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一茶を読む:七番日記(36)

■旧暦10月16日、日曜日、、波郷忌

(写真)Lausanne駅の日曜の朝

半袖で、ウォーキングしたのが祟って、一発で風邪。熱が出て、終日伏せる。家人らに呆れられる。

昨日は、Valery Afanassievのオール・シューベルト・プログラムへ行く。「楽興の時」と「幻想ソナタ」、アンコールが前代未聞の2曲。ともにブラームス(ブラームス:ラプソディ2番Op. 79-2とブラームス:前奏曲Op. 116 第6番 間奏曲ホ長調)。ぼくが記憶する限り、アンコール二曲は初めて。しないのが普通。数年前に一曲、アンコールしたことがあるだけである。物凄い演奏なので、完全に打ちのめされてしまった。楽屋で少し挨拶したのだが、まったく言葉がでてこない。マエストロは、元気であった。あれだけの演奏しても、声がでかい。多数のお客と立ち話。本日、朝に帰国の途についたらしい。来年11月にも、リサイタルを行う予定と聞いた。

演奏全体の感想は、やはり、マエストロは、完全に音のしもべに徹しているという印象を受けた。どんなに技巧的に巧い演奏を聴いても、心が動かされることは少ないものだが、マエストロの演奏は、音を完全に自分の身体にいったん取りこんでいる。そうして出てくる音は、身体の一部であり、音楽のしもべとは、自分の外部の音に仕えるのではなく、演奏家自身が音と化すことであるのだろう。これは結果として、現代の演奏形式へのアンチテーゼであり、批判なのだと思える。身体化された音は、普通の解釈と異なっていても、どこか自然に、こちらの身体に入ってきて、なんらかの強い反応を起こす。マエストロの演奏の本質は、時間の長さというよりも、音楽の身体化あるいは身体の音楽化なのではなかろうか。前頭葉だけで解釈しているのではなく、身体全体で咀嚼しているように思えるのである。

30年前に録音された「幻想ソナタ」と今回の演奏は、演奏の時間を含めて、かなり変化した印象を受けた。これは、解釈が変化したというよりも、音楽と身体の関係が変化したのだと思えるのである。

シューベルトの音楽は、牧歌的でウィーンの地方性の体現という語り方から、絶望的な現実と手の届かない幸福への憧れという語り方に変わってきたが、この解釈の変更は、後期のピアノソナタの存在が大きいのだろう。今回のプログラムは、前期の「楽興の時」と後期の「幻想ソナタ」という取合せで、意図としては、プログラムノートのあったように、前期・後期の連続性を明らかにすることだったのかもしれない。マエストロが弾くと、確かに、連続性が見えたような気がする。つまり、どちらにも、両面があるという意味で。

ただ、音楽のロジックというのは、確かに、存在し、連続性だけではなく、対照性・断絶性もともに浮かび上がらせる。音楽のロジック(あるいはソナタ形式、サロン用・教育用の目的)といったものと、作曲家の人生全体との緊張関係が、このプログラムの論理的な意味だったのかもしれない。

実際に、ピアノを弾ければ、ずいぶん、違ったアプローチで、マエストロの演奏を語れると思うのだが、こうした抽象的な語り口でしか語れないのが少し残念である。



大仏の鼻から出たり煤払い   文化十五年十二月

■ユーモアに惹かれた。鎌倉の大仏を思い浮かべた。鼻から出られるかどうか確認していないが、二年前に、数十年ぶりで鎌倉大仏と対面したとき、その憂愁の深さに打たれた。







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