verse, prose, and translation
Delfini Workshop
芭蕉の俳諧:猿蓑(41)
2009-10-24 / 俳句
(写真)無題
腰の調子は徐々に回復。起きて歩けるようにはなった。長時間の作業はまだきついが、週末、完全に休養すれば、回復してくるだろう。
一昨日の近火は、殺人事件に発展した。21歳の千葉大の女の子が、刺殺されて放火された疑いが強くなった。なんとも痛ましい事件である。ワンルームマンションの玄関には施錠はしてあった。出窓から侵入したらしい。
たましひのそこだけ軽き火事の跡
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この数日、ベッドに横になっていたので、何冊か、本を読んだ。その一冊、長谷川櫂著『和の思想』(中公新書)は非常に面白かった。「和」を異質な物(者)どうしを共存させる運動と見なしていて、これを日本文化の特徴ととらえている。先生の他の本を読んでも感じるのだが、先生は、建築になみなみならぬ関心を持っている。これは文化を考えるときに、非常に正しい着眼で、マンハイムも言うように、「空間のあり方が考え方を規定する」からである。
異質な物(者)どうしを共存させる原理を「間・沈黙・余白」のコミュニケーションに求め、俳句や絵画、華道、多神教などの日本の文化に広く見られるコミュニケーションの特質と考えている。この本を読むと、俳句が、まさに、「間・沈黙・余白」を表現する文芸であることがよく理解できる。逆に言うと、俳句の饒舌さが、社会の近代化・グローバル化と軌を一にしていることも了解されてくる。
先生の本を読んで思ったのは、先生は、言葉の正しい意味で、愛国者なんだと思う。その意味で、共感できる点は多くある。ぼくがこの本を読んで感じたのは、おもに3点ある。一つは、戦後の「和」とくに、バブル期あるいはそれ以降の「和」は、われわれの周辺から見えなくなった「和」への郷愁があると先生は述べられている。これは一面当たっていると思うが、このときの「和」は西欧をいったん経由して日本人が再発見した「和」であり、ブーメランのような逆japonismeの面もあるのではないか、という点。第二に、「間・沈黙・余白」のコミュニケーションを起動させる土台に、先生は、兼好の言う「夏をむねとすべし」という日本の風土の蒸し暑さを上げられている。この点は、説得力はあるのだが、兼好の空間思想もまた、空間に規定されている。つまり、兼好は宮廷に近い京都人であるという点。関西の空間的(物理的なだけでなく、政治経済的な空間という意味も含む)な特質から、この「夏をむねとすべし」は生まれている。たとえば、日本海側や東北、北海道などの豪雪地帯では、異なった空間思想があり得る。もちろん、京都は政治文化の中心であり、これが日本建築のスタンダードになった可能性は十分にある。ただし、地方の空間特徴から生じた空間のありようと中央のスタンダードとの間で「和の運動」が起きた可能性を見逃すことはできないだろう。第三に、芭蕉のついての評価がある。これは、先生の議論の大筋からは外れるのだが、ぼくが、興味を持っている点なので、触れておくと、芭蕉以前までの俳諧は、ただの言葉遊びだったが、芭蕉が心の世界を俳諧に持ち込んだことで、千年の歴史のある和歌に俳諧が匹敵する文芸になり得た、というのが先生の芭蕉評価の大筋である。まったく、そのとおりだと思う。芭蕉の発句をすべて検討してみると、鮮やかに、変化の跡を辿ることができる。このとき、ぼくが思ったのは、芭蕉は、俳諧の歴史で画期をなしたことは確かだが、別の面から言えば、和歌に戻ってしまった面もある、ということだった。言葉遊びを俳諧がしていた時代は、ただ、和歌をパロッておちょくっていたのではなく、これまでの美意識に対する強烈なアンチテーゼがあったはずである。その中核にあったエネルギーは笑いだったように思う。蕉門の俳諧はもちろん、単純に和歌の美意識に戻ったわけではなく、俳味を意識して、和歌の美意識をずらそうと試みている。ただ、当初の俳諧が持っていた野卑な笑いのエネルギーは、洗練とともに薄められていった面があるのではなかろうか。このとき、芭蕉の「軽み」を「笑い」と関連付けることはできると思うが、笑いの強度という点で言うと、言葉遊び時代よりも後退した感は否めない。もちろん、今さら、言葉遊びの時代に戻っても、ペラペラのくだらない軽薄な俳句しかできない。ここには、芭蕉の「軽み」以降の「笑い」をどう考えるかという問題が潜んでいるように思える。一つ、ヒントになるか、と思っているのが、芭蕉の俳諧の検討である。発句だけを読んでいると見えない笑いの諸相が、蕉門の俳諧に見受けられるからである。
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ほとヽぎす皆鳴仕舞たり 芭蕉
痩骨のまだ起直る力なさ 史邦
■この二句で、作られている世界は、先の上皇たちの島流しの世界を継続しながらも、断ち切っている。病人が杜鵑の声を聞かなくなった、というのは、冥土の鳥との異名を持つこの鳥の声が止んだということで、病人が危機を脱したということも意味するようだ。どうも、歌仙は、ペアで一つの世界を構成するらしい。それでいて、前のペアとは、断絶と関連という二重の関わり方をするものらしい。
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