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ドイツ語の俳人たち:Haiku von der Mondschau(1)

■旧暦8月29日、土曜日、

(写真)無題


屋上は芒茂れる下谷かな

自画像
鬼瓦のやうな男やアップルパイ

坂また坂金木犀の雨しづか




午後から紀伊国屋。ロシア語関係の参考書、辞書等を仕入れる。その後、哲学塾に出る。断片的に知っている知識が、統合化されるので、この塾は楽しい。今日は、カール・マンハイム、ルカーチ、ベーラ・バルージュなどハンガリー系知識人たちの話を聴く。

この中で、もっとも印象的だったのは、マンハイムの著作『イデオロギーとユートピア』(1929年)の話で、I先生によれば、マイハイムのこのテキストは、テーマという点で、ハイデッガーの『存在と時間』(1927年)、ルカーチの『歴史と階級意識』(1923年)と同じ系列に連なるものという。出版年を見ると、ルカーチが、この問題圏に先鞭をつけたとも言えそうである。マンハイムのこの本のテーマは、二つある。一つは、イデオロギーが空間と関連していること。言いかえれば、イデオロギーは社会集団と関連がある。これをマンハイムは、「思想の存在被拘束性」と呼んでいる。一方、ユートピアは、時間と関連する。ぼくが思ったのは、この場合の「時間」は、救済を前提に直線的に流れるキリスト教文明の時間で、その意味で、近代になって産業社会の成立とともに世界化した近代的な時間ということはできる。

「思想の存在被拘束性」というマンハイムあるいはルカーチの考え方は、アイデンティティという問題に、一石を投じるように思った。アイデンティティは、自分は何者であるかという問いに答えを出す行為を意味するが、アイデンティティは、それが、外部に向かって反転すれば、排除や殲滅の論理あるいは感情に転化する。このとき、「思想の存在被拘束性」は、アイデンティティの時間性・空間性・運動性・重層性を開示する。これは、端的に言って、アイデンティティを粒子のように解体する方向に作用する。解体されたアイデンティティは、反転しても、排除や殲滅ではなく、アイデンティティどうしが入り混じるのではなかろうか。こんなことを思った。

今、ふいに思いついたのだが、(日本ばかりではないのだろうが)「学界」という世界は、他のどの世界よりも権威主義的で、たとえば、東大・京大など有名大学出身あるいは有名大学教授という存在が、考え方の正当性を保障する。その意味で、マンハイムの「思想の存在被拘束性」が実証されている最たる領域なのではないだろうか。つまり、何らかの言明が正当性を持つには、言明の発信主体の社会的権威が大きく物を言うのである。これは、なにも学界ばかりでなく、社会全般の傾向だが、面白いのは、存在に権威がない場合、言明の正当性を得るためにどうするか、ということである。この場合、科学的手続きを取ろうとするのである。たとえば、社会学系なら、実証主義の手続きに則る。この手続きに則ると、そのプロセスの検証は問題になっても、言明自体は問題化しない。なぜなら、その実証主義的なプロセスは、論理的に透明で、テスト可能だからだ。これなら、権威的な人間にも納得できるというわけである。これが、社会学系で、哲学的な思索ではなく、科学的な手続きが歓迎される本質的な理由の一つなんだと思う。さらに面白いことに、学界エリートたちの言明も、「実証されるべき仮説」と位置づけられることが多い。エリート(海外の研究者という場合もある)が仮説を作り、その他(日本の研究者という場合もある)が実証する。こうした考え方の基底にある存在は、ヒエラルキーを伴なった神学的存在(ルカーチ)なのではなかろうか。もともと、こういう集団には、批判的な学は、なかなか、育たない(のではなかろうか)。



ドイツの俳人たちが、先日、仲秋の名月に月見の句会を開いた。そのときの句から、いくつか紹介したい。


Alle eingestiegen,
der Bus fahrt los
Richtung Mond

Udo Wenzel


全員乗車完了
バスは出発する
月に向かって


■句会主催者、Udo Wenzelの冒頭のあいさつ。


voller Herbstmond
in meinem traum dreht er sich
um

Gabriele Reinhard

満月
夢の中で
ぐるりと回った



Kranichrufe…
der Weinmond teilt die Wolken
über dem Meer

Ramona Linke

鶴の声
葡萄の月が雲間からのぞく
海の上


■der Weinmondは、なかなか面白い表現ではなかろうか。葡萄の収穫シーズンに見る月、という意味に受け取った。季語としても面白い。
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