崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

柿の秋

2009年10月16日 06時43分32秒 | エッセイ
 福岡で日韓関係の橋渡しの活躍をしている板井一訓氏から一箱の自家産の柿が送られてきて嬉しい。最近忙しく散歩にもでられず季節の変化にも頓感であったのにこの柿をみて一気に秋を感じている。韓国語では柿をカム(감)といい、年寄りをヨンカム(영감)という。カム(감)という言葉にかけてカム(감)は老人の好物となっているという。特に熟して柔らかなホンシ(紅柿)が老人の好物である。しかし死者のための法事の祭祀にはコッカン(곶감,干し柿)を供える。干し柿と生姜でお茶のように作った正月の飲み物のスジョンガ(수정가)がある。子供の好物でもある。昔話に子供の泣きをやめさせるために「虎が来たぞ」と言っても止まなかったのに「柿だ」と言ったら泣きやんだので「柿が虎より怖い」といい、怖さと好みをかけた話がある。
 韓国人に親しみのある果実であるが、私が日本に来てとても目立ち、気になるのが橙色の柿を木からとらず放置している風景である。落葉樹であるので葉が全部落ちて、柿だけが残ったのは花のようであり、秋を象徴する風景になっている。取り手がいないか、鳥の餌にして上げるのか、食べ物が多くて柿は食べなくてもよいというのか、秋の季節を誇示するのか。私は走る車窓からなぜ、なぜだろうと疑問ばかりでしょうがない。韓国語で「柿が落ちるまで待つ(감 떨어질 때까지 기다린다)」という諺の如く長く待つというように私の疑問と思索は長く続く。

隠れ学習

2009年10月15日 05時16分42秒 | エッセイ
 構内でも片言の韓国語で話をかけてくる人が時々いて面白い。韓国のドラマや映画などにはまって憶えた単語で語る。中にはそれをより深めて学習する人がいる。数日前西村淳子氏が訪ねてきた。彼女は英語通訳や翻訳をする人であることは知っているが韓国語も勉強をしているという。私の隣に韓国・国家公務員で研究員として来ている姜顕秀氏夫婦を紹介した。西村氏はそれほど不便なく韓国語で会話ができるので驚いた。姜氏の奥さんと昼食をともにすると西村氏からメールが来た。韓国語の会話が聞こえてくるようである。
 同僚の林准教授が時々よく片言の韓国語で話かけてくることがあって関心を持っていたのに初めて韓国旅行して一人歩きをし、韓国語を体験してきた話をしてくれた。近く開かれる韓国語弁論大会に参加するように強く勧めた。姜顕秀氏が韓国語の発音などを指導することになった。実行委員長に連絡して、昨日その原稿を送った。彼は参加することに躊躇しながらも嬉しそうに大きい声で練習しているようである。隠れ学習が公になるメカニズムを楽しんでいる。

「在日は被害妄想か」

2009年10月14日 06時26分22秒 | エッセイ
教会の祈りの項目に私の健康のことが載っており、多くの人から心配していただき、祈っていただいていることを聞いて照れてしまった。また心から感謝もした。喀血の後に服薬などして一か月ぶりに昨日検査を受けた。担当の池田先生から右の胸の影が無くなったことと結核の心配は検査の結果ではないとの朗報があった。しかし続けて服薬をする必要があり、1か月後に再診することとした。心配してくれた人、祈ってくれた多くの人に感謝する。
 病院から大学に戻って7時近くまで多くの仕事をこなした。下関の在日に関する講義の後、また在日差別に関する報道局からの取材インタビューに応じて長く話をした。また私が指導するテロに関する論文についての評価などを行い、遅く帰宅した。昨日の話題の主な内容は差別、攻撃、報復、恨みなどであった。特に「在日」が主なテーマであった。
 昨日のブログに在日朝鮮人のことを書いたことに早速二人の在日(?)の方からコメントが書かれている、「在日朝鮮人」「在日コリアンは…」と括れない在日コリアンの複雑さ、「在日はほんとややっこしいです」と指摘された。世代別、国籍(帰化)、政治・社会活動(民団、総連、韓統連、帰化人の会、ニューカマの韓人会、青年団体)、アイデンティティなどでさまざまなカテゴリーがある。しかし日本人からは目に見え難い存在でもある。日本人の中には見えない「異質な存在」をわざわざ見つけて差別するひともいる。しかし差別は一方的でもあるが受け手が存在する。多くの在日の方は自ら「破戒」の主人公の丑松のように被害妄想的な人も多い。また差別を楯にする生き方をする人もいる。彼らは私に「在日を理解していない」という。そうかも知れない。

