文化人類学の講義に異文化をもって話し、映像を見、コメント書きと発表を行った。裸族と言われる民族の写真と映像によって感想を学生たち(登録人数19人の中12人出席、日本、韓国、中国=漢、ウィグル、ネパール)に求め議論した。「ミニスカートからヌードへ」という私の発題に「そうなるかも」しれないとか、そうなっても「おかしくない」という。銭湯の中では皆全裸になる。その状況は社会生活にも可能であろうか、男性のヌードはいかがだろうかなど私は連続的に疑問を投げた。ギリシャローマ彫刻などでは男性のヌード、絵になると女性のヌードと美術の文化変化なども考えてみた。ここで私のメッセージが登場した。一つを深く吟味するには知識が必要であること。
なぜ勉強をするのか。学問は辛いだけだろうか。楽しみを求め、広げていくためには知識は必要であろうと学生たちに投げかけた。自給自足の経済生活、生物学的な快楽だけで満足して生きることも悪くはないが、もっと良い生活を求めることはどうであろう。クラシック音楽やポップも騒音にしか感じない人もいる。美しい夕日に感動するにも知識が必要である。酒や喫煙の美味しさを知らない私にある友人は何の楽しみで生きているのかと言った。友だちに言わせると私がスポーツをする趣味を持たないのも楽しみを無くしている部分だという。
なぜ勉強をするのか。学問は辛いだけだろうか。楽しみを求め、広げていくためには知識は必要であろうと学生たちに投げかけた。自給自足の経済生活、生物学的な快楽だけで満足して生きることも悪くはないが、もっと良い生活を求めることはどうであろう。クラシック音楽やポップも騒音にしか感じない人もいる。美しい夕日に感動するにも知識が必要である。酒や喫煙の美味しさを知らない私にある友人は何の楽しみで生きているのかと言った。友だちに言わせると私がスポーツをする趣味を持たないのも楽しみを無くしている部分だという。