崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

趙基牧師

2015年08月29日 04時15分37秒 | エッセイ
一昨夜下関出身映画人の集まりに参加した。私は外国出身であり下関に10年住んでも傍観者か国際人として参加している。以前よりこの映画人会の参加者は大部減っている。人数は少なくても、もっと濃くなればさらによい。東京在住の会長が顧問になり地元の人が会長になった。友人の新会長は「命かけで努力する」と言った。地元のある人は下関には良い人材は多いがまとめ役がよくないと自己批判のように語った。そこに加わって私が言った。地元は生まれ育ち長く住めばよいとは限らない。郷土人としては物足りない、郷土の人との関係、文化をもって生活することが必要だといった。その文化の一つとして映画を例にした。映画館で見るだけではなく、集まって映画をもって語り会うことは楽しいではないか。顧問の平井愛山氏(写真の右)の提案で絹代塾ができ、私が塾長を務めている。
 下関市内にもキリスト教会が20数か所あるという。先日4~5人で礼拝をしている教会の牧師が私が出席する教会にきて10余人もいる教会で説教することに力が沸き、嬉しいと言いながら合併の話をした。教会の牧師たちは「人数が少ない」とか「集まれ」と強く不満、期待しながら他の集会には決して参加しないのが一般的である。キリスト教の「祈り」が仏教的に「空念仏」となっている。世界最大の教会の韓国ヨイド純福音教会の話を月刊朝鮮で読んだ。私は10年ほど前に趙基牧師夫妻にインタビューしたことがあり、懐かしく思っている。趙基牧師の77万人の信徒が今李永勲牧師時代になり33万人になったという。「純福音」とは社会や経済、特に政治的なイデオロギーと深く関連せず聖霊中心の意味があるという。しかしその教会は社会奉仕、奨学金などで広く社会に大きく影響している。信者が減っても質が高くなると期待する私は肯定的に考えている。否、そうすべきである。しかしその質とは何だろう。