日本文化の「韓国人」、韓国文化の「日本人」

2009年10月13日 06時12分02秒 | エッセイ
 先日深夜まで小さい畳部屋で10人弱の人が集まって談話した。その議論を聞きながら大きく4つのカテゴリーの人々が集まっていることが分かった。Aは自ら明らかにしていないが、普通の日本人である。Bは日本人と在日朝鮮人(韓国籍、日本名)と結婚した人、Cは韓国籍の在日韓国人同士で結婚した人であり、「韓国人」である。Dは韓国からのニューカマーで日本の国籍をとった「日本人」である。日本ではこのような人々が集まるのは珍しくはない。
 CとDは特に対照的であって私には面白く感じられた。Cは日本で生まれて韓国籍の方であり、日本式の通名で育って自ら韓国名の本名を使いはじめ「韓国人」という。Dは韓国育ちで日本に来て最近日本の国籍をとった「日本人」である。Cは日本文化の韓国人、Dは韓国文化の「日本人」であり、日本語さえ不完全な人である。日本には韓国文化とはほど遠い、韓国語で自分の名前の発音も正確にできない「韓国人」が多い。このような混在すること自体が多様な社会であることを表す。このままの社会事情を自然と思うことが望ましい。しかし私が面白いと感じたことは在日朝鮮・韓国人の中には「日本文化の韓国人」たちが韓国をもってアデンティティを主張することを知っているからである。
 国籍は簡単に変えるものではないが、国籍をもってアイデンティティを主張する必要はないと思う。この部屋に集まった人の中にはいなかったが、異人種の「変な外人」も含む人たちが自然に談話する普通の社会が真の国際化であろう。

データ復元不可能

2009年10月12日 05時52分55秒 | エッセイ
 先日外付けハードディスクを誤って落下してしまってパソコンに繋いで使用しようとしたところ、ブーブーという音がしているがデータの読み込みができない。データ復元の会社の宣伝をみて、実物を送って1週間ほどでデータ復元不可能と判断された。多くのアルバムや調査資料写真を何カ月もかけてスキャンして保存して元の資料をほぼ捨てたのに大変困っている。また完全に死んだ(?)ものとは思わず一抹の希望をもって他のところでなおせるところを探した。まるで末期患者のように病院を転々と探している心境である。
 普段は過度な宣伝と思う広告文が目に着く。復元できるという宣伝会社はまだ多くある。私の人生の写真記憶を戻すためのSOSである。写真は記憶と使えるものを選んだものである。私の真の記憶は曖昧であり選べないものもある。朝鮮戦争や数多く失敗した不幸な記憶は忘れたいが忘れない。一定期間過ぎると徐々に忘れるが無意識にデータとして状況によって復元される。器械による記憶はかなり正確さはあっても消える時は完全に消えてしまう。
 韓国で末期患者たちが祈るカルト教会を調査したことがある。死を直前にしても一抹の希望を持って祈っている。そこには恥も痛みも問題ではない。ただ生き残ることである。正常な人からは異様に感じるが当人はそうではない。危機にさらされた人を理解しようとしてその場に座っていた。今、私は記憶喪失の危機にいる。

ノーベル賞

2009年10月11日 05時32分52秒 | エッセイ
 数年前にスウェーデン・ストックホルムの友人を訪ねた時、彼がわが夫婦をノーベル賞の発表や受賞式などを行う建物の中に案内してくれた。そして彼は世界のいろいろな国から、ノーベル賞のために戦略的にロビー活動やスウェーデン語への翻訳出版などの裏話をしてくれた。彼も何冊か翻訳をしたと言っていた。その時は賞と縁のない私にとっては世俗的な話だと聞き流した。
 ノーベル賞の6分野のうち5つまではスウェーデンが選考するが1つはノルウェー議会が選出する。1905年までは両国は一つの連合国であった歴史がある。この度ノーベル「平和賞」はノルウェーのオスロで発表したし、授与式も行われる。この賞は政治的な傾向が強い。アメリカ大統領のオバマ氏が目出度く選抜された。「偉大な業績」を成し遂げた人に与えられると言う意味ではふさわしくないという見方や非難の声もある。
 賞の根本的な意味が問われている。ノーベル賞も根本的は美人コンテストの賞とそれほど変わりはない。日常的に褒め言葉と叱る言葉、鞭と飴のようなものであろう。人格や国家の威信などとは関係ない。ノーベル賞も世俗的な評価に過ぎない。夏目漱石がみせた賞の意味を考えてみる。賞は神様からもらうのが一番だという意味であろうか。

