goo

L・Wノート:確実性の問題(26)


■旧暦9月26日、火曜日、

(写真)Bernの路地、中世の光と影か?

11月か。長い低迷から、ようやく出口が見えてきた。11月は、いくつか、並行して仕事を進めるので、気合いが入っている。午後、久しぶりにウォーキング。江戸川河川敷のコスモス畑が満開だった。藪から突然、兎が出て来て草を食んでいた。珍しこともあるものである。そう言えば、来年は兎歳か。

コンビニで立ち読みしたとき面白そうだったので、『7人のシェイクスピア』1、2を購う。シェイクスピアについては、昔から、F.ベーコン=シェイクスピアとか、諸説ありますね。



ヴィトゲンシュタインの「確実性」の議論等を知識社会学・科学社会学へと読み替え、知識・科学分析を行っている人は、エジンバラ大学のデイヴィッド・ブルア(『知識の社会理論』『数学の社会学』)を始め、かなりいるらしいことがわかってきた。もう、30年以上も前からである。やはりなと深く納得する。マルクスやルカーチ、マンハイムの考え方とどう異なった地平を切り開いているのか、興味あるところなので、ぼちぼち、検討してみたいと思っている。

560. Und der Begriff des Wissens ist mit dem des Sprachspiels verkuppelt.

そして、知識の概念は言語ゲームの概念と一体である。

■知識が言語ゲームの一つであることを述べた印象的な断章。このimplicationは、興味深い。知というものが、最終的な根拠を持たないということであり、同時に、確実性と結びついているということだからだ。この確実性は、行動、つまり生活が保証している。

ヴィトゲンシュタインは、面白い例をあげている。物理学の命題に従って自分の行動を律している現代人と、それを正当な根拠と見なさずに、神託こそ正当だと見なす人々が出会ったと仮定し、神託に従う人々を「誤り」とわれわれが見なすとき、われわれは自分たちの言語ゲームを拠点として、そこから彼らの言語ゲームを攻撃しているのではないかと問いかける。このとき、われわれは、なぜ、物理学の命題が正しいのか、理由をいくつもあげようとするが、どこまで、その理由を遡るかが問題だと、ヴィトゲンシュタインは言う。理由の連鎖の終わるところに「説得」が来ると。これは宣教師が原住民を入信させるときの行動と同じだという見事な洞察を述べている。(断章608、609、612)

知の根源的な批判は、知の否定ではないはずである。知の疎外や物象化といった現代的な課題を乗り越え、「解放」へと至るプロセスに位置づけられるべきなのだろう。





コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

11月1日(月)のつぶやき

08:56 from goo
L・Wノート:確実性の問題(25) #goo_delfini2 http://blog.goo.ne.jp/delfini2/e/c8eb751c320e6edf0e703748c9f9e38a
by delfini_ttm on Twitter
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )