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芭蕉の俳句(171)

■旧暦4月8日、月曜日、肌寒い一日

(写真)Untitled

兼業は、中高生に英語と国語を教える仕事なのだが、これはこれで、興味深い。なにより、若い世代と話しをしたり、教えたりする行為が面白い。子どもの質問や間違いは、期せずして社会や歴史の本質に触れていることが多いのだ。しかし、ふたつの仕事を同時に行うのは、身体的にきつい。今は、諸般の事情で仕方がないが、ゆくゆく、翻訳と文筆に仕事を統合していきたいと考えている。



岱水亭にて
影待や菊の香のする豆腐串


■元禄6年作。影待とは、正月、五月、九月の吉日を選び、斎戒・徹夜して、翌朝の日の出を拝すること。親戚・朋友を集め、種々の遊び事をし、飲食をふるまったり、僧、山伏を招いて経文を唱えさせなどした。「日待ち」とも言う。「影」は日影つまり、日光の意。岱水は江戸深川の人。蕉門。楸邨は、この句を「市井日常の生活をとらえながら、そこに根ざした高いものを匂わせている作で、高く悟って俗に帰る心のあらわれというべきであろう」と評している。

「近代化とトポス」との関わりで、この思想をとらえ返してみるとどうなるのか、というのが、今の問題意識で、まだ、なかなか、具体的な形で、句として提出できていないのだが、この線で考えを深めてみようと思っている。詩だけ書いていた頃には、表面しか見えなかった「俳味」の意味が今はよくわかるし、これを見出すことに抵抗がない。「辺境」の中の肯定性であり、歴史の根源的な昏さへの抵抗なのだから。
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