『下関を生きる』「僻村から国際化」

2009年10月10日 04時41分51秒 | エッセイ
 東京の著名な映画監督前田憲二氏らが発行する雑誌の編集者の李義則氏から電話があって書評するために『下関を生きる』を求めるという連絡があった。しかしこの本は手元に残っておらず、本屋などで探してもない。先日は豊浦の人からもこの本をぜひ求めたいという連絡があったが応じられず残念であった。嬉しい悲鳴である。姉妹編の『日韓を生きる』は余分があるのでそれと交換できればと思っている。連絡いただければ幸いである。
 昨日大学の同僚の奥さんの上原真里氏が出版社を立ち上げ、初出した『長府散策旅ガイドブック』をいただいた。彼女は出版社に勤めた方であり、このような地方で出版社をしているということを聞いて、驚き大歓迎である。 インタネットなどによる世界化が急テンポで進行中であるが、出版文化も大都市中心になっており、国内の地域化もほぼ進んでいない。日本は隣国の韓国に比べてもインタネットのランケーブルなどの普及率ははるかに低い。先日の本欄で触れたようにこの地域の国民宿舎には一カ所もインタネットが使えないほど「僻村」のような状況である。出版社を立ち上げたという言葉を聞いて今「僻村から国際化」を実感している。

大藪雅孝とその仲間たち展

2009年10月09日 05時06分21秒 | エッセイ
 大藪雅孝とその仲間たち展が昨日、最終日の展示を観覧した。大藪氏は1937年韓国ソウルで生まれ、東京芸術大学美術学部を卒業し、東京芸大教授をされて定年した著名な画家である。東亜大学理事長の櫛田宏治氏の学生時代の先生でもあり、彼の弟子たちの作品とともに展示されている。もちろん櫛田氏の油絵(3点)も展示されている。私は謙遜な顔の櫛田氏を絵の前に立っていただき記念写真を撮った。
 山口新聞の特別編集委員の佐々木氏、下関文化協会の会長の野村氏、そして櫛田理事長と昼食とった後佐々木氏と共に展示室を回り観覧した。大藪氏の「屋島」の絵の前では釘づけになった。すばらしさに感嘆し、称賛した。一方大学の理事長の作品が展示されているのに学内で知っている人は少ない。もったいないと思った。展示に出しながら宣伝しないのもそうであるが、それを知った人が関心を持たないのも遺憾である。否定的な態度の人、感謝を知らない人が多い集団は良くないと私は思う。私がキリスト教会に出る大きい理由の一つは感謝の心、肯定的な態度を養っていくためでもある。





山口放送の竹村昌浩氏優秀賞

2009年10月08日 06時46分12秒 | エッセイ
 先日の旧満州映画協会への調査旅行に同行した山口テレビのプロデューサー竹村昌浩氏チームがあるドキュメンタリーで優秀賞を受賞したという記事を山口新聞で読んで電話で心からお祝いの言葉を述べた。賞は数多くある評価の一つであるが、彼のことが気に入っている。彼の同行取材中の熱心な仕事ぶりと温かい人格者であることが印象に残っている。
 彼とは数年前赤間神宮の行事の時に会った。その時、私は大連神社が下関にあるわけを調べるために行っており、彼はそこで神事を撮影していた。その時はじめて名刺を交換した。その後、彼が撮った周南市八代のツルのドキュメンタリーの映像から情報を得て私が八代の弘中数実氏を調査するなど縁が深くなった。その後満州映画協会に勤めた曽根崎明子氏を私が取材する時竹村氏がその記録映画を撮ることになった。彼とカメラマンの山本氏には今後もよりよいドキュメンタリーを期待している。


