでいる。記念論文を楽しみにしている。また著作集1は自分でも最善を尽くしたものである。何冊目まで出せるかは与えられた命によるが、これからも一生懸命する心構えである。 

『交渉する東アジア』校正

2010年06月06日 05時45分53秒 | エッセイ
 私の古希記念論文集の編集が編集委員会と出版社で最終段階で校正が進んでおり、本題『交渉する東アジア』の表紙も決まったようである。私の業績表にはエッセイなども載せた。それを見て改めて多く書いたなと思いながら特にいろいろなところに寄稿したのが分かった。中には受刑者向けの『善導』やKICAなどの内部機関紙にも寄稿した。今度の本には含めなかった新聞寄稿も含めて多く論じてきた。依頼されたら断らず締め切りを守ってきたはずである。『正論』には靖国ついても書いた。孔子がどこからでも招かれたら行くということを弟子たちに話したことを、若い時読んだがいつの間にか私の信条のようになっていた。
 校正が全部終わったと思った時上水流さんと中村さんから校正確認が大量に送られてきた。学生には正確にするように言っていたが逆に尻を叩かれたようで必死で校正するのに一日がかかった。苦労と嬉しさが交差した日である。

生き方

2010年06月05日 05時47分59秒 | エッセイ
 歴史的な人物の中には特別な生き方をしている人が多い。それに関しては人生論などで論じられている。子供からみて、ごく普通の平凡な親のように思えても特徴ある生き方をしている人も多い。私も失敗と成功を繰り返しながら今日に至っている。ただその時その時に最善を尽くしてきたつもりである。私の生き方には人生論のようなテキストがあったわけではない。よい座右銘が守られてきたわけでもない。しかしいま振り返ってみると戦前生まれ、戦後の混乱期、朝鮮戦争、日本留学、韓国で反日思想に反する教育(親日派といわれ)、日本で韓国文化の研究と教育などを通して日韓を往来する日々であり、ある意味では格好良く見られる点もある。私は特別な人生観を作り上げてきたのではない。時代の変化によるものが多い。ただ世間の世論などにとらわれず、信念をもって生きたのは事実である。私は自分の欠点として意志が弱く優柔不断だと思っている。鳩山総理が優柔不断だといわれながら辞職したことが気になる。

「記録されなかった満映:最後の日々」

2010年06月04日 06時10分03秒 | エッセイ
 山口放送(竹村)製作「記録されなかった満映:最後の日々」が竹村昌浩ディレクターから送られてきた。ずいぶん年月をかけて製作されたものである。放送時間帯が15:50からということで私は出張で放送を視聴することができなかった。残念だと思っていたが送って下さり、有難く見ることができた。
 この映像では満州映画協会の資料を豊富に利用しながら現在を照明したもの、あるいは現在から歴史を遡っている。歴史的人物は甘粕、現在の人物は曽根崎明子の繋がりとして映像の残影が印象に残る。そこに私の研究が挿入されたりして光栄である。今私は植民地からの引揚者の証言を収集し分析している最中であるが、この映像を通して曽根崎氏の存在を再認識した。また彼女に話を多く聞きたい。そして去年旧満映を訪ねて私自身が撮った映像も編集してみたい。(写真は放映中の曽根崎明子氏)

拙著が大韓民国学術院優秀図書に

2010年06月03日 05時12分01秒 | エッセイ
 6月は朝鮮戦争記念日や顕忠日などがあり憂鬱な月であるが、私の誕生日も入っている。誕生日を祝ってくれる行事が予定されている中、昨日韓国の出版社の民俗苑から拙著『映像が語る植民地朝鮮』が大韓民国学術院優秀図書に選定されたという連絡があった。嬉しい。この本の中身はほぼ日本の科研による成果であり、日韓の協力によるものともいえる。私の本旨も知らない世間からは「新親日派」とも言われた。この拙著では私は映像を副次的に扱うのではなく、主対象として新しく学問的に追求してきた。それを学術院が客観的に評価してくれたことは本当にうれしいし有難いことである。
 この本が韓国で出版された直後、山口NHKテレビで紹介され、日本語でも編著を出すために準備している。風響社の近刊として宣伝を出している。日韓で古希記念論文と著作集1が出る予定である。

안녕하세요, 민속원입니다.
이번 2010년도 대한민국학술원 우수학술도서에 선생님의 저서 "영상이 말하는 식민지 조선"이 선정되었음을 알려드립니다.
다시 한 번 우수도서로 선정된 것을 축하드리고, 앞으로도 노력하는 민속원이 되겠습니다.
이제 여름이라 햇볕이 한층 더 따갑습니다. 건강유의하시고, 언제나 행복 가득 하시길 기원합니다.

