verse, prose, and translation
Delfini Workshop
ドイツ語の散文家たち:Lukács「歴史と階級意識」(1)
■旧暦8月7日、金曜日、
(写真)萩
おはぎとぼたもちの違いは、よく知らなかった。てっきりつぶ餡の方をぼたもち、さらし餡の方をおはぎと言うのかと思っていたが、春の彼岸のときのものを、春に咲く牡丹になぞらえて牡丹餅(ぼたもち)、秋の彼岸に食するものを、秋の萩になぞらえてお萩と言うらしい。つぶ餡はくどいので、苦手なのだが、こと、おはぎに関しては、つぶ餡も素朴な味わいでいいなと思う。
秋風のほどけてここにおはぎなる 冬月
朝食にPAULで仕入れたpain aux olivesを食してみた。olive verteとolive noireの2種類のoliveを使用してある。早い話が、早摘みオリーブと遅摘みオリーブということだが、味にアクセントが出て面白かった。白ワインに合うだろうと思う。PAULは19世紀にフランス北部の町リールで開業したカフェで、最近、四谷に進出した。パン屋としてなら、もういたるところに出店している。四谷のカフェは、一回行ったが、料理にはそう感動しなかった。ただ、café au laitはさすがに旨かった。
☆
デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳
covering up
my water for tea...
my fan
cha no mizu no futa ni shite oku uchiwa kana
茶の水の蓋にしておく団扇哉
by Issa, 1824
Or: "the water...the fan..." Issa doesn't specify that either is his, though this might be inferred.
☆
20世紀初頭までは、知識人は、貧農出身が反革命に走り、大金持ちのおぼっちゃまが革命に走るというパターンがあるが、ルカーチ(1885-1971)にもこれが当てはまるように思う。父親は、ハプスブルク家からドイツ貴族の称号vonを贈られた大銀行家、母親の家系は、ユダヤの大富豪。ルカーチのドイツ語のフルネームは、Georg Bernhard Lukács von Szegedinである。おぼっちゃまと言ったって、麻生や小泉のような下賤の者とは人間の格が違う。そもそも、目指しているものも教養も、天地の違いがある。ルカーチはよく知られているように、西欧マルクス主義の始祖である。
『歴史と階級意識』のエピグラムには、マルクスの次のような言葉が掲げられている。
根源的であるというのは、物事をその根本においてつかむことである。ところで、人間にとって根本的なものは、人間そのものである マルクス『ヘーゲル法哲学批判』
マルクスは、これを宗教批判の文脈の中で述べているのだが、ここにルカーチのテキストの趣旨が集約されているように感じる。これは批判とは何かということでもあるし、現存の社会的カテゴリーを解体し、人間の諸関係総体から、再構成的に叙述するということでもあろうと思う。ルカーチは、しばしば、人間の諸関係の総体という言葉を使う。これが、マルクスの言葉の中にある「根源的なもの」ということだろう。ただ、では、具体的な社会現象と社会関係総体をどう関連付けるのか、という話になると少々わかりにくい。これを問題意識の一つとしたい。おそらくは、モデルとして念頭にあるのは、マルクスの「資本論」や「経済学批判」なのだろうけれど。第二に、批判を方法とした場合、根源的な把握は可能になるかもしれないが、そこからいかなる実践的な代替プランが出てくるのか、わかりにくい(ここは近代経済学や政策諸科学から常に批判される点だろう)。つまり、理論と実践の関係が、社会の全体構想との関わりの中で、どう位置づけられるのか、見えにくいのである。また、これに関連して、全体構想なるものは、抑圧装置に転化しないで済むのかどうか、という点も問題になるだろう。この点を第二の問題意識としたい。
そもそも、ルカーチが、このテキストを構想したのは、自ら深くコミットしたハンガリー革命の失敗の原因をイデオロギーの問題として分析することにあったと言われている。この問題は、非常にアクチャルで、現存秩序やメディアを中心にした操作性という問題や社会認識のカテゴリー形成という問題とも絡む。イデオロギーの問題は、現在進行中の問題なのである。