東洋経済日報

2009年10月07日 05時12分27秒 | エッセイ
 「東洋経済日報」に産経新聞の黒田勝弘氏、評論家の崔碩義氏、韓国ヤクルト共同代表副社長代行の田口亮一氏、ZOO・PLANNING社長の尹陽子氏、韓国双日理事の大西憲一氏とリレーエッセーを1年近く連載している。私は最近「サハリン韓国人の悲劇」「敗戦と敗北」 「金剛山観光」「朝鮮戦争」「世襲議員」「おくりびと」「黒人大統領」などを書いた。「毎日新聞」(山口版)にも同期間執筆中である。毎日この本欄も書いている。それらの拙文を「見た」という人は多いが、「読んだ」という人は少ない。たまにブログにコメントを書いてくれる人もいる。読まれることも嬉しいが書くことが好きだから続けられる。
 先日研究会で下川教授から私は褒め言葉をいただいた。よく聞いていると彼は私の文を深く読んでくれているようである。拙文から私の苦労話を読んで私がひねくれた性格になっておらず、偏った見方をせず、きちんとしたバランス感覚を持っているというのだ。在日の差別された人のひねくれた性格の印象を持つ人へのメッセージようであった。私は彼を良い読者だと思った。昨日が日報の原稿締め切り日だったのを忘れていた。今から書こうとしている。

秋夕

2009年10月06日 03時45分31秒 | エッセイ
 旧暦の8月15日は韓国や中国などの伝統的な大きい名節である。韓国では正月とともに二大名節の一つの「秋夕」である。今年は10月3日であった。昨日韓国のある大学に電話しても応答がない。後に大学が連休であることが分かった。私は秋夕の日に研究会で外泊、夢中で過ごしたので思い起こすこともなかった。自分では意識することもなく、すでに韓国や中国文化圏から外れてしまっているのである。
 明治以降日本や韓国は西暦を使い、時間の開化政策をとってきたのに日韓にはまだ名節や年中行事などで時間を共有していない部分も多い。特に旧暦による名節において日本は東洋文化から外れている。中国や韓国では旧正月が年の始まりではなく伝統的な名節として持続している。旧暦カレンダーから旧暦の時間が完全に消えていない。欧米化が必ずしも良いとは思わなくとも時間の世界化は必要である。日本は国家の年号を使っている。明治、大正、昭和、平成などの年号を使っている。北朝鮮は金日成誕生1912年を元年とした国家の年号の「主体」を使っている。趣旨は日本と同様である。韓国は戦後一時期「檀紀」という年号を使ったが取りやめた。時間を完全に国際化するのは難しいが、年号は不便である。自動的に換算できるようにするか、年号をなくすべきである。11月21日山口大学で行われる「時間と近代化」に関する国際シンポジウムで発表する予定である。

門司港合宿研究会

2009年10月05日 05時55分49秒 | エッセイ
 門司港の国民宿舎で10月3日(土)午後2時から4日(日)午前12時まで2日間充実した研究会に参加した。有松氏の「韓国女性史研究から見た『兵隊さん』」、九大名誉教授の有馬氏の「『発掘された過去』に描かれたモダン都市京城」そして私の「09年夏、満州映像調査報告」であった。九大の竹田教授からは映像の編集技術法が発表された。権藤氏によってこの研究会の映像記録も行われた。一般公開ではなかったが、12人の討論が活発であり、真の勉強時間であった。夕食後の私の発表が10時半過ぎ、そして私の部屋で深夜1時まで談話が広がった。朴仙容氏の在日の差別問題が話題になった。私は本当に久しぶりに遅く寝た。
 話は朝鮮半島と満州の植民地に関する映像、画像、遺跡から読み取る方法であった。『兵隊さん』の映像にある合宿の場面を実体験するような感じがした。国民宿舎は6畳の部屋で洋服かけもなく、洗面所なし、旧式共同トイレで3人ずつ一つの部屋に泊まった。消灯してから間もなく物を探すために非常用電灯をとってみたが電池が古く使えない物でただの飾りであった。まるで戦前の『兵隊さん』の体験する「国民兵」の国民宿舎で「内務班」のような泊まりであった。アフリカと中国旅行でも経験できなかった珍しい建物の前で記念写真をとった。帰宅して死んだように昼寝をした。



