崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

献金の意味

2011年08月11日 05時33分22秒 | エッセイ
 最近いろいろ行事を行うために資金集めに関して相談した。一昨日、私が顧問となっている集まりで募金や献金について議論をした。お金持ちのところが最初出す金額をみて他の人がそれに準ずるか、あるいはそれより少なめに出すのが日本式だという。被災地への義援金を集めた話の中で団体からは会員すべて同額で出したという事も聞いている。日本では村祭りなどの募金などにおいても家毎に同額である。しかし西洋では収入の比率つまり何%となる。教会の献金も基本的にはそれと同じようになっており貧富の差によって献金の差が出る。比率は同じであるが、差額はある。
 韓国では伝統的にも基本的に貧富の差を尊重する。金持ちはその分大目に出さなければケチだと非難されることがある。金持ちは社会的ステータスを高め、また大きく献金した分について大きく感謝される。韓国の教会では特別な献金について大きい声で感謝のお祈りがなされる。日本人には異様に映るようである。実は日本の献金と感謝の方式が異様な感がする。献金の意味を考えてみよう。
 献金は税金とは違って額より心の表れである。神社や寺、教会などに小銭を賽銭、あるいは献金しながら大きい幸運を祈るが神様はその人の心を見ており、その額を見ないという論理である。人は小銭には感謝しないかもしれないが神は感謝する。感謝の主体が人か神かによってその態度が違う。人は純粋な心で献金する。それによって生活する宗教的職能者は献金者に感謝せず、高慢な態度をとる人さえいる。政治家は選挙区の人に対して常に感謝の気持ちをを意識しているはずである。宗教的職能者はく、献金は神への感謝の表れという論理を主張するはずである。小銭ではなく税金のような献金には組織維持費などが含まれているから献金者にも感謝すべきである。もし神への献金だけなら小銭でよいだろう。しかし献金者の収入に比率するということは一般世俗的な集団維持費が含まれているということを意味する。だから僧や牧師は献金者に世俗的、人間的にも感謝すべきである。つまり感謝は人と神の両方にすべきである。