(写真)萩
おはぎとぼたもちの違いは、よく知らなかった。てっきりつぶ餡の方をぼたもち、さらし餡の方をおはぎと言うのかと思っていたが、春の彼岸のときのものを、春に咲く牡丹になぞらえて牡丹餅(ぼたもち)、秋の彼岸に食するものを、秋の萩になぞらえてお萩と言うらしい。つぶ餡はくどいので、苦手なのだが、こと、おはぎに関しては、つぶ餡も素朴な味わいでいいなと思う。
秋風のほどけてここにおはぎなる 冬月
朝食にPAULで仕入れたpain aux olivesを食してみた。olive verteとolive noireの2種類のoliveを使用してある。早い話が、早摘みオリーブと遅摘みオリーブということだが、味にアクセントが出て面白かった。白ワインに合うだろうと思う。PAULは19世紀にフランス北部の町リールで開業したカフェで、最近、四谷に進出した。パン屋としてなら、もういたるところに出店している。四谷のカフェは、一回行ったが、料理にはそう感動しなかった。ただ、café au laitはさすがに旨かった。
☆
デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳
covering up
my water for tea...
my fan
cha no mizu no futa ni shite oku uchiwa kana
茶の水の蓋にしておく団扇哉
by Issa, 1824
Or: "the water...the fan..." Issa doesn't specify that either is his, though this might be inferred.
☆
20世紀初頭までは、知識人は、貧農出身が反革命に走り、大金持ちのおぼっちゃまが革命に走るというパターンがあるが、ルカーチ(1885-1971)にもこれが当てはまるように思う。父親は、ハプスブルク家からドイツ貴族の称号vonを贈られた大銀行家、母親の家系は、ユダヤの大富豪。ルカーチのドイツ語のフルネームは、Georg Bernhard Lukács von Szegedinである。おぼっちゃまと言ったって、麻生や小泉のような下賤の者とは人間の格が違う。そもそも、目指しているものも教養も、天地の違いがある。ルカーチはよく知られているように、西欧マルクス主義の始祖である。
『歴史と階級意識』のエピグラムには、マルクスの次のような言葉が掲げられている。
根源的であるというのは、物事をその根本においてつかむことである。ところで、人間にとって根本的なものは、人間そのものである マルクス『ヘーゲル法哲学批判』
マルクスは、これを宗教批判の文脈の中で述べているのだが、ここにルカーチのテキストの趣旨が集約されているように感じる。これは批判とは何かということでもあるし、現存の社会的カテゴリーを解体し、人間の諸関係総体から、再構成的に叙述するということでもあろうと思う。ルカーチは、しばしば、人間の諸関係の総体という言葉を使う。これが、マルクスの言葉の中にある「根源的なもの」ということだろう。ただ、では、具体的な社会現象と社会関係総体をどう関連付けるのか、という話になると少々わかりにくい。これを問題意識の一つとしたい。おそらくは、モデルとして念頭にあるのは、マルクスの「資本論」や「経済学批判」なのだろうけれど。第二に、批判を方法とした場合、根源的な把握は可能になるかもしれないが、そこからいかなる実践的な代替プランが出てくるのか、わかりにくい(ここは近代経済学や政策諸科学から常に批判される点だろう)。つまり、理論と実践の関係が、社会の全体構想との関わりの中で、どう位置づけられるのか、見えにくいのである。また、これに関連して、全体構想なるものは、抑圧装置に転化しないで済むのかどうか、という点も問題になるだろう。この点を第二の問題意識としたい。
そもそも、ルカーチが、このテキストを構想したのは、自ら深くコミットしたハンガリー革命の失敗の原因をイデオロギーの問題として分析することにあったと言われている。この問題は、非常にアクチャルで、現存秩序やメディアを中心にした操作性という問題や社会認識のカテゴリー形成という問題とも絡む。イデオロギーの問題は、現在進行中の問題なのである。
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