気の毒だったミミ

2009年10月04日 07時08分18秒 | エッセイ
 主人から今朝はブログを書けないと連絡があった。この時間、彼は門司にある国民宿舎に宿泊中である。昨日から泊まり込みで映像研究会に参加している。国民宿舎は古い建て物でインターネットなどのランも入っていないようである。
 いつも遠くに出張する主人が家から見えるところにいるという安心感もいいものである。留守番をしながらここに引っ越して以来の不要物や捨てたい壊れた家電などをごみ出しできるように整理しているが、なかなかはかどらない。日中は昼寝の時間のミミは私がごそごそするので迷惑そうにしていたが、ついに怒ったのか意味も無く吠えたり抱っこされたがったりで仕事にならず散歩に出た。3時過ぎの唐戸市場周辺、カモンワーフはお祭り気分でにぎわっていた。いつもは比較的静かな散歩コースなのに、今日はここもミミにとってはうれしくないようであった。大いにサービス精神を発揮してソフトクリームを買った。これはミミに喜ばれ、私もおいしかったが、ミミの健康にはあまり良いものではないと思いつつ、ミミには気の毒な日であったと思い、眠くてトロ~ンとした目のミミを抱っこして帰宅した。

「かけひき」

2009年10月03日 05時33分39秒 | エッセイ
 ある論文の校正者から「生き生き」という表現の意味を聞かれて私はその言葉をよく使ってきたがその言葉のニュアンスはいまだに正確にはわからない。日本人でも韓国語や外国語を話してもニュアンスまで完全にこなせる人は少ないと思う。私はいまだに家内から毎日本欄や会話の中で日本語の間違いを直してもらう。しかし濁音の間違いは「書く時」も「話す時」も多い。
 日本でもう一つ難しいのは日本式のかけひきである。昨夜ハードディスクの修理店からの電話で話をする時に貴重なデータが内蔵されていたというと23万円という。値段を聞いて8割は他の機材にも保存していることから取りやめようとしたら半額になった。私は自分でうまく交渉したと思ったら家内が「かけひきが下手だ」と言った。家やマンションを買う時も値段なども交渉をせずに「買う」と業者さんに言って、それからの値引きなどに苦労した事を含めて言ったようである。日本語の意味はわかっても駆け引きは難しい。
 私は感情を抑制することに弱い。子供の時から花札やトランプなどで良いカードを持っていると顔に表れて相手にやられるのが常であり、ゲームは一切しなくなった。駆け引きもうまくない。韓国語ではフンジョンといって駆け引きは社会活動の基本原理とも思われる。中国やインドなどでも買い物に値引きを楽しむ人も多い。インド旅行した人から聞いた話である。ある人が値引きして7割で買ったと喜んで自慢すると同じものを半額で買った人の腕前に負けたというその時、3分の1で買った人がいたという実話を聞かされた。多少誇張されてもそのような状況はありうる。定価制は安心感はあるが人間関係は弱い。どちらが良いかを考えてみたい。


「私の記憶」の喪失危機

2009年10月02日 06時22分00秒 | エッセイ
 40年ほど前に撮った写真など私の記憶がいっぱい入ったバパーロハードディスケットが机から落ちてしまって故障となった。一番安全だというので写真をスキャンして大量に入れて保存したので元の写真などは捨てたのにどうしよう。一日がかりで工夫してみても徒労であった。購入業者に相談すると故障は直せるがデータはなくなるという。データ復元の会社に連絡して聞かれたので貴重な資料が入っていることを話し、何とかしてくれるよう救いを求めた。答えは「可能である。しかし値段は高い」という。20万以上になるかもしれないというのだ。即時郵送にて見積もり結果を待つことになった。
 「認知症」や「記憶喪失」などの言葉が良く言われる中、私は機械による「私の記憶」の喪失危機にさらされている。私が記憶を失うよりはデータは少ないがそのデータによって記憶を確かめるので必要なものである。人間の記憶を保存するために人類は文書で残す長い歴史をもっているが、それがCDやDVDなど、あるいはネット上に保存するようになった。数年前何年間書いたブログやホームページの資料を失くした辛い経験を持っている。早く書物として残したい。ネット上の資料は機械的でありながら生きているようなものであることを実感した。私の物への不注意と唯物主義の危機かもしれない。