新著の表紙

2010年06月02日 04時55分43秒 | エッセイ
 韓国民俗苑から6月発行予定の新著の表紙が決まった。出版社のデザイナーが選んだ表紙写真は私が丁度40年前我が生まれ故郷の京畿道楊州で行なったクッの時、撮ったものである。当時ドキュメンタリー会社が日本テレビで放映中の「素晴らしい世界旅行」に韓国のシャーマンを紹介するための死霊祭であった。牛山純一社長と市岡康子氏やカメラマンなどがソウルの半島ホテルに留ってクッの現場を見つけようとしたがなかなか機会が得られず、時間が経っていた。それで我が生まれ故郷で私の母の死霊祭のオグクッを行うことにした。ソウル大学の恩師の李杜鉉先生と東京大学の泉靖一先生の友人から、また牛山純一氏、私の大学の先輩である張籌根先生の協力によるものであった。
 急に親族と相談の上撮影のために昼からすることになった。男巫李芝山グループが巫女たちを連れてきて、ソウルから私の姉も参加した。張籌根先生が通訳できてくれた。写真はシャーマンの神託で姉が中央に立ってそれを受けている場面である。この映像は今では貴重な資料となっている。私が日本に住むことになって姉が訪ねてきた時、リトルワールドを案内し、博物館内の映像に「韓国のシャーマン」というタイトルを見て映像を見て驚いたのは私だけではない。姉自身が映っていたからである。良い思い出の写真である。
 

東洋経済日報に「パンソリ」寄稿

2010年06月01日 05時04分42秒 | エッセイ
2010年5月28日の掲載文
          
           パンソリ
 多くの人はパンソリといえば韓国映画林權澤の「風の丘を越えて―西便制―(1993)」を思い出すだろう。韓国では大ヒット作で、第一回上海国際映画祭最優秀監督賞・最優秀主演女優賞を受賞している。パンソリは韓国の「国唱」といわれ伝統的な歌劇ともいえる。2003年11月7日、ユネスコの世界無形遺産に登録された。李俊(1939∼2008)原作の「西便制」の映画で、娘にパンソリを教える父親が娘のパンソリの歌に「恨」が足らないといって毒薬を飲ませて盲人にし、「恨」を持たせる場面がある。娘は時間をかけて父親を許すが、父親はそれを悔やむ。
私が大学で国文学を学んだ時、パンソリは巫俗からの起源説が有力であった。1968年に私が全国民俗総合調査の初年度に全羅南道で調査に参加した時、ダンゴレという巫女が一晩中、徹夜で歌いながら儀礼をするのを観て感動した。パンソリの巫俗起源説の現場にいたからである。高齢な女性ダンゴレが寒い冬に外で一晩中、一人で神話を語り、巫歌を歌い、喉が嗄れ、破れるまで歌い、一人前の「得音」(発声法)した「名唱」(名人)パンソリの芸術が生まれることを調査経験から知った。以降数十年間この地域を歩き調査を行い多くの論著などを発表してきた。
 先日その調査地の長興から講演の招請があった。前下関韓国教育院長であった李永松氏と奥さんの画伯魏明溫氏の協力があった。調査地であったところからの招請には喜びと不安があった。長興は「西便制」の原作者の故李俊氏をはじめ現役超一流作家の韓勝源氏、宋基淑氏などの出生地でもある。宝城郡庁の職員の案内でパンソリ発祥地に行き、記念館で女名唱李チソン氏のバンソリ春香歌のスッテモリを、鼓手張氏の伴奏で聞き、本場での最高の公演であった。それから懐かしき作家韓勝源氏、元交通省の長官の孫守益氏など20数名の歓迎パティに招かれ、韓氏の自宅では緑茶でもてなしを受けた。 
 長興地域の最高リーダーたちの文化行動の集会である「長興学堂」で講演をした。私が初めて長興で調査したのは1968年に遡る。当時私は陸軍士官学校の教官をしていて民俗調査に参加した。講演はそれを振り返りながらこの地域を調査した話から始めた。1930年朝鮮総督府が警察の報告を通して得た情報に基づいた調査が始まった。被差別集団への調査の始まりと言える。1960年代に調査した私の調査報告が東亜日報に大きく報道されて当時長興出身のパンソリ名唱だった鄭氏の怒りをかったこともあったが、被差別された人々の中から人間国宝が出るように変わった時代の激変に驚く。
 私はひとりの研究者として社会通念を変えるために力を注いてきた。知識人として社会変化を待たず、変えようとして努力してきたことを訴えながら、彼らにも社会を変えていくように願った。講演をしながら差別される彼らを調査した時を思い出し、今は故人となった人を思い出し、一瞬泣きそうになったがやっと抑えることができた。