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ゲルネ&エマールのシューマン

■旧暦8月23日、日曜日、

(写真)タケミツメモリアルの午後の光

今日は、朝早く起きて、江戸川を散歩する。帰りに、江戸川スロープについて、アンケート調査を受ける。朝食の林檎を食べてから、ゲラのチェック。その後、オペラシティへ出かける。


故郷の山の名つきし林檎かな

夕焼けを捥いできたりし林檎かな

はるばると旅に誘ふ林檎かな


マティアス・ゲルネとピエール=ロラン・エマールの歌曲を聴く。その後、神戸の旧友と池袋で飲む。彼は、大阪で同じプログラムを聴いたが、アンコールはなかったらしい。オペラシティでは、3曲のアンコールがあった。残念ながら、曲目をチェックしていない。ゲルネはまったく初めて聴いた。

伴奏したエマールは、現代音楽のスペシャリストとして、以前から知っていたが、CDの印象は、あまり良くなかった。メシアンでは、きれいだが音が軽く聞こえ、フーガの技法では演奏が速すぎると感じた。しかし、ライブは違った。非常に澄んだ音色であったが軽いわけじゃない。速度も違和感がない。バリトンのゲルネを凌駕する勢い。アファナシエフにも通じる弱音の美がある。エマールは要チェックのピアニストであると思った。

バリトンのゲルネは、伸びのある声と声量の持ち主。ぼくは、歌曲は、もっぱら、CDで聴いてきたので、ライブでの比較対象の記憶ストックがない。ぼくの中で最高の男性歌手は、いまだに、夭折したフリッツ・ヴンダーリッヒなのである。1966年に事故死しているから、当然、ライブは聴いていない。

プログラムは、
ベルク:4つの歌曲 op.2
シューマン:女の愛と生涯 op.42
シューマン:リーダークライスop.39

このプログラムは、もちろん、シューマンの「女の愛と生涯」が注目される。普通は、女性歌手が歌う作品だからだ。この作品は、女性歌手には評判が悪いらしい。詩が男性から見た都合のよい女性像だからだ。しかも、19世紀のドイツ家父長制社会の中での理想像である。これを男性のゲルネが歌うのだから、男性による女性の理想像であることをいやでも意識させる。この選曲には、その意味で、批評性があると思う。女性が、この選曲をどう感じたかは、なかなか、興味深い点である。

シューマンは、シューベルトの歌曲に比べて、洗練度が高いと思うが、その洗練度は、曲中の調性の変化によるのではないだろうか。単語の中の最後のシラブルの発音が長く、その中で、調性が変わるように思えるのだが、楽譜がないので、確認のしようがない。

シューマンが神経を病んだ理由の一つには、経済を妻のクララに依存せざるを得なかったことが、大きかったのだろう。ピアニストの妻のヒモのような生き方は、家父長制社会では、今の何倍もストレスがかかったはずである。シューマンは、社会の中の女性の理想像に同調しようとすればするほど、その向うに鏡のように立っている男性像と現実の自分の間のギャップに苦しんだに違いない。とすれば、ゲルネは、シューマンの苦悩を、シューマンに代わって、男性の声で響かせたとも言えるのではなかろうか。
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