崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

平和宣言

2011年08月09日 05時26分18秒 | エッセイ
毎年広島と長崎の市長から平和宣言が出される。今日は長崎の原爆投下日でこころ痛くその時を想像する。6日の広島市長の平和宣言は「あの時を迎えるまで、戦時中とはいえ、広島の市民はいつも通りに生活していました。かつて市内有数の繁華街であった、ここ平和記念公園の地にも、多くの家族が幸せに暮らす姿がありました。ところが、翌日の8月6日午前8時15分に、一発の原子爆弾でそれまでの生活が根底から破壊されてしまいます。原爆により街と暮らしが破壊し尽くされた中で、人々は、とまどい、傷つきながらもお互いに助け合おうとしました。」「今年3月11日に東日本大震災が発生しました。その惨状は、66年前の広島の姿を彷彿させるものであり、とても心を痛めています。」。「戦時中」一定の作戦地域に敵に向かって爆弾を投下するのが「正しい戦争」というが、「無辜な市民」を多く含めた原爆投下は悪い戦争になる。今多く起きているテロこそそのものである。 
 広島や長崎は戦争や原爆を以って平和を「宣言する」。皮肉にも平和が戦争と密接していることである。「戦争と平和」は対になっている。戦争をもって平和を宣言するのと同様「平和」をもって戦争を正当化する。古い実例として1894年8月1日に出された日清戦争の時の明治政府の800字強の宣戦文を挙げることができる。『清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』には「東洋の平和」のためにと「平和」という言葉が6回も入っている。

朕カ即位以来茲ニ20有余年文明ノ化ヲ平和ノ治ニ、朕ハ朝鮮ヲシテ禍乱ヲ永遠ニ免レ東洋全局ノ平和ヲ維持、帝国ノ権利利益ヲ損傷シ以テ東洋ノ平和ヲ、実ニ始メヨリ平和ヲ犠牲トシテ、朕平和ト相終始シテ以テ帝国ノ光栄ヲ、速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ

 平和という言葉は戦争を正当化するためによく利用されている。平和運動家たちの「平和」への宣言などが時には戦争と繋がらざるを得ないことさえありうる。平和のためにも戦争を深く考えるべきであろう。