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ドイツ語の散文家たち:Lukács「歴史と階級意識」(2)

■旧暦8月24日、月曜日、、体育の日

(写真)秋の空

今日は、朝からゲラのチェック。朝の光は完全に十月のものになっている。小津の映画が観たくなった。午後、掃除、また、チェック。夕食につみれ鍋を作る。新米が届く。


秋日和小津の映画をのんびりと

十月や光と影の朝の皿

去来忌や友と議論の夜は更けて



昨日、久しぶりに神戸の盟友といろいろ議論したのだが、金をめぐるパラドックスというテーマでいくつか、考えてみた。一つすぐに浮かんだのは、「金はあっても精神的な自由はない。精神的な自由はあっても金がない」これは、組織人となると、心のありようまで変質せざるを得ない事態を指している。そして、自由業となると、今度は、経済的に不安定になる。もうひとつ「金はあっても健康でないので使い道がない。健康であっても金がない」これは、お年寄りを介護するようになって感じたことで、心身の健康が人間にとって、重要な要素だということを指す。さらに、「エリートだから金持ちになるのではない。もともと、金持ちだからエリートになるのだ」これは、たとえば、ユダヤの知識人の形成プロセスを考えてみると、たいていが、金融業や大工場主や大商人の長男である。ユダヤは差別されるので、差別がない分野で活躍せざるを得ない。このため、ユダヤの金持ちは、長男に莫大な教育投資を行う。また、ミルズの言う、パワーエリートどうしの相互扶助がある。この結果、知識人として成功する率が高くなる。このパターンはサイードなどのパレスチナの知識人にも、日本の知識人にも言える。こうしたパラドックスは、他にも、いくつか考えられるが、人間の行動を根本的なところで規定しているのは、金だという点で、ぼくらの意見は一致した。この半年で、ぼくが一番印象に残った言葉に次のものがある。「お前の芸術は金になるのか」これは、なかなか、強烈で、結局のところ、いささか狂っているにしても、欺瞞に満ちているにしても、資本主義システムの中に生きている以上、この命題を突破しないことには、何も始まらない、ということを意味している。

今、金が根本的と言ったが、可視的なレベルでは、あるいは、同じことだが、経験的には、これは妥当するように見える。しかし、実は、人間にとって金よりさらに根源的なものがある。人間の社会諸関係である。金も権力と同じように、社会関係が生み出したものだからだ。所与の経験や事実、カテゴリーから出発しない認識のありようは、本来的に批判的な学と言えるだろう。マルクスがキリスト教批判から得た洞察。それを引き継いだルカーチ。この二人を検討するとき、この社会諸関係から批判的な認識をどのように再構成しているのか、そして、それを今、どう応用できるのかが、重要なポイントになるのだろう。




歴史は、…人間があい集って社会をかたちづくるときの形態の変化の歴史であり、経済的な物的関係からはじまって、人間相互の関係の全体(したがってまた、人間の自分自身にたいする関係や、自然にたいする関係なども含む)を支配している形態の変化の歴史にほかならないのである。

(「階級意識とはなにか」『歴史と階級意識』p.273 平井俊彦訳 1998年 未来社)

■「人間相互の関係の全体を支配している形態の変化の歴史」が歴史だという認識は、根源的だと思う。問題は、こういう認識から何が見えるのか、ということだろう。つまり具体的なテーマと全体論の関係性